2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

砂連尾理『新しい公共スペースを再考するためのダイアローグ──カモン! ニューコモン!!』

会期:2014/03/16

名取市文化会館[宮城県]

昨年8月から何度かのワークショップを繰り返し、3月にも3日間のワークショップを経て行なわれた「ボディミーテング」と称するイベントを取材に行った。ファシリテーターは砂連尾理。宮城県名取市は、東日本大震災によって911名の死者、40名の行方不明者、5,000棟以上の半壊以上の建物を出した被災地(データはウェブサイト「名取市における東日本大震災の記録」に基づく)。今回の会場になった名取市文化会館は、とても立派な建築物を有しており、大震災の際には避難所になったところでもある。避難所になったとき、通常の活動ではありえない数の市民が訪れ、利用した。市民はそこで主体性を発揮し自治を発生させたという。有名芸能人の公演以外にあまり興味を示さない受け身の市民が、生活が困難な状況のなかで、文化会館を主体的、能動的に利用した。その事実は残ったものの、通常の活動が再開されると、市民の多くは文化会館へ足を運ばなくなり、会館に対して大震災以前の受け身の状況に戻ったのだそうだ。いや、「戻った」といっても、多数の死者が出、多くの家屋が壊れ、ひとの繋がりが切れかかっている現実を顧みれば、市民の生活状況はかつてと同じはずはない。その危機のなかで、どう皆が協同する力を獲得するかという喫緊の課題に、市民は直面していた。砂連尾理の市民への働きかけはそうした最中になされた。2時間ほどの「ボディミーティング」は次のように行なわれた。市の文化財に指定されている「閖上大漁唄込み踊」を継承する婦人会の方々20名ほどが踊りを披露し、その後、ワークショップ参加者が踊りを習い婦人会の方々と一緒に踊った。後半は、ワークショップ参加者がつくった名取市をテーマにする詩を七等分し、言葉一つひとつに即興で振りを付けて、皆で踊った。簡単にいえば、伝統的な踊りと(コンテンポラリー)ダンスとが交流したという会だった。砂連尾は、地元のご婦人方を尊重し、そのうえで、新しいアイディアのもと、皆でつくったダンスにご婦人方を招いた。ワークショップ参加者は20代から50代のおおまかにいって地元の方たち。彼らは、伝統的なダンスと新しいダンスを同時に実演しながら、たんに古い/新しいダンスを知るだけではなく、コミュニティの形成という課題について考えることとなった。ダンスを交換したあと、ワークショップ参加者を中心にディスカッションがあった。そこでは、協同する力をめぐって議論が起きたが、主として話題になったのは会館の運営についてだった。どうすれば震災時の主体的だった市民の姿を再び見ることができるのか?それを望むならば、管理意識の強い現今の会館の運営はプラスに機能していないのではないか?会館が立派すぎて敷居が高くなっているのではないか?こうした企画と市民とが気軽に交流できる導線づくりが不可欠ではないか?などの問いが、議題に上がった。ここにあったのは、震災以後の問題にあわせて、ずっと問わずに済ませてきたかも知れない震災以前の問題であり、その二つの課題が一気に露呈しているところに、困難さとともに可能性もあるように思う。ただし、こうした試みが一過性のものであっては力にならない。継続的な活動が不可欠だ。

-カモン!ニューコモン!!- announce.1

2014/03/16(日)(木村覚)

関かおり『ケレヴェルム』

会期:2014/03/14~2014/03/16

シアタートラム[東京都]

十数回の暗転を繰り返して、5分ほどのシークェンスが淡々と繋がっていった。90分。ほぼ無音。唯一アンプから発せられたのは、数回のため息の声。肌色に近い灰色の衣裳と床に敷かれた鏡映りする素材のほかには、どんな飾りもない。猛烈にストイックな舞台に、関かおりの美意識が描かれた。1人のシークェンスもまた5人以上のシークェンスもあるが、多くの場合、ゆっくりと姿勢を変えながら、2人か3人かが体を絡み合わせる。互いに頬を重ね、こすったりと、親愛の情を示しもするが、彼らの様子は基本的に人間性を欠いている。フィクショナルな未知の生物? 動きに羞恥心を感じさせないところがあり、そんな無防備さゆえに被虐性が感じられると、ずいぶん昔に会田誠《ジューサーミキサー》(2001)に興味を惹かれると関が筆者に話してくれたのを思い出した。男性を女性が抱え上げるなど、アクロバティックな流れも生まれるが、ゆっくりなので、スピードがあれば可能な目くらましも、アスリート・ライクな派手さもない。もっと滑らかに動くことが目指しているのではと思わされるぎこちなさがないわけではないが、奇妙だが美しい生命体がうごめいている状態は、見応えがあった。滑らかな美しい身体の佇まいは、まるで陶器のようだが、この陶器は現代的なアレンジが施されていて、美しさに勝るグロテスクさが漂っている、そんな感じだ。「21世紀のアールヌーヴォー」なんて言葉も浮かんできた。バレエのように緻密なルールと身体訓練がなされた果てに達成しうるダンスであり、その意味で「新しいバレエ」と呼んでもいいのかも知れない。ただ、この一種の審美主義がどんな波紋を巻き起こしていくのか、ぼくにはまだよくわからない。

関かおり インタビュー「ケレヴェルム 金沢ver.」

2014/03/15(土)(木村覚)

大橋可也&ダンサーズ『ザ・ワールド』

会期:2014/03/08~2014/03/09

森下スタジオ[東京都]

仮に『あなたがここにいてほしい』(2004)から数えるならば、10年を少し越えた大橋可也の活動は、いつも一貫して「生きづらさ」にフォーカスしていた。新作『ザ・ワールド』を見ながら思っていたのは、絶えず変化と進歩を目指して走り続けていたこのカンパニーが、変わらずにずっとこだわってきたもののことだった。土方巽から始まり多様な派生物を生み出してきた舞踏というコンセプトが、たんなる歴史的な遺産としてではないかたちで、今日もなお生きて働く運動体そのものであるとすれば、例えば、大橋のこの10年ほどの試みを無視するわけにはゆくまい。その特徴は、暗黒舞踏の「暗黒」は日常とは別のところにあるのではなく、日常そのものが暗黒なのだと考えるところにある。比較の対象をあげてみよう。舞踏を今日も生きたものにしているもうひとつの存在に大駱駝艦がいる。彼らの公演もまた日常に依拠しているが、日常が非日常的なイメージへとスライドしていくところに彼らの特徴がある。まるでシュルレアリスムの絵画だ。あるいは少年漫画だ。白塗りが引きだす異形性は、そうして見方を変えることで気づかずにいた自分を掘り下げてゆく。そこにファンタジーも恐怖もエロティシズムもある。大橋は、白塗りも派手なファンタジーも用意しない。その代わりに、ごくごく日常的な衣裳を着た普通の男女が、突然、倒れたり、走り出したり、なにかに振り回される。自分の知らない自分のなにかが自分を襲う。大橋はいつもここにいた。このことにあらためて気づかされ、驚いた。今作は、長島確をドラマトゥルクに据え、大橋の住む江東区をリサーチして生まれた、という話だ。なるほど、冒頭で、街にひっそりと据えられた神輿の倉庫に暮らしたいと吸血鬼である男女2人が対話し、その後に10人ほどのダンサーたちが登場するのだけれど、彼らも街に徘徊する吸血鬼たちなのだろう、首や足首に噛みつく振る舞いが何度も繰り返される。「吸血鬼」や「リサーチ」という今作独自の試みは、きっと過渡的なものだろう、もっと街(土地)を感じさせたり、もっとファンタジーを巧みに利用する方途はありうるはずだ。そう感じつつも、そんなことは小さなことだと思った。それよりも大橋の試みてきたもっと大きなことが身に迫ってきた。吸血鬼は自分に戸惑い、自分を突き動かすものに抗えない。「噛む」という行為は彼ら吸血鬼の抗えない暴力性に違いない。大橋はこの10年、暴力の問題に向き合い、自分の作品に摂取してきたが、そのなかで「噛む」という「振り」は、こういっていいかわからないが、なんだかかわいい。エロティックな「愛撫」に転化できたらいいのだが、そうは簡単にはいかないもどかしさが、かわいい。こうして、人間のもどかしさ、生きることの難しさを見つめている大橋は、やさしい。大橋がこの10年の間貫いてきたのは、人間に対するやさしく繊細なまなざしだったのではないかと思う。

2014/03/09(日)(木村覚)

岩渕貞太『斑(ふ)』

会期:2014/03/08~2014/03/09

アサヒ・アートスクエア[東京都]

60分間、自然の景観に身を漂わせているかのような時間だった。ぼくだけだろうか、優れたダンスを前にすると決まってそうなるのだが、舞台上の出来事とは無関係な考えごとに夢中になってしまった。黒沢美香を見ていてもそんな状態になるのだが、おそらくそんなことが起きるのは、目の前の運動に無理がなく、とはいえ常に微妙な変化やズレがそこにはあって、ゆえに見ている者の脳が活性化され続けるからではないのか。ダメだなと思うダンスというのは、見る者に頭での理解を促す。振り付けが伝えたい意味とか、テーマ性とかを読まされる。意味とかテーマの説明に身体が奉仕しているダンスは、曲芸の動物を前にするときのように、息苦しくなる。こちらの開かれたい部分が開かないのだ。岩渕貞太の今回の作品には、その息苦しさが皆無だった。それは、なかなか希有で、すごいことだ。冒頭、三人(岩渕の他、小暮香帆と北川結)が舞台に上がるとジョギング・ウェアに見えなくもない姿で、「ウォーミング・アップ」をはじめた。徐々に体をほぐす。この「ほぐし」が、少しずつバランスを変化させることで、動きのヴァリエーションをつくってゆく。「振り付け」が先にあるというよりは、筋肉や間接の構造が生む身体の性格がひとつの動きを生み、その動きがさらに次の動きを動機づける、そんな風なのだ。だから無理がない。最初は純粋に「ウォーミング・アップ」に見えた動きは、腰や腕や脚の付け根あたりが起こす「ツイスト」によって、たんなる体操ではない、ダンスが生じている。体が生むダンスだなと思わされた。体の構造が、また各自の構造の個性が、ダンスになっている。岩渕がもともともっているグロテスクさへの興味が、ことさらではないかたちで呈示されている、そうも思った。当たり前のようだが、簡単ではない。不意のツイストが、つむじ風のように自ずと生じ、さっきまでのリズムを崩す、変化に富んでいてずっと見てしまう。他の2人が退いて、結果的にソロになる場面など、構成の変化はある程度あるにせよ、ほぼ最初からの状態がずっと続く。きわめてミニマルなのだけれど、強烈な意志が背後にあると感じさせる。上手く説明できないのだが、初めて見る感触だった。この世のどこにもなかったダンス、だけれども、ぐっと引きつけられる力のあるダンスの誕生を目の当たりにした。

2014/03/08(土)(木村覚)

プレビュー:いわき演劇まつり

会期:2014/03/20~2014/03/22

いわき芸術文化交流館アリオス、MUSIC & Bar Queen、アートスタジオ もりたか屋、La Stanza(ラ・スタンツァ)[福島県]

昨年末に、水戸芸術館で目の不自由なひとたちと一緒に美術展を見るという企画に参加した。その企画が始まる前に、展示をざっと見ていたのだけれど、1人で見るのと、グループで目の不自由なひとも隣に居ながら作品を見るのとでは、ほとんどまったくと言ってよいほど異なる経験だった。そういうこと、よく忘れる。作品の純粋な鑑賞なんてない。鑑賞はいつもノイジー。だって、演劇・ダンスの公演なんて、誰とも同じ席で見ることができないのだ。それに、前に背の高く帽子を被った輩が居るかも知れないし、そうして視界が遮られたって、鑑賞は鑑賞なのだ。「どこ」で「誰」と見るかというファクターだけとってみても、鑑賞はおおいいに揺らぐ。誰と生きているのか。「3.11」はその当たり前だけど反省せずにいたことを気づかせてくれた。「いわき演劇まつり」(3/20~22)に行きたい。このイベントで見るマームとジプシー(『Rと無重力のうねりで』『まえのひ』ほか)は格別のような気がする。いや、わからないけれど、でも、そうであったらことだな、と思う。平田オリザのアンドロイド演劇(『さようなら』)や「銀河鉄道の夜」の公演もあれば、地元の高校演劇部の上演(いわき総合高校演劇部『あひる月13』)もある。そういうラインナップが並んだとき、それぞれの作品からどんな気持ちが生まれるのか、わくわくする。ぼくがチケットを買うことで、いわきの観客の席を奪うことにならないのなら、行ってみたい。

2014/02/28(金)(木村覚)

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