2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

東京デスロック『RE/PLAY(DANCE Edit.)』

会期:2014/02/14~2014/02/16

急な坂スタジオ[神奈川県]

ダンサーたち本人の実存(=ダンサーの生/人生)が、曲のリプレイ(と同時に振り付けのリプレイ)を通して、またそれに限らず、シンプルだけれど強固な演劇構造の設えによって、一種の「リアルな物語」として語られる演劇。本作を要約するならば、こう言えるだろう。90分ほどの上演時間は、10曲近いポップソングが一曲につき一度ならず、二度、三度と再生されるなか、ダンサーたちが自分で発案したのだろう短い振りあるいはポーズを数珠つなぎしていき、一曲分の一見でたらめ的即興のように見える動きの連なりを、曲の音量に呼応したダンサーたちのテンションの変化をともないいつつも淡々と繰り返す、その仕組みの遂行にあてられていた。一曲目はサザンオールスターズ『TSUNAMI』。二回目の再生でダンサーは一回目と同様の動きを見せていることがわかり、この作品の構造が明かされた。選曲に「東日本大震災」を連想させられもする。ただ、ダンサーたちの振り付けには、日常の出来事から切り離されたダンシーな要素が色濃い。とはいえ、バレエでもモダン・ダンスでもなく、いわゆるコンテンポラリー・ダンス的な動き。興味深いのは、それらの動きが、個々のダンサーの個性を観客が感受することにほとんど奉仕していない、ということだ。遠田誠、岩渕貞太、北尾亘、きたまり、岡田智代など、単体として見れば十分個性的で、ソロ公演も行なっている魅力的なダンサー/振付家ばかりだ。ただし、この舞台の場では、踊れば踊るほど、彼らは純粋に自分のダンスを見せるというより、演出家の多田淳之介に設えられた「演劇構造の枠」のうちに取り籠められてしまう。いや、「取り籠め」られるからこそ出てくるものがあるのであって、二曲目のビートルズ『オブラディオブラダ』で10回ほども曲がリプレイされ、新たにイントロが鳴るたびに、最初のポジションに戻りポーズを決め、先の振りを繰り出しはじめるダンサーたちを見ていると、演劇というよりは、まるでポスト・モダンダンス(ex. ジャドソン・ダンス・シアター)の舞台みたいだと思わされてしまった。つまり、審美的な振り付けというよりも、シンプルな行動の約束ごとを設定して、それを遂行している、というように見えたわけだ。個々のダンサーの思惑とは別に、リプライが重ねられるたびにダンサーが表現主体ではなく客体(オブジェ)化していく、そうなればなるほど、舞台は独特の充実した状態を達成していった。ところが、全体の2/3が終わったあたりで、突然、ダンサーたちが喋りだすと、様相は微妙に変化した。「今度いつ会えるか」などの会話から察するに、ダンサーたちは中華料理屋でこの公演の打ち上げをしている。そのあと再び、曲が鳴ると、リプレイの遂行が再開された。ここからダンサーたちは水をえた魚のように、これまでの抑制された動きから解き放たれて、主体的に踊りだした。「振り付けのリプレイ」という構造は相変わらずで、だからもちろん、躍動的に踊れば踊るほど、多田の「演劇構造の枠」に絡めとられ、演劇的に見える。「ダンサー」という役のダンサーたちは、踊れば踊るほど「ダンサー」という「役」を演じることになる。自己顕示欲にかられた、ナルシスティックな、踊らずにはいられない男や女の「リアルな物語」。くたくたになって「倒れる」が、本当は毎日何時間でも踊り続けてしまう人たちのはずで、疲れていないとは言えないとしても疲労した様子は一種の「演劇的」仕草でもあるはず。バレエ作品『ジゼル』にも、踊り狂う場面はあるけれど、ダンサーの踊らされる運命と踊りたい欲望の相克が、ここでは演劇的効果のなかで露呈させられていた。そこが「うまい!」とも言えるし「残念!」とも思う。演劇的な理解に回収されぬままに、ダンサーの狂気を(これはただ踊っていても表われない、一種の批評的視点が必要だ、故に)一種の批評的な「枠」にとじ込めつつ見たい。けれども、これを実践すべきは演劇を企図する作家ではなく、ダンスの分野の作家たちであって欲しい。

2014/02/14(金)(木村覚)

捩子ぴじん『空気か屁』

会期:2014/02/11

横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール[神奈川県]

捩子ぴじんがまず舞台に入る。ふわふわと踊りだす。真後ろに白いカーテンが揺れる。その揺れと捩子の動きが重なり響きあう。大駱駝艦に所属したこともあるその身体は、十分に見応えのある「曖昧さ」を見せ続ける。そのダンスの密度にあっけにとられていると、不意に踊りは止み、次に音楽家のカンノケントがあらわれる。背の高いカンノがじっと立つ。何もしない。舞台上の身体とは不思議だ。何もしなくても、いや、何もしないときに、見ないではいられない質がうまれることがある。なんとなく、そんな「質」に見とれているときに、不意に「ばあ!」とカンノはふざけたポーズを見せた。驚かされるが、そこに演劇的なあるいはダンス的な質はない。むしろ個々の観客たちと地続きの身体がそこにあるということに、観客は気づかされる。捩子とカンノはしゃがんで指で数を数えたり、床を軽く手で叩いたりした。次に、さっきまで寝ていたようなぼんやりした顔の男(篠原健)があらわれて、言葉みたいだけれど無意味な音を口にし続けた。最後に女(若林里枝)があらわれる。無意味語を発し続ける男の脇で、声を出して笑う。彼女はリラックスしていて、この場を相対化してゆく。出演者が全員舞台に登場したあとで、寸胴に溜まったヨーグルトらしき液体に一人一人顔を浸けた。白いカーテンとも呼応する、柔い白塗りが生まれた。おかしな化粧はテンションを微妙に上げた。4人は、さっき捩子とカンノとで行なっていたリズムの生成を始めた。ケチャのようでもあるが、静かで、あまり複雑にはならない。個々のリズムに没頭して、全体で音楽みたいなものになっていった。若林が篠原を被介護者に見立てて介護の動作をはじめた。これもまた日常と地続きの行為。それに音楽みたいなものが重なる。日常の光景から立ちあらわれるロー・テンションの祭り。そう、見ていてずっと感じていたのは、ここにある独特な祭り性だった。この独特さに似ているのは、最近の手塚夏子の上演だ。一般的な伝統の継承とは異なる仕方で、あくまでもコンセプチュアルに、純粋に方法的に、祭りをいまここに立ち上げること。手塚の最近の試みをそう称するならば、捩子はまさにそれを実践しようとしているのではないか。派手さはない「ロー・テンション」は、「空気」とみなしてしまうほどの「屁」なのかもしれないけれど、どうしたらいま・ここで祭りが立ち上がるのかという問いは、わかりやすい「派手」さから距離を取らずには、問うべき意義を見失うだろう。横浜ダンスコレクションの受賞者公演として上演された本作。ダンスのメインストリームからかけ離れているかに見えるこうした上演こそが、評価されるべきまったくユニークな試みであり、日本の未来のダンスにとっての道標であるかも知れない。ただし、その道標は、いままだ微かにしか、人には見えていない。

2014/02/11(火・祝)(木村覚)

田村一行(大駱駝艦)『又』

会期:2014/01/31~2014/02/09

壺中天スタジオ[東京都]

しばしば大駱駝艦の壺中天公演は、舞踏の基礎を身に宿したダンサーたちが、既存の「舞踏らしい舞踏」とは別のところに舞踏を導こうとする場だ。今作もそうだった。挑戦的で挑発的でもあるプログラムは、舞踏かどうかと聞かれれば、「舞踏じゃない」と答えるべきかも知れない。ただしそれは、ややもすればダンスの死せる古典としてとらえられかねなくなった日本の前提的なダンス(=舞踏)を、あくまでも現在も生きて働くものとして現代の社会のなかに躍動させる実験として評価されるべきだろう。冒頭、ウエディングドレスを纏った田村一行がうつぶせでうずくまる。その周りに、ガラスの入った杉の戸が田村を囲む。真冬の突風の音。ベタなくらいに「東北」(舞踏の世界)がこうして舞台に置かれるのだが、しかし、あくまでもさらっとしていて、泥臭くない。舞踏のイメージに寄り添いながら、それに耽溺しない。当たり前と言えば当たり前だ。日本人と言えど、現代の私たちは、土方が参照した東北の生活のリアルな面を知らない。いや、土方が取り上げた時点でも、それは忘れられつつある情景だった。それは、モダンな芸術世界を生きる土方が、モダンな芸術を活性化させる試みとして巧みに参照したものに相違ない。杉の戸がカタカタと風に揺れるさまは、過去の日本の世界である以上に、とくに若い観客にとっては、未知の世界への入り口なのだ。田村以外の若いメンバーたちは、柔らかい動きを重ねていく。音楽のニュアンスがそう連想させるのかも知れないけれど、冒頭の北風の音が想像させた寒さよりも、彼らからは熱帯の雰囲気が漂う。彼らの見せ場が、両手で鎌を手にしダンサーの首を刎ねる場面だったことも、そうした印象を強化した。南方性の舞踏というのは、これまた矛盾と言える。ただし、具体的などこかの少数部族の文化を再現するなどと言ったものではなく、あくまでも、「鎌」の扱いが観客に与える「ショック」というものに、焦点が置かれている。戸のガラスに田村が自分の顔を映して、古いガラスの歪みで顔が歪むのを見せた場面でも同じことを思った。つまり、田村は、舞踏のなかのとくに「ショック」の効果を抽出して、世界に歪みを与え、世界の見え方を一瞬変えようとしたのではないか。その目的のためには、舞踏的なアティテュードは、目的に奉仕する部分以外は必要ない。そう考えているのではないか。舞踏とは、この社会においてどんな効果ある役割を担いうるのか、そのひとつのアイディアをこの作品は提出していた。この試みは、まだ実験的なものに見えたけれど、社会のなかに深く入り込んで行こうとする誠実な野心を感じた。

2014/02/09(日)(木村覚)

プレビュー:捩子ぴじん『空気か屁』

会期:2014/02/11

横浜赤レンガ倉庫1号館 3Fホール[神奈川県]

捩子ぴじんが(短編以外では)2年振りの新作『空気か屁』を上演する。2011年の横浜ダンスコレクション2011で審査員賞を受賞、今回の上演はその受賞公演にあたる。受賞作『syzygy』は、一応ダンスの作品なのだが、住宅の壁面の建設に使いそうな平たい板を二人のダンサーがすごい勢いで扱い、ときには乗ったり、乗った後は滑り台のようにそこからすべったり、板が「ダンサー」のようでもあり、ダンサーたちが板のごとき「もの」でもあるという、なんとも不思議な、他に類似する例を探しにくい(板の使用という点ではKo & Edgeの『美貌の青空』を先行例とみなせなくはないけど)「唯一無二」という感触の残る作品だった。同じく2011年には、『モチベーション代行』を発表。これは、コンビニでバイトする自分自身を扱った作品で、演劇的な要素は濃いが、鳥の唐揚げをつくる機械が舞台上で油っぽい匂いをたてているなど、超リアルな作品構成が印象的だった。昨年の吾妻橋ダンスクロッシングでは、心霊現象に遭遇した体験を語るパフォーマンスを行なった。さて、このように紹介すればするほど、捩子ぴじんとは何者かがわからなくなってくる。若いころは大駱駝艦で研鑽を積んだこと、あるいは手塚夏子との交流、あるいは昨年快快とアメリカ合衆国ツアーを行なったこと……説明を増やせば増やすほど、ますますその実体はわからなくなってくるだろう。はっきりしているのは、捩子ぴじんならばなにかをやってくれるということだ。公演日には都知事選も結果が出ている。ぼくたちの生きる道がどんな道筋を辿っているのか、そんな現在と未来に抱く不安と恐れに、捩子の舞台はきっとヴァイブレーションを与えてくれることだろう。

2014/01/31(金)(木村覚)

ヴィヴィアン佐藤、林千歩、有賀慎吾「Orgasmic Reproduction──ざんねんな出産、しあわせな臨終」

会期:2014/01/08~2014/01/26

KOGANEI ART SPOT シャトー 2F[東京都]

三人の美術作家が、タイトルの語るコンセプトをもとに作品を制作し、インスタレーションを行なった本展は、「一般的に目を伏せがちな社会的問題に対して美術作家は何ができるのか?」といった問いを喚起させる展示となった。
本展には作家たちのほかに三人の企画者(大山香苗、花房太一、吉田絵美)がおり、タイトルの造語「Orgasmic」(これは「Organic」と「Orgasm」を掛け合わせた造語だそう)を含め、コンセプトは作家たちと企画者たちとで何度かの議論を重ねた結果だそうで、一見すると「ざんねんな出産」「しあわせな臨終」という言葉が呼び起こす、不謹慎な印象だったり、不穏な感触というのは、ハードコアである一方でデリケートで真摯でもあった展示によって、全面的に解消できるとはいえないまでも、見ないことを許さない力が見る者をとらえていた。ちょうどいま、日本テレビ系のドラマ『明日、ママがいない』をめぐって、表現の自由はどこまで許されるのかといったことが問われている。観客を引きつけるために行なう演出が、事実を歪めて視聴者に伝えることになりかねない。そうした点が問題になるなら、作家は個人のイマジネーションを自由に発揮する以上に、取り扱う現場の事実をきちんと浮き彫りにすることに傾注すべきではないか、なんて思いも湧いてくる。
林千歩(《指人間》)は、家族の住む家の台所や浴室を舞台に、タコに扮した本人が足を切られたり、タコの体内から髪の毛と人の指が出てきたり、あるいは部分的にタコ化した小型犬(本物)がひとの指を食べたりと、いつにもまして生理的にショッキングな映像作品を展示した。筆者もゲストで出席したトーク・ショーのなかで、林は「タコの体内から指が出てくる」というのは、東日本大震災以後に生まれたうわさ話に基づいていると話していた。そうした情報なしに見ると、観客は「肉体の切断」に漂うおぞましさの感覚に囚われすぎて、見ている内に判断力が麻痺してしまうように思われた。これまでの作品にもグロテスクさは含まれていたが、それだけではなくたいてい林は同時にユーモアも混じらせてきたので、前述のような麻痺はしばしば軽減されてきたのだが、今作ではそうはいかない。有賀慎吾の作品(《Human Topology》)にも、観客の思考が「麻痺」してしまう要素はあった。インスタレーション空間に分娩室があり、双頭の胎児がベッドに寝そべっている。ベッドの脇には、出産の模様が映写されているのだけれど、そこでは異形の顔をもった人物が双頭の胎児の出産を試み、白い体液を股の間から漏らしている。ホラー的な空間なのだが、ホラー映画ならば用意されているような古典映画的形式や映画的仕掛けに相当するものは感じられず、まるで斜めの線が引かれた部屋で長時間過ごしたネコが部屋から出た途端に斜め歩きしかできなくなるように、インスタレーション空間が放つ異常な力に見る者の通念は揺さぶられた。林や有賀の作品が、作家個人のイマジネーションが具体物によって形をなしているとすれば、ヴィヴィアン佐藤の作品は、写真家ダイアン・アーバスの写真のコピーを何枚も取り上げ、展示しており、林や有賀の作品とは印象が異なった。写真は事実を語ろうとする。いわゆる「畸形者」や「障害者」と呼ばれることがある人体が写真映像のなかでその存在を示している。そのほかにも、乃木坂46のメンバーに出生前診断について賛成か反対かを質問した記録が展示に添えられていた。作家の「望まれていないとみなされがちな身体」への思いの熱さが伝わる一方で、その思いが個人の偏愛に基づくものかそれ以上のものかは、ぼくには判別しがたかった。
出産や死の現場に立ち会う人間や、その周囲で関わる者たちと異なり、または「うさぎスマッシュ」展(東京都現代美術館、2013-2014)が示唆するような社会変革への具体的な試みを模索するデザイナーたちとも異なり、美術作家は社会とどう関わればよいのだろう。集団で作品制作する場合を除けば、多くの場合、美術作家は個人のイマジネーションを物理的に具現化する。そして、観客はしばしば作品と個人的に向き合う。ゆえに美術作品の鑑賞は、作家という個と観客という個との対話になりがちだ。しかし、そうした「個」による創作から発し「個」による受容に帰結することなく、作品に集団で向き合うことこそ、こうしたテーマの場合であればなおさら、重要なのではないか。そう感じたのは、トークショーでの体験がとても大きい。15人ほどの少人数の会だったので、全員の感想をシェアしたのだけれど、「ざんねんな出産~」ではなく「幸福な出産~」というタイトルだったら受ける印象が違うのではないかと観客のある方が発言した途端に、展示の印象が一変するということが起きた。ゲリラ的に企画者が入れ替わり看板を付け替えて立ち去ったみたいな、些細な、しかしダイナミックともいうべき出来事だった。ほかにも自分の経験や境遇を率直に言葉【に?】する参加者たちによって、感想の交換は充実したものとなった。鑑賞はじっくりと個と向き合う時間でもありうるけれど、閉塞した個を相対化する時間にもなりうる。作品は対話を促進し、意見の一致に至らなくとも互いの違いを確認する刺激剤であればよい。展示のなかに、こうした意見交換の機会があることは、もしかしたら美術作品の可能性そのものを左右することになるかも知れない。

2014/01/26(日)(木村覚)

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