2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

ミヒャエル・ボレマンス「ミヒャエル・ボレマンス──アドバンテージ」展

会期:2014/01/11~2014/03/30

原美術館[東京都]

ベルギーのゲントで活動する美術作家ミヒャエル・ボレマンスの作品は、没入性/演技性、実物/イメージ、意味内容(イメージ)/意味を伝える物質(絵の具)といった対立する二項が見ている者の内でゆったりと行き来する、その遊動の戦略が巧みで面白い。例えば《Holy Child》(2007)、画面一杯に陶器製の女性像が描かれている。右目が淡く白色で塗りつぶされているのが、見ている者の気にさわる。「骨董品故に時間とともに消えてしまったのか、それとも持ち主の作為か」「そもそもではなぜ片目のない像を画家は描いた?」そんな思いに駆られていると、「あ、そうか、これはただのイメージ、いやそもそもただの絵の具の集まり、目の不在はただ白色を刷毛でひと塗りしただけ」「じゃあ、なんで画家はそんなことした?」なんて、気づけば、あれこれと見る者の思いは果てのない旅に誘われている。ボレマンス作品の面白さは、こうした、観者があれこれと心をめぐらせてしまうその仕掛けにあるのだ。タイトルの「アドバンテージ」とは、観者を支配する作家の力に対して与えられた言葉のように思われてくる。この遊動性をこれでもかと展開したひとりにルネ・マグリットがいるが、彼もまたベルギー出身だ。あるいは《Mombakkes II》(2007)はどうだろう。ショートカットの女性がうつむき笑う。しかし、顔は半透明の仮面を付けているようで、表情は曖昧になり、滑稽な雰囲気さえも漂う。「なぜ女性は仮面を被るのか?」「なぜ画家は仮面の女性を描くのか?」なんて問いとともに「とはいえ、これはただの絵の具が施した誇張にすぎない」といった醒めた結論に行き着くたくもなる。笑いがゴールの作品とも思わないのだが、まるでピン芸人のパフォーマンスのようで、見る者がボケに突っ込み入れたりするように、絵画の仕掛けに易々と戸惑わされてしまう。つい手で顔を払いたくなってしまったのだが、うつむいた少女の顔に鳥の羽が4本貼り付いている作品《Girl with Feathers》(2010)は、一体どうやったら、そうした観点抜きに説明できるのだろう。ボレマンスは、絵画というメディア特有のパフォーマンス的次元を生き生きと引きだしている。

2014/01/19(日)(木村覚)

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『薔薇の人』(第16回:メリー・ジェーン オン・マイ・マインド)

会期:2014/01/16~2014/01/19

両国門天ホール[東京都]

何度ぼくは黒沢美香について書いてきたことだろう。その度にぼくはほとんど同じことを書いてきたに違いない。それでいいのだ。黒沢は発展しない。成長しない。むしろ黒沢は自転する星のような存在で、その星の力がいまも健在であることを、体感しながら確認するために見に行くのだ。とくに『薔薇の人』シリーズは黒沢特有の表現の場である。これは「アート」なのか? 「ダンス」なのか? いや、そのどちらでなくてもいい。そうした既存のカテゴリーを超越した、不思議な、『薔薇の人』としか呼べない何かがここにある。これまでの『薔薇の人』も多くの場合そうであったように、数多くの道具が用意され、それが一つひとつ取り上げられ、その道具で不可解な作業が進められ、「実りある成果」と呼ぶのとは別の結果が起き、またあらたな道具が握られる、といった時間が続く。透明なボウルに水が満たされ、糸状のカーテンの端がはさみで切られ、その粉のような緑の糸がボウルに放り込まれ……といった具合だ。重要なのは、一つひとつの作業が統合されゴールに至ることではなく、道具を手にしたとき、これから始まることに黒沢の気持ちが「ちょっとアガる」その一回一回の「アゲ」にある。この「アゲ」は、シアトリカルなオーバーアクションではまったくなく、静かな表情の若干の変化として示される。ときには「アゲ」の気分が高じて一曲踊るまでに達することもあるけれど、黒沢の真骨頂である、あの無表情の顔に起こる微妙な変化こそ、ほかの誰ももちえない魅力なのだ。微妙だからこそ、ぼくらは黒沢の心の内部へと引きつけられる。その秘められた心の躍動あるいはそれがふと垣間見えた瞬間、ぼくはそこに「ダンス」を見る。ダンスとは踊りの型(パターン)の内にではなく、そうした「アゲ」の気分とそれがこぼれてくる様の内にあるのだ。黒沢のパフォーマンスはいつもそのことを思い出させる。踊らずにはおれない気持ちというものが、どう生成するのか、あるいはそれをどう待てばいいのか、そうした点を見過ごさないところに黒沢のダンスへの誠実さがある。道具を手にして、静かに熱くなる気持ち。それをデリケートに伝える黒沢の身体は、ダンスを踊っているようには見えない、いや、そこに微かに示唆されているものこそがダンスなのではないか。黒沢という星が輝いているあいだは、この星の自転を見続けていたい。

2014/01/17(金)(木村覚)

プレビュー:『薔薇の人』(第16回:メリー・ジェーン オン・マイ・マインド)

会期:2014/01/16~2014/01/19

両国門天ホール[東京都]

新年最初のレコメンドは、昨年、舞踊生活50周年を迎えていた黒沢美香の『薔薇の人』第16回公演です。ダンスがなんでありうるのかを、ぼくたちがさまざまに想像(妄想 or 誤読)するのに最良な作品シリーズがこれです。その意味で、黒沢の『薔薇の人』は、ぼくにとってつねに「未来のダンス」なのです。何作も見続けてきたぼくでさえ、毎回、黒沢の「あさって」なパフォーマンスに度肝抜かれますので、初めての方はご安心を(あるいはご用心を)。今回のタイトルは「メリー・ジェーン・オン・マイ・マインド」で、予想通り、1970年代のディスコでかかっていたらしいあの曲がひとつモチーフになっているようです。だからといって、あの曲がかかって、ムード満点ななか男女がチークを踊って……などというありふれたイメージを抱いても、おそらくなんの心の準備にもならないはずです。ちなみに「公演のご案内」には、こう書いてありました。「今回のタイトルはそのメリージェーンから始めましたが、メリージェーンを虫や農夫にして実感に辿り着こうとしています」。なんのことやら!

2014/01/15(水)(木村覚)

広田淳一 演出『包囲された屍体』(カテブ・ヤシン原作、鵜戸聡 翻訳)

会期:2013/12/21~2013/12/23

東京芸術劇場アトリエウエスト[東京都]

「紛争地域から生まれた演劇 シリーズ5」というシリーズの一環で上演されたものがこの公演だ。2009年の「バルカン篇」から毎年開催されてきたこのシリーズは、「中東篇」(2010)、「動乱と演劇」(2011、中国、カメルーン、オーストラリア)、そして昨年(2012、フランス、タイ、イスラエル/ドイツ)と、世界各地の比較的日本ではマイナーな演劇活動を紹介してきた。ぼくは今回初めて足を運んだ。世界の演劇動向を知る機会はもちたいと思いつつ、実際にはなかなかそうしたところまでは余裕がなく、今回出向いたのも、Facebookで強力プッシュする知人にうながされて何となくといった事情で、今作を批評するのにはふさわしいとは言いがたい、不案内な人間によるレビューであることをあらかじめお許しいただきたい。しかも筆者は、今作の演出を手がけたアマヤドリを主宰する広田淳一本人の作品さえ見たことがない。そんなんでいいのかと筆者自身も思わぬではないのだけれど、考えたことを記しておきたい。
原作はアルジェリアのカテブ・ヤシン(Kateb Yacine)。彼は多くのフランス語で書いた詩・戯曲・小説を残しており、実際、フランスやその他の地域で高い評価を得た作家だと言われている。『包囲された屍体』(1959)は、1945年のセティフ虐殺(対独戦勝記念日に行なわれた大規模な独立デモにより、2万人とも言われる植民地当局による虐殺が行なわれた事件)をベースにしている。この事件でカテブ本人も投獄され、そうした経験がもとになっている。戯曲はとても難解。その難解さは、詩のような台詞であることや、主人公が8割ほど死体、2割ほど生きた状態で、自分以外の登場人物と関わっているという設定(この説明は、アフタートークで翻訳者の鵜戸聡氏による語られたことに基づく)、またもちろん、この事件にまったく詳しくないという観客(筆者)の事情などに由来しており、非常な殺戮、人非人な他人の扱いなど、恐ろしい出来事が次から次へと起きていることはなんとなくはわかるのだが、いろいろな意味で、舞台の出来事が遠く感じられてしまった。
しかし、本作で考えたいのは、まさにこの「遠さ」なのだ。
ところで、演劇とは翻訳の作業である。もっとシンプルに言うなら、演劇とは「伝言」の作業である。役者は自分の言葉ではなく、他人(原作者あるいは演出家)の言葉を観客に伝える。演出家は、原作者が書いた言葉の意図を汲み、役者にそれを伝え、役者はそれを具現して、観客に伝える。原作者とは、そうした何人もが中継する伝言ゲームに自らを委ねる存在だと言えるだろう。演出家とは、原作者の意図とどう関わるか選択や決断を求められる存在である(翻訳者もまたしかり)。役者は原作者と演出家の思いを、自分の身体や技量でもって表現しようと努力する。さて、観客は? 観客が受取るのは、いわば何重ものラップを施されたプレゼントだ。受取ったものまるごとが、観客にとってプレゼントではあるのだが、何重もの包み紙をうまく解きほぐして、それらが与えてくれるものを一つひとつ味わいながら、包み紙の奥を探ってゆく、それが観客の仕事だ。
アルジェリアで70年近く前に起こった虐殺。そこへ向けられた原作者の詩的な言葉たち。それを日本語に翻訳し、その日本語をもとに日本の演出家が日本の役者に台詞を喋らせ、日本人の観客がそれを受取る。そのはがゆい「遠さ」。もっとアルジェリアの歴史や言語、文化を知り、作者カテブのことを知れば、もっと諸事情がリアルになり、作品が「近く」なるのだろう。けれども、そんな直球勝負をいちいちの作品に対していつもこなさねばならないのだとしたら、それは正直しんどいし、過酷すぎる。だから、こうした日本の演出家・役者たちによる翻訳の上演があるのだとも言える。そうなのだが、演出家広田の演出は、衣裳や音楽での「無理のない範囲でのアルジェリアらしさ」の演出以外は、どうしても「日本の若者が日本人の観客に向けて演じている」という風に見えてしまうものだった。役者の口が大量殺戮の様子を言葉にしてみても、どうしても台詞回しや表情から日本的な要素が濃厚に漂ってしまう。ならば、もっとアルジェリア的要素を忠実に入れてみてはよいのではないかなどとも思うのだが、いや、真面目に取り組んでみても、それが最終的に「なんちゃってアルジェリア」にならない保証はない。
これは、演出家や役者への批判などではまったくない。おかしく思われるかも知れないが、この困惑が、とても面白かったのだ。演劇が否応無しに「伝言ゲーム」であるとしたら、そのゲーム性(伝言の伝わらなさ)の露呈する瞬間を、この上演を通してぼくはずっと追っていたのかも知れない。この感覚は旅で感じるものに近い。相手の言葉をどう受け取りどう返すか、スムースに進む会話よりも、恥ずかしい思いや悔しい思いをしたときのほうが、なにかが濃密に残る。そのとき、無意識的に自分が抱いてきた常識が問いただされ、他人の抱く常識へと思いは向かう、なんてことが起きる。「日本の若者が日本人の観客に向けて演じている」といった気づきは、あるいはアルジェリアの演劇とは一体どんなものかといった連想は、まさに自分の常識/他人の常識の問い直しだ。
「マゾヒズム」とか「不可能なこと萌え」みたいに思われると困るのだけれど、伝言の困難さが持つ豊かさを思い出したのだ。幾重もの包み紙にくるまれたプレゼントを開きながら、目の前に起きているのとは別の可能性を「ああでもないこうでもない」と想像をめぐらす。その想像もまた演劇なのだと。

2013/12/23(月)(木村覚)

チェルフィッチュ『地面と床』

会期:2013/12/14~2013/12/23

神奈川芸術劇場[神奈川県]

ぼくはポッドキャスト中毒者だ。1人でいるときはほとんど常時、そして寝る前と起きてすぐも必ずiPhoneに差したイヤーフォン越しに、ポッドキャストを聴いている。お笑い芸人のも好きだけれど、欠かさず聴いているものの多くは社会問題や政治問題を論じる番組のものだ。artscape読者のなかでぼくのようなヘヴィリスナーは少なくないと思うけれど、ぼくが最近試みている、TBSラジオとニッポン放送を交互に聴くというリスナーは多くないかも知れない。荻上チキや青木理、神保哲生などTBSラジオの出演者にはどちらかというと「左」の論客が多い。それに対して、ニッポン放送の場合、論客の多くは明らかに「右」より。ぼくは比較的「左」の意見に同調しがちなタイプだが、ひょんなことから「ザ・ボイス そこまで言うか!」を聴くようになり、イライラしつつも、こちらの意見にも耳を傾けたほうがいいと思うようになった。あっちもこっちも聴くとぐらぐらする。あっちでからかいの対象だった政治家が、こちらではヒーロー扱い。逆もしかり。そして、簡単にどちらかに軍配が上がるものではなく、対立は根深いということがわかってくる。いまは、自分の欲しい情報だけを取り込んで、それが世界だと思ってしまえる時代。だからこそ、このわかり難さに向き合うことは、結構意味があることかもしれないと、ぐらぐらしてみる。
ぼくにとって『地面と床』は、「右」と「左」の番組を両方聴く感覚と似ていた。近未来の日本。国際情勢が不安定になり、戦争へと進むことが現実味を帯びている日本。そこに暮らす一組の家族。兄は結婚しその妻は妊娠中。弟は最近、失業の苦しみから解放され、仕事を得た。しかし、兄弟の仲は険悪だ。道路をつくることで自己アイデンティティを回復しようとする弟は、愛国的な意識を強め、対して兄はこの国の将来を憂いて子どもが生まれるのを期に国外への移住を考える。この両者の対立は、けっして調停されることがない。この舞台には、どんな調停の契機もない。弟は兄夫婦を怨む。その怨みは、義理の娘を嫌悪する母の思いと同調する。母はすでに死んでいる。母は「地面」の下から弟を経由して、「床」にいる者たちに力を及ぼす。この死者の及ぼす力が「日本的伝統」のメタファーなのか、たんなる嫁姑問題なのかははっきりしないのだが、兄弟の諍いという横の軸に対して、死者と生者あるいは伝統と進歩という縦の軸が設定される。シンプルな構造がこの芝居を引き締めている。
この芝居は、ほかにも二項対立の緊張に満ちている。「世界9都市国際共同製作作品」という冠のもと、複数の国での上演を前提にしてつくられているという経緯がそうさせているのだろうが、上記した家族のほかに、「日本」について語るイライラした女性が登場し、「日本とその他の国」という対立を浮きぼりにする。具体的にはこうだ。舞台上に白い十字状のオブジェがある。これはスクリーンでもあり、海外の上演で用いられたまま、英語字幕が映写される。この女性は、客席に座るどれだけのひとが自分の話す日本語を理解しているのだろうかと絶望を口にしながら(この部分は、日本での上演の場合、明らかにちぐはぐなのだけれど、観客は海外での上演の模様を想像しながら見ることになるので、このちぐはぐな状態は実際のところなんら問題とはならない)、自分の思いを早口でまくしたてる。ところが字幕はそれに追いつけない。イライラした女性はこの字幕の進行を待ち、一層イライラしてくる。このメタ演劇的仕掛けは、日本のマイナー性を明らかにする内容面だけではなく、マイナーな国がどう自分たちの状況を表現すればよいのかという方法的側面においても効果的だった。そして、日本人の観客としては、この国に生きる不穏さは、別に3.11が起きようが起きまいが私たちを取り巻いていた、なんてことに気づかされる。
もうひとつの二項対立は、役者の身体に関わることだ。今作では、『三月の5日間』以降注目されたいわゆるチェルフィッチュ的な身体性は、最小化されていた。山縣太一は汗をびっしょりかきながら、独特の、観客にとって不可知のルールに縛られた身体動作を続けていたのだが、そのほかの役者たちは、以前のような、発話に動機づけられた無意識的な動作の拡大・反復表現はしないで、微小な動作を行なうだけだった。何というか、薄っぺらい、存在の重さを欠いた、あてどない身体だ。興味深いのは、以前のチェルフィッチュとは異なり、観客の身体への訴求力が弱いことで、けれども、だからこそこの身体はこの作品の上演にふさわしいと思わされたことだ。言い換えれば、これまでのチェルフィッチュにはモダンダンス的なところがあって、観客の身体に直接訴える身体の強度を帯びていた。確かに演劇においてはユニークなのだが、そうした試みはモダンダンス的な文脈の更新にはなっても、身体に直接訴えるのとは別の身体の可能性を模索しようとするならば、妨げになりかねない傾向でもあった。本作の「薄っぺらい、存在の重さを欠いた」身体は、調停しえぬ対立のなかで揺れている人間の身体にふさわしい。その印象を倍加させたのは、サンガツの音楽だった。今作でサンガツは、舞台美術のように舞台上で存在感を示す音楽を目指したらしい。なるほど、でも、舞台美術というよりは、ぼくの目/耳には、音楽は役者と並立する位置にあった。音楽と音響(音素材)のあいだにあると言えばよいか、サンガツの音楽はギターやドラムなどの楽器の存在を強く意識させる質を帯びていて、「ジャリッ」「ガリッ」などのノイジーな響きはそうした楽器の身体性をむき出しにしていた。しかも、その音がかなり大きく響き(ときには観客の身体を直接揺さぶるほどに)、耳を支配するので(そのため、役者はマイク越しに台詞を発していた)、目には見えないのだが、舞台上にあるいは客席に徘徊する幽霊のような仕方で、場を支配していたのだった。この「もう一人の役者」とも言える音楽と、人間の役者との対立は、音楽の存在位置を高めるとそれだけ、役者の身体が薄っぺらく脆弱に見える効果を与えていた。快快と比較しても面白いかも知れない、舞台から追い出されそうなこの脆弱な身体たちは、しかし、汗を垂らしている山縣が存在していることによって、なんとか消滅の危機に抗っているようだった。
今作で岡田利規は、演劇が抱えうる多数の「二項対立」を取り出し、そこに調停なしの争いを露呈させた。なんと率直でわかりやすく、それでいて簡単には解消できない諸問題が舞台上で露出してしまったことだろう。「二項対立」とは、言い換えれば「批評性」ということだ。政治の実践的場とは異なり、演劇の上演は結論を出す場でなくていい。むしろ丁寧に対立を浮きぼりにすることこそ重要だ。日本を生きることの不穏さは消えないし、対立は容易に解消しないだろう。けれども『地面と床』から、ぼくたちは「対立」の相貌を知ることができる。岡田の作品のなかで、これまでの最高傑作なのではないかと思う。


チェルフィッチュ「地面と床」

2013/12/15(日)(木村覚)

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