2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

向雲太郎『舞踏?──ぶとうってなんだろう?なにそれ?おいしいの?』

会期:2013/12/13~2013/12/14

spaceEDGE spaceA[東京都]

この公演は長らく大駱駝艦のメンバーとして(すなわち1人の舞踏手として)研鑽を積んだ向雲太郎が、「舞踏」ではなく「舞踏?」を踊った問題作。タイトルに「?」が付されているのは、この上演が舞踏作品ではなく「舞踏について」の作品であったことを意味する。すなわち、これは言うなればコンセプチュアル舞踏であり、メタ舞踏だったのだ。古巣の大駱駝艦作品に似て、本作には進行順に六つの小タイトルが付けられているのだが、その六つのパートはどれも一貫した仕掛けが一つひとつにあり、そのどれもが、一般的に基礎とするような舞踏的身体技法抜きで、いわば外側からの強制によって動きが舞踏になるように準備されているという点に特徴がある。例えば、冒頭の「1. 暗黒君II」では、大リーグボール養成ギプス(「巨人の星」)のごときエキスパンダーのバネが仕組まれた器具を、腿や腕、頭に装着することで、どうしても手足や背中を伸長させることができず、向の体は腰の曲がった老人のような姿勢になってしまう。これは、自動的に舞踏的な姿勢がとれる一種の「舞踏家養成ギプス」であるみならず、もともと舞踏が踊れる向に通常の意味での舞踏を踊らせなくするための「拘束具」でもある。つまり、この舞台でダンサーは、いったん自分のスキルをゼロにし、そのうえで踊るということを行なうことになる。
「メタ舞踏」と呼んだのは、こうした点だ。ほかにも、食用の鶏を白塗りし、舞踏を踊る人形にしてみたり。どうも白塗りの粉は実際は小麦粉で、踊らせたあとオーブンに入れ、最後にそれを手を使わずに食べた。貪りつくと、顔が曲がり、首がくねって、そのさまは自ずと「舞踏的な動作」と化した。ラストでは、映像の粉雪が降り、その真ん中に向が立つ。次第に雪が吹雪になり、強烈なノイズへと変貌すると、その嵐の中に巻き込まれた向は、やはり舞踏のある種の場面によくあるような、受動的で被虐的な身体の危機性を湛えていた。ただし、通常の舞踏公演ならば、それは踊りで、あるいはギッと虚空を凝視する目や痙攣する腕や脚で表わすものだ。それを、踊る代わりに映像のノイズを肉体に浴びせることで、つまり踊らずに示したわけだ。こうして、この上演で向は徹底的に通常の意味で踊ることなく「舞踏について」のパフォーマンスを続けた。
数少ない、通常の意味での「踊り」に見える場面に「5. Girl~Kさんのほうへ」があった。しかし、ここで向が行なったのは、土方巽の踊りを極めて忠実に再現することだった。踊りの途中で舞台の箱を蹴ると転がって現われたのは「土方 完コピ中」の文字。なるほど、トータル10分ほどのパートは、衣裳の再現もあいまって、確かに『夏の嵐』という記録映画に登場する土方によく似ている。アフタートークで、向自身が発言したところによると、これはYoutubeにアップされた映像をスマホで見ながら2カ月ほどかけて模倣したものだという。トークのゲストだった川口隆夫が8月に上演した『大野一雄について』も、その点では同じく映像化されたダンスをコピーする企てだった。この上演に影響を受けたとの発言も向からあったのだが、確かに似たところがあるもののの、川口の試みには大野一雄が川口に憑依したかのようなところがあったのに対して、向の試みた土方巽の踊りにそうした要素はさほどない。丁寧なのだが、体を土方の所作の上に「置きにいっている」感じがした。あるいはパロディ的に見えるところもあった。「コピー」というアイディアのもとで、今後、ダンスへ向けたコンセプチュアルな思考が高まっていくにつれて、その狙いや意図の違いから、多様な実践が起こることだろう(そう希望します)。川口や向のチャレンジは、その発端だったと、将来振り返られることだろう。アフタートークでは、映像と並べると向の踊りが少しずつ遅くなってしまい、その点では完コピとはならなかった趣旨の話があった。これはちょっと印象的で、仮に完コピする時間が10分ではなく1分だったら、少しずつ遅くなるという誤差さえも調整可能かも知れず、ならば、ぜひそういうトライアルも誰かに行なってみてもらいたいなどと思わされた。音楽が主導する踊りであれば、その点は克服できるはずで、舞踏においても、時間をマップ化する仕組みができれば、不可能な課題ではないはずだ。もちろん、よりいっそう問われるのは、なぜ「完コピ」したいのかという点である。このことは大谷能生氏とぼくとで、室伏鴻プロデュースの『〈外〉の千夜一夜』においてさしあたりのトークを行ない、また目下のところ継続的に考察中の「映像化されたダンス」の問題に関わってくる事柄である。この点については、いつか稿をあらためて触れてみたいと思う。
向の活動は、来年にはさらに目立ったものになるようだ。来年の12月には自身のカンパニーによる旗揚げ公演が予定されているという。なんとカンパニー名は「マルセルデュ社」。マジか? ようやくダンスも、レディ・メイドについて問うようになるのか、否か。少なくとも、これまでの日本のコンテンポラリーダンス史のなかであるべきはずだった当然の問い直し(「?」に象徴される)が、いま起ころうとしているのは事実だ。

2013/12/13(金)(木村覚)

生西康典『おかえりなさい、うた』

会期:2013/11/30~2013/12/04

UPLINK[東京都]

「音の映画」という言葉が作品タイトルの脇に添えられている。それで勘ぐって「ああ、画面に何も映らないで音だけ流れるってことね」と早合点してしまったら、大変なことになった。ぼくだったら代わりにこの映画を「映画館の映画」と形容するだろう。あれでも、それじゃあ、あたり前か。ならば「映画館的闇の映画」ではどうか。「音の映画」というけど、たんに音だけならばCDを聴けばいいし、上演するならば、明るいところで(日中の野外でも)スピーカーがあればそれでいい。でも、この作品はそんな単純な「音」の映画ではない。上演は必ず映画館がなければならない。いや、正確には、映画館の「闇」こそが、この映画にとって、必要不可欠のパートナーなのである。声でカウントダウンが始まる。その後、映画館はいつものように闇になる。だが普通ならば、闇になった直後に映写機が稼働し、スクリーンに光が当たり、観客の視覚能力も稼働を始めるものだ。それが、この作品では光が最後まで与えられない。音は聞こえてくる。ときに、演奏だったり、誰かのインタビューだったり、お話だったり、宇宙に関する詩的な言葉だったりが、耳に入ってくる。もちろん、その音たちを構成した生西康典の、音に体するデリケートな探査能力や選択能力にもワクワクさせられるのだけれど、それは夜の闇に浮かんでいる星々のようなもので、この作品を彩っているものには違いないが、しかし、この作品のもっている甚だしさの一部に過ぎない。音たちに囲まれながら、何度も目をぱちくりしてみた。もちろん、なにも見えない。この「見えない」状態が長く続くとどうなるか。ぼくは対象を求めた。ぼくの感覚は対象を求めて反り返る。その結果ぼくは「対象を求める自分」を感じるところへと至った。自分の身体を感じる、その呼吸とか、見えない目の動きとか、音に遭遇され続ける耳の感じとか。それはほぼ同じことなのだが、闇を感じることでもある。闇が膨らんでそれ自体が実体を持つような感じになって、自分を囲む。この感じは、ただ目が見えないという事態が生じるだけで起きることであるならば、自分のすぐ近くにいた隣人のはずだ。しかし、その隣人をぼくはほとんど知らずにいた。そんなことに心底驚く。映画館という人工的に闇を出現させる場の本領が映画(映像=光)がないことで立ち上がってきた。ちょうどこの数日前に、ぼくは水戸芸術館で行なわれた視覚障害者と展覧会を見るイベントに参加したばかりだった(「ダレンアーモンド──追考」関連イベントで、タイトルは「視覚に障害がある人との鑑賞ツアー『セッション!』」)。視覚障害者も、触覚的な要素なしでも展示を楽しむことができる。彼らは、見えるひとと一緒に展示室に入り、見えるひとから作品の説明をしてもらったり、作品に抱いた感想を聞くことで、鑑賞を行なう。見えるひとの多くが孤独な作業だと思っているのとは異なり、彼らにとって鑑賞は社交し、おしゃべりを交わすことなのだ。視覚障害者がこの作品を鑑賞すると、どう感じるのだろうと思った。あるいはぼくらはどんな言葉を交わすのだろうと想像した。この作品の真骨頂が「闇」の体験になるのだとして、闇との付き合いが長い「玄人」な彼らは、この作品にどんな感想を持つのか知りたいと思った。そんな未知の隣人に気づくことが、この作品の唯一無二な力なのだ。生西の映像作品には、ほかにも『演劇』『ダンス』と呼ばれるものがあり、今回ぼくは『ダンス』(「星の行方 Where Did the Stars Go…」「既に光は 暗い土のなかに」の二作の舞台公演を映像化したもの)も見た。とくに「星の行方」の映像と踊る生身とのコラボレーションには、新鮮な感触が強くあって、「映像」と「身体」の関係可能性について深く考えさせられるところがあった。

2013/12/04(水)(木村覚)

マームとジプシー『モモノパノラマ』

会期:2013/11/21~2013/12/01

神奈川芸術劇場[神奈川県]

今月のレビューで取り上げたQ『いのちのちQ II』を見た直後、横浜に移動して観劇したのが本作。同日に見たのはたまたまなのだが、両者には強い相関性があって、ひとつはどちらにおいても主役級の活躍をしている俳優・吉田聡子のこと。Qの2月公演『いのちのちQ』では重要な役を演じていた吉田は、上演日程が重なっている今回、Qではなくマームとジプシーの作品に登場していた。小さくて、被虐的で、凛としてもいる、今日の演劇を代表する顔のひとつだとぼくは思っているけれど、そのことは同時に、二つの劇団の今日性を映し出してもいる気がする。もうひとつは、どの作品も「ペット」をテーマにしていること。しかし異なるのは、Qがペットたちを主人公にしていたのに対して、マームとジプシーで舞台に現われるのは飼い主の人間たちであることだ。この違いは両者の作品性に決定的な違いを生んでいた(とはいえ、こんな風に両者を比較するなんて誰も思いつかないだろうし、ぼくの場合、たまたま同じ日に見たことで、両者の相関性に言及せざるを得なくなったというのが正直なところだ)。作・演出の藤田貴大は、今作に限らず、「ロス」に直面したときの「やりきれなさ」「悲しみ」へと観客を引きずり込もうとする作家だが、今作はそれが徹底していた。「モモ」と名づけた生後6カ月のネコがいなくなった。どこでどうしているのか。迷いネコを案じるのはこれまた社会において弱々しい存在の女の子たち(小学生? 中学生?)。男性俳優たちは木製のフレームを大小の形に組み合わせて、そうしてできた構造体をつくっては壊し、女の子たちは不安やいらだちや悲しみを抱きつつ、家や扉に見える構造体のなかで周りで躍動した。そう、その様はダンスと呼びたくなるほど躍動的だ。前半はそれでもゆるゆるとした体の運びも目立ったが、後半になると様子は一変、大縄跳びを行なったり、男性陣は1列になって前転を繰り返すなど、物語とは直接関係ない、けれども俳優たちの身体性に直接の変化を与える激しい運動が舞台を覆った。それにともない、物語の焦点が「死」に集中しはじめた。「モモ」の陰で川に流されていた5匹の兄弟たち、また友人の自殺、恋人の死と、立て続けに描かれる「ロス」の場面。正直、観客が登場人物に感情を移す十分な準備なしに、「悲しい」瞬間が訪れてしまうので、音楽があおり、役者の丁寧な演技がさらにいっそう「悲しみ」をあおるのだけれど、それが狙うほどには感情がかき立てられない。それともうひとつは、ペット(モモ)への思いは、飼い主のある意味一方的なものであって、Qが描くようなペット側の思いにひとが心を傾けた途端に相対化されてしまうところがある。その相対化を避けることでしか、この「悲しみ」は絶対化されないのかもしれず、ペットという他者の実存を見ないことによってしか、藤田の狙う感動は観客に訪れないのかも知れない。だからダメなのだと批判するのは簡単なので、この絶対的な「悲しみ」を描く必然的条件を考えてみるべきかも知れないと思う。前作の『cocoon』で描いた第二次世界大戦も、今作のペットという主題も、ぼくにとっては相対化できる悲しみだった。ぼくらにとって絶対的なのは、身体とともに生き死ぬことだ。この生と死の場である身体が、今作では物語とは切り離されて躍動していたが、物語と身体とが離れがたく絡まることがあれば、そこで表象される「悲しみ」は絶対的な質を帯びるのかも知れない。

2013/11/30(土)(木村覚)

Q『いのちのちQ II』

会期:2013/11/29~2013/12/01

アサヒ・アートスクエア[東京都]

今年2月に横浜で上演された『いのちのちQ』を基にリアレンジした本作。キャストが何人か欠けたり増えたりがあったぶん、脚本もそれなりの変化はあったが、生命をめぐる問いかけは一貫していて、Qという劇団の、というか主宰の市原佐都子の強い意志が感じられた。ペットブリーダーの家に暮らす、犬の純血種たち。語尾が「~なんだわ、わ、わ、わーん」と裏声で上がり調子の主人公格の女の子(もちろん犬)は、祖父にして父にして夫でもある犬と一緒に暮らす。この設定が明らかになった瞬間、おぞましさが胸中を駆けめぐる。ペットの気味悪さは、市原が女性であるからこそ引きだせるものなのか? ともかくも、生殖し妊娠し出産する性を生きる者の、絶望と可能性がともに描かれることこそ、現在のQの際立った、他に得難い魅力だ。そう、絶望のみならず可能性が描かれるのだけれど、例えば、この主人公格の女の子(犬)は、密やかに、水族館に暮らすというオタリアとの交尾を夢見ている。彼女はテレビ越しにオタリアを知っているだけで、1人で水族館に行けるわけもないし、ましてや交尾を果たせるわけもない。仮に首尾よく交尾まで行けたとしても、それが彼女に与えるのは死だろう。彼女は結局、自分の愚かさを笑い、自分の境遇を受け入れてしまう。この世界に冒険の余地はない。いやでも、本当にそうだろうか。かつて飼っていた犬のことを忘れられずにいる人間の女性が登場するのだが、彼女は自分の混乱した性欲を吐露する。ぼくたちは、それでも欲情するのだ。欲情のなかに秘められている雑種化への意欲は、絶望ベースの世界における微かな希望だ。最近の女性劇作家たちの、世界へ向けた冷徹なまなざしに、ぼくは未来を見たくなる。かつて女性たちは、演劇やダンスの世界で、男性たち中心の空間を彩る「華」でなければならなかった。ようやく、「華」ではない女性の可能性が開かれようとしている。市原が描き出す醜悪なものの内にこそ、前人未到の未来が隠れている、そんな気がするのだ。

2013/11/30(土)(木村覚)

プレビュー:チェルフィッチュ『地面と床』

会期:2013/12/14~2013/12/23

KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]

チェルフィッチュの『地面と床』が今月のレコメンド作品です。サンガツが音楽を担当するのみならず、「音楽劇」と銘打って音楽と劇との対等な関係を模索するということが、岡田利規本人の言葉として語られています。このあたりのアプローチは、かねてから岡田が試みてきたことの延長上にあるものとも思えるのだけれど、今回ではどんな表現で新たな指針を示してくれるのか、楽しみだ。いや、そういった穏当な期待だけではまずいだろう。どうも、これまでずっとチェルフィッチュを牽引してきた俳優・山縣太一が今回を最後に劇団を離れるようなのだ。詳細は不明だが、山縣本人のFacebookでのコメントを見ると、劇団やプロダクション側とうまくいっていないなどの話が綴られている(部外者が口を出すことではまったくないのだけれど、彼が訴えている役者の地位向上については、舞台関係者は真剣にその改善の可能性について考える必要があるだろう。なんといってもこれだけの成功を収めているチェルフィッチュの役者が訴えていることなのだから)。山縣のパフォーマンス=チェルフィッチュと思う部分もあったので、このことが事実ならばとても残念なことだし、山縣の出演するチェルフィッチュを見るひょっとしたら最後の機会となる可能性があるので、その意味でも、見逃すことはできない。

2013/11/29(金)(木村覚)

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