2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

室伏鴻『リトルネロ──外の人、他のもの』(室伏鴻プロデュース「〈外〉の千夜一夜」

会期:2013/11/23

横浜赤レンガ倉庫1号館3階[神奈川県]

室伏鴻本人のプロデュースによるイベントでのメイン公演。僕も大谷能生さんとトークのイベントで参加したので、本イベントの〈外〉の人とは言えないのだけれど、あくまで批評の人間としてこの作品について考えたい。1時間弱の舞台。室伏の身体は、彼らしい身振りを絶えず繰り出した。突拍子なく不意に背中から倒れたり、首で支える逆立ちの状態で脚と腕を上げて「万歳……」を連呼したり、ぽろぽろと口から言葉をこぼしたり、舞台の脇で服を脱ぐと素肌を曝して壁にぶつかったり、四つん這いになって獣のごとく徘徊し口で真鍮板をくわえたり。すべてが室伏印の振る舞いだった。前半には、アップテンポの曲にノリノリになるなんてところもあって、新味な場面もなかったわけではない。だけれども、なんだか、空で対象を掴みそこねたように、どの動作もどこか頼りない。力がみなぎっていないというか、「ため」に乏しく、力の入れどころが見出せないまま時間が過ぎてしまったかのようだ(意図的なもの?とも想像させられたが、そう断定することもできなかった)。もちろん、それでも、ありふれた舞踏の、「自己嘲弄的」とでも非難したくなる弛んだ舞台とは比べものにならない、テンションの高さは保持している。けれども、考えていることから動作へと移る際の連動が早すぎて、気づくと予期せぬ事態が目の前で起こっていて、めまいを起こしてしまうといった感覚、室伏の舞台でしかえられないあの感覚が見ているぼくの内に訪れることはなかった。早さの欠如は、もっと際立つと、大野一雄がそうだったように、ダンサーが心に抱く踊りのイメージと実際の踊りとのあいだのズレが大きくなって、それはまた新たな踊りのニュアンスを生むのかも知れない。いまの室伏の肉体はその境地に立つにはまだ若い。それでも、やはり終幕でぼくは感動していた。たんなる「踊りの上演」ではなかった。獣になって四つん這いで口だけで真鍮板をくわえ、床に敷くと体をそこに沿わせたり、ユリの花を食いちぎって、客席のほうに放り投げたりといったラストは、「鎮魂」なんて言葉が頭に浮かんでしまう時間だった。ライオンになってしまった自分が人間だったころの微かな記憶にせき立てられて思わず行なってしまった儀式。そんな連想を抱かされてしまうほどの迫真性は、室伏にしか達成できないことであるのは間違いない。

2013/11/23(土)(木村覚)

宮本亜門(演出・振付)『メリリー・ウィー・ロール・アロング──それでも僕らは前へ進む』

会期:2013/11/01~2013/11/17

銀河劇場[東京都]

門外漢ではあるのだけれど、珍しくミュージカルを見に行ったので、印象を記しておこうと思う。本作は、もともと1934年にジョージ・カウフマンとモス・ハートによってつくられた同名作を、1976年から1957年に舞台をかえてジョージ・ファースが脚本をスティーヴン・ソンドハイムが曲を書いてリメイクした、バックステージもののアメリカン・ミュージカル。「1976年から1957年」と書いたが、この作品の際立った特徴は時間が逆行するところだ。主たる登場人物は2人、ハリウッドのプロデューサー(フランク:柿澤勇人)とニューヨークで活躍する劇作家(チャーリー:小池徹平)。フランクは成功を収めているがいまの成功はかりそめに過ぎないと絶望しており、いまとなっては困難なのだが、本当は若いころに一緒に作品をつくったチャーリーとやり直したいと思っている。華やかだが虚しさの漂うパーティ場面から、物語は2、3年の間隔で過去へと遡行してゆく。テープを巻き戻すように2人がどうして仲違いをしてしまったのか、あるいはかつてはどんなに仲の良い2人だったのか、どんな若々しい希望に溢れた夢を語り合っていたのか、約20年分の2人の過去が次第にわかってくる。ミュージカルらしい強引で生真面目な構造は不可逆的で、引き返せないジェットコースターのよう。キャンピー(わざとらしくておかしい)だけれど、よくできていて、とくにそう思わせるのは、青春期から中年期へと進む普通の進行であれば、希望が絶望に変わるだけの話が、逆に進むことで、絶望から希望の話に錯覚してしまうところだ。いや、本当は絶望への物語なのでそう錯覚すること自体皮肉めいているのだけれど、〈内面の沸き立つ思いがあふれてきて思わず歌い踊ってしまう〉というミュージカル独特のフォーマットを活かすには、希望へと進んで行く趣向はきわめて合理的なはず。けっして明るい話ではないのに、見終わった感触がいい、でも、たんにハッピーエンドではない、という絶妙な味わいが生まれていた。正直、小池徹平や高橋愛といった芸能人や、その他の歌手、ミュージカル俳優たちの演技の質はよくわからない。メロディーを歌いこなせていないのではと思わされるところも目立った。プロジェクション・マッピングを用いた舞台美術はすっきりとしていて、またミュージカルの虚飾性にフィットしているとも思った。

2013/11/13(水)(木村覚)

プレビュー:室伏鴻プロデュース「〈外〉の千夜一夜」

会期:2013/11/19~2013/11/24

横浜赤レンガ倉庫1号館[神奈川県]

今月のおすすめは、舞踏家・室伏鴻がプロデュースするイベント「〈外〉の千夜一夜」です。「瞬間の学校」という名のワークショップなどで最近はその存在は知られているものの、海外での目覚ましい公演活動に比して、国内での室伏本人の踊りを見たり、彼の思想を知ったりするチャンスはけっして多くありませんでした。今回のイベントは、そんな室伏欠乏状況にあって貴重な機会です。新作ソロ『リトルネロ──外の人、他のもの』をはじめ、大谷能生や芥正彦といった彼と親交の篤い表現者との共演など、伝説の存在になりがちな室伏鴻の現在の姿を目撃できる計6種類の上演が揃っています。それだけではありません。イベント期間中には、宇野邦一、石井達朗、鈴木創士&丹生谷貴志、桜井圭介&三田格などによるトークが数多く用意されています。ぼくも大谷さんと「映像化されたダンスから新しいダンスを開発する方法」というタイトルでトークします。録音された音を活かすことで20世紀以降の音楽は飛躍的に発展していったわけですが、ダンスにおいても「映像化された身体」によってそうした劇的な変化が起きようとしています。その激動を積極的に考える方途について大谷さんと模索します。「舞踏」に限らず、ダンスや社会の未来について考える濃密な1週間です。

2013/10/31(木)(木村覚)

鳥公園『カンロ』

会期:2013/10/25~2013/11/02

三鷹市芸術文化ホール[東京都]

女二人が話題にするのは、同窓会で再会した1人の女。目立たず、すっかり忘れていた、ださい眼鏡女。彼女への軽蔑を肴に弾む会話。しかし、当の2人も互いの結婚や仕事を知らず、仲が良いとはけっして言えない。会話の最中、そこにいないはずのださい女が不意に現われ、2人の会話に割り込んできた。同窓会の回想シーン?にしてはあまりに唐突。過去が現在に土足で侵入してきた……わかるだろうか、この感じ。約1時間の舞台で作・演出の西尾佳織がこんな仕方で描くのは、薄くて軽くて、だから残酷で暴力的でもある人間関係の姿。
会話の標的となった女ばかりか、会話の相手も、どちらも過去のどうでもよい相手。薄い関係では、自分と他人の境界も現在と過去の境界も曖昧。ださい女が、一体どんな人生を送っているのか、2人のうちの1人が妄想し始めた。例えば、この女は恋愛するのだろうか? 試しに自分の夫とデートする場面を想像してみる。するとださい女が舞台に現われ、どんな服を着ていけばいいか、女に指南を仰ぎに来た。眼鏡がださいだの服のセンスがありえないだの散々からかった末、ださい身なりのまま、ださい女のデートが始まる。不器用な振る舞いを散々笑ったあとで、女は隣の男が自分の夫であることを彼女に告げる。こうした場面で西尾が描こうとする焦点は、たんにださい女の人生でも、たんにださい女を笑う結婚女の醜さでもなく、妄想というものの実相だろう。妄想は自由で身勝手、そして楽しく醜い。実際のところどうなのか、なんてわからないし興味もない。貧困で他人の心配なんてする余裕もない。きつい現実に向き合うより虚構に耽溺していたい。そんな気分の、薄ら寒い末期症状が淡々と描出される。
その一方で、虚構化しきれない残留物もある。身体だ。この舞台にはもう一組、2人の男たち(と1人の上司)が出てくる。彼らの職業は非正規雇用の死体処理。彼らは皆、理由不明の下痢に悩まされている。彼らに象徴されるように、この舞台は妄想だけではなく生きた身体をめぐるお話でもある。
この点で白眉だったのが、杉山至による舞台美術。舞台の真ん中には穴があいている。穴から脚の長い椅子が飛び出ていて、テーブルに丁度よい高さで立っている。それが突然、上演の半ば、椅子が穴からせり上がって来て、テーブルの脚もそれにつられて伸び始めた。テーブルは急角度で斜めになり、それまで寝そべっていた登場人物を滑り落とす。突然のことであっけにとられた。アスレチック場のように変貌した部屋。すると彼方では、天上付近に吊った幅1メートルほどの白い紙ロールが引き伸され、舞台を取り囲む。下痢する男たちのトイレットペーパー? しかし、なぜこんな巨大に? と思っていると、台所をたかる蟻についてのおしゃべりが女2人と夫とで始まった。蟻をどうつぶすか、なんて話の最中で、死体処理の男たちが舞台奥でせっせと仕事をこなしている。
蟻と人間の薄気味悪いアナロジー。アスレチックと化した舞台装置を移動する女たちが台所をはう昆虫に見える。鳥公園も含む女性作家ばかりの合同公演について先月書いたときにも触れたことだが、女性作家たちが人間を動物や昆虫になぞらえるのは、昨今の演劇の顕著な傾向だ。虚構と、その残余としての身体。この二つだけがある。理想や努力にふさわしい報いといった、人間が人間であるための尊厳からとてもとても遠い。そんな今日的状況が躊躇のない手つきで舞台に描き出されていた。

2013/10/25(金)(木村覚)

大橋可也+フィリップ・シェエール『Transfauns/ トランスフォーン』

会期:2013/10/23

BankART Studio NYK[神奈川県]

大野一雄フェスティバル2013は、ダンス史の遺産を取り上げ、舞台上でオマージュを捧げる上演が数多く行なわれて来た場である。今月本誌で筆者がレビューしたプロジェクト大山が石井漠をフィーチャーしたように、今作で大橋可也が取り上げたのはニジンスキーの代表作『牧神の午後』。これはたんに「名作」という以上に「20世紀バレエの最大のスキャンダル」と形容すべき問題作。舞踏にルーツをもつ大橋がどうこの作品と格闘するのか、期待満々で会場に足を運んだ。しかし、よくわからなかったというのが、正直な感想だ。横の幅が広い舞台。予想していたように、フィリップ・シェエールと皆木正純の2人は、この横長のスペースを活用して横向きの動作と横の移動を繰り返した。全体の構成は、(1)これまでの大橋らしい動作、(2)ドビュッシーの音楽とともに『牧神の午後』のオマージュ部分、(3)これまでの大橋らしい動作、(4)最後にわずかな時間、明確に『牧神の午後』から採った動作が表われ、男2人が体を崩して終幕。構成でわからなかったのは、(3)の部分で、なぜ(2)に展開したのに再び、(1)と大きく変わりがない場面に戻ってしまうのか? タイトルにある「トランス」も「フォーン」もぼくの目には舞台のどこにそれに該当する事柄が表われたのか、わからなかった。「フォーン(牧神)」のテーマは、性をめぐる問いを生むだろうし、「トランス」はなんらか「生成変化」に関連した出来事を期待させた。現代の「牧神」とは? 「牧神」に生じる「トランス」とは? このテーマ自体は、じつに潜在的な可能性を秘めたものであるはずだ。皆木が見せる、背後に気配を感じて振り返り退く動作など、おなじみの動きにはいつもの質があるものの、共演しているシェエールのダンサーとしての個性が掴めないので、場のテンションが上がらない。もう少し、シンプルで強烈なアイディアは盛り込めないものだろうか。そうでないと、微弱に伝わってくる動きの質だけでは、観客は茫漠とした感触だけを味わうほかなくなり、結果として審美的な判断しか下せなくなってしまう。

2013/10/23(水)(木村覚)

文字の大きさ