2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

Q『迷迷Q』

会期:2014/04/24~2014/05/01

こまばアゴラ劇場[東京都]

主人公・園子の名は、親が公園でセックスして生まれたから。セックスの最中、母は黒人と日本人のハーフらしき女の子を眺めていた。身につけたかわいい服は女の子の立体的な筋肉質の体に滑稽なほど不似合いだったという。劇作家・市原佐都子がこだわっているのは、こうした設定に象徴されるような、(異種)交配への欲望と恐怖である。園子の母は11人の子どもたちを生み、「飼育室」と呼ぶ部屋に子どもたちを閉じ込めておくと、11人の子どもたちの服が回る洗濯機を覗きながら、後背位でセックスする。園子には友達(ノンちゃん)がいる。ノンちゃんはフランソワという名の犬を飼っている。フランソワはいつか園子の母に誘拐され、「ハワイ」という名で新たに呼ばれ、園子の家で育てられることになる。ハワイは園子の家で無理な交尾を強要され死んでしまうのだが、保健所で有料で処分してもらうくらいならばと、母は唐揚げにしてしまう。その他、母は自分の糞を食らった犬が糞をしているところを目撃したというエピソードなど、繰り返し舞台で展開されるのは、セックスや食事などによって、異物が身体に入ってきて自分が変容してしまうことへの快楽と恐れのオブセッションだ。今作はそこへと不気味なくらいに焦点が絞られていて、なんと言えばいいのか、この徹底性は演劇の枠を超え、現代アートの域に達している。不気味さは音楽の扱いにも及ぶ。確か音楽は同じものが二回流れた。ノンちゃんのハッピーな妄想に同調して、明るい(少し前のクラブでかかってそうな)曲が流れた。それは、曲の明るさを皮肉として受け止めざるをえないといった使い方で、しかも他にはどんな音楽も流れなかった。つまり、市原の描く世界に音楽はない。気分が高揚し、その気分に浮かれている自分を無邪気に肯定するような、登場人物たちにそんな心の余地がないのだ。身体への接触が性と食の問題からのみ取り上げられるように、絶望的に視野が狭い。市原はここを見つめて欲しいと望んでいるような気がする。ただし、観客として(少なくともその一人である筆者)は、若い女性たちがどぎついテーマを扱い、どぎつい台詞を口にしていることに面白がったり、戸惑ったりさせられているうちに舞台が終わってしまった、という印象を受けた。大人になった園子は、過剰な性欲を持て余す「ケンタウロス」と狭いアパートに暮らし、交尾で皮膚がひりひりし、しかし、そんな暮らしも続かず、ケンタウロスはやがてやせ細って死んでしまう。母も死んだ。園子はノンちゃんらしきバックパッカーの女の子と知り合い、彼女の友達と絵に描いたような「充実した夕食会」を過ごし、帰ってノンちゃんのFBをブラウズする。ここではないどこかを「ノンちゃん」を通して知る園子、しかし彼女が「死」を口にすると、唐突に芝居の幕は閉じてしまう。Qの呈示してきたテーマが徹底されていると同時に、Q自身がそこから自由になりたがっている、そんな作品に見えた。これまで作家の想像力に可能性を託してつくられてきたとすれば、少しそこから距離をとって、他人へのリサーチによって掴まえられた素材をもとに創作することがあってもよいのではないか、そんな思いを持った。

2014/04/26(土)(木村覚)

hyslom『Documentation of Hysteresis』

会期:2014/04/20

SNAC[東京都]

hyslom(ヒスロム)は、加藤至、星野文紀、吉田祐の三人組で、大阪の造成地に毎週通っては、その土地と自分たちとを接触させ、そのさまを4年以上にわたって映像に収めてきたという。今回のSNACでの上演は、前半部がその映像集の上映で、後半部は実際に彼らがその土地で行なっているようなことを実演した。前半部で上映された映像には、自然とも人工ともつかない、中途半端な状態でむき出しにされた土地の荒々しいパワーみたいなものが映っている。現在42才の筆者にとって、この光景は子どもの頃に親しんでいた田舎の空き地そのものだ。ベッドタウンと期待されて、山が削られていく。人間が暮らすのに都合の良い、平たい地面がつくられてはいるものの、通り抜ける風の強さとか、人目の届かない場所故の「しん」とした感じが、人工物ばかりの暮らしからは生まれてこないような妄想をかき立てる。そんなことがあったなと思い出す。そう、つまり、hyslomが空き地で続けているのは、ぼくが思うに、アートとか、パフォーマンスとか、ワークショップとか以前に、子どもの遊びみたいなことだ。例えば、造成された土地に残された複数の幹をのばした木に登り、3人がそれぞれ1本ずつ幹をもってぶつけ合ったり、その結果根元が割れ、割れたところから現われた虫の幼虫を観察したり、雨水が溜まった巨大な水たまりに裸で潜ってみたり、小さな円形の山をリングに見立てて頭突き合いの競争を始めたり、巨大なトンネルにかぶせられた巨大な幕に向かって石を投げつけてみたり。映像はすべてきわめて美しい。とはいえ、特別な被写体を映しているわけではない。自分の身体を被験体にして、その場のありさまを調査していると言えばそうだし、わざと危険なことして、乱暴を冒したが故に開けてくる光景をまさに子どもみたいにただただ楽しんでいるようにも見える。この作業から目立った何かが生まれてくるのかはよくわからない。けれども、彼らの活動は人間の思考を引っ掻き回し、生き生きとしたものに作り替える力に満ちているとも思う。思考の「土壌」を改良する営み、とでも言えばよいか。後半部で三人が登場して、重そうなドラム缶をゆっくりと三人がかりで舞台中央に移動させると、刺したパイプに何度も爆竹を投げ込んでいった。爆竹のデカい音が響く。悪ふざけのようで、でも、破裂音は美しくもある。パイプを抜き取り、倒すとドラム缶は蓋が取れ、大きな石と少量の水とが現われた。今度はドラム缶を右から左から転がした。三人の戯れが、じわじわと見ている自分の思考を揺さぶる。この揺さぶりに、hyslomと観客とがつくるユニークな関係性の核があるように思われた。


Documentation of Hysteresis - Trailer -

2014/04/20(日)(木村覚)

神村恵カンパニー『腹悶(ふくもん:Gut Pathos)』

会期:2014/04/03~2014/04/08

STスポット[神奈川県]

今作は「老い」がテーマだという。確かに、前半のある瞬間から、若い女性ダンサーは、腰をぐうっと屈めはじめて、歩みは1歩3センチくらい、老婆に変貌した。けれども、それ以上に、ぼくにはテーマが「介護」に見えた。後半から男性ダンサーがはいってきて、彼と女性は対話(「対話」というよりは介護者と被介護者とが交わす「問診」に見えた)をした後で、2人でデュオを踊ったからだ。この踊りは、不意に、互いが互いの感情を剥き出しにするところがあって、その暴力性が特徴的だった。「介護」といえば、村川拓也『ツァイトゲーバー』(2011)を連想させた。ただし『ツァイトゲーバー』が最初から、パフォーマーが観客に語りかけ、これから始まる実演内容について、丁寧な説明を用意していたのとは対照的に、「腹悶」は、2人がなぜこのようなデュオを踊るのかについての説明がなかった。説明があると、観客は冷静にこれから始まる実演がどう遂行されるのかに意識が集中するけれども、説明がないと、いまここで起きていることを観客は自分なりに推測してゆくほかなく、ゆえに、作り手との関係に緊張が保たれる。多くのダンス上演は「説明なし」なので、ことさらいうことでもないかもしれないが、こう比較すると、その緊張自体に意味があるのか、ないのかが気になってくる。神村の今作は、介護者と被介護者とが互いに内面を隠しながら、互いの立場を生きつつ、時々、その隠しごとに耐えられなくなる瞬間をフォーカスしているように見えた。その意味では、この作品の「説明なし」は、その内容と一致していた。

2014/04/05(土)(木村覚)

プレビュー:神村恵『腹悶(ふくもん:Gut Pathos)』

会期:2014/04/03~2014/04/08

STスポット[神奈川県]

3月は力強い新作公演を立て続けに見たし、宮城県名取市での砂連尾理の活動も取材できて、ダンスの可能性や将来的になすべきことなど、諸々考えることが多かった。それと珍しいキノコ舞踊団のフライヤーに「コンテンポラリーダンス卒業宣言!!」と謳われていたのも、今月の出来事だ。「私たち、コンテンポラリーダンスを卒業します! ただ普通にダンスをやりたいだけなんです! だって私たちにとってダンスは日常なんですもの!!」とのこと。彼女たちが以前から「コンテンポラリー・ダンス」というカテゴリーの束縛から解放されたい気持ちを強く持っていたということなのだろう、でも、いまやこの言葉を見かけることはほとんどない。要は、すべてが「ダンス」になったのだ。「コンテンポラリー・ダンス」という枠は足枷にも上げ底にもなっていたろうが、今後は個々の作家が「ダンス」をどう捉えるか、捉えた価値をどう発信していくのかが、よりダイレクトにシビアに問われていくのだろう。今月は早々に神村恵の新作ダンス公演『腹悶(Gut Pathos)』がある。最近は、ブレイン・ストライキなどダンス公演以外の広くダンスや社会を問う姿勢を示している神村だけれど、とくに高嶋晋一との協力関係で進められる制作活動のなかには、緊張感のある共同作業の様子が垣間見え、ダンスへ向けたアプローチに新しい展開が示されている。

神村恵カンパニー「腹悶(Fukumon)」PV

2014/03/30(日)(木村覚)

石川勇太『Dust Park2』(長内裕美「dancedouble#2」)

会期:2014/03/22~2014/03/23

横浜赤レンガ倉庫1号館[神奈川県]

フランスのトゥールーズを拠点に活動を続けている振付家・ダンサー石川勇太の日本初演作品。石川とは、2008-2009年に行なわれた「grow up! Danceプロジェクト」以来の付き合いで、とはいえ、今回が渡仏後の彼の成長を確認するぼくにとってははじめての機会となった。40分ほどの作品。率直な感想は、日本的な「空気」から自由で、とても開放感があって、そこに端的に感動した。観葉植物の鉢、椅子、奥に扇風機、荷物の詰まった巨大リュックサックなどが舞台空間に散らばっている。そこに、石川と男(アントワーヌ・オシュタイン)と女(竹内梓)がいる。リヴィングルームみたいだが特定されてはいない。ダンサーたちも、はっきりとした役柄やキャラクターがあるわけではない、といって、過度に抽象的でもない。始まって5分は過ぎていたろうか、うつぶせしていた石川がのそりと体を浮かせた。この瞬間、はっとした。できっこないポーズを逆回しの再生によってできたことにする動画みたいだった。軽い、そして、速い。「速い」というのは実際の速度が、というより、こちらの理解の速度を上回る速さということだ。だからちょっと目眩がする。痛快だ。立ち上がり、身体が運動を本格的にはじめた。なんと言えば相応しいのだろう、軽くて、ひょいひょいと進むのだが、その軽さは、イリュージョニスティックな軽さというよりも、先の表現に似てしまうが、考える速度よりも速いことから生まれる軽さだ。フレッド・アステアに近い、と言えば形容したことになるだろうか。次々と奇妙なバランスを掻い潜ってゆく動作は、一切難解ではなく、スリリングで目眩も起こすが、心地よい。今月見た、岩渕貞太や関かおりと同じく、ダンサーらしいダンサー(ダンス狂のダンサーの1人)なのだが、とくに関とは異なり、運動を造形的に美しく(あるいはグロテスクに)する意欲よりは、体が動いていることそのことに石川の狙いは集中している。ユーモアの要素も興味をひかれた。途中、フェルト製のカラフルな魚のオブジェが出てきて、頭にちょこんと載せると、三人はよちよちとステップを踏む。女の頭から魚が落ちると、やりなおし。そんなゲームがしばらく続いた。最後のシーンも、にやけさせられた。床の上にあるとき貼付けた白いビニールテープを追うように、三人は抱きつき塊になって転がった。塊は、テープを巻き付け進む。なぜそうしているのか、そうなってしまったのか、なんて説明はない。ただ、突然降ったスコールのように、三人は自然に転がり出した。それがちょっとおかしい。上手く調整して、過度に物語的にも、抽象的にもならず、ダンスは生成し続けた。こんな風にダンスを信じるダンス作品を久しぶりに見た気がした。

dancedouble♯2 Trailer

2014/03/23(日)(木村覚)

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