2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

奥山ばらば(大駱駝艦)『磔 ハリツケ』

会期:2013/09/13~2013/09/21

「壺中天」スタジオ[東京都]

まるでオーソン・ウェルズの『フェイク』みたいだ!と言ったら大袈裟すぎるだろう。けれども、そんな賛辞を口にしそうになるくらい、今回の大駱駝艦・壺中天の公演は飛び抜けて面白かった。
冒頭、闇から現われたのは、柱に磔にされた奥山ばらば(作・主演)。車輪のように巨体がぐるぐる回される。被虐的な光景は、しかしよく見ると、腕や足に縛られたり釘で打ちつけられたりといった様子がない。ということは、自分で率先して磔にされている? 受動と能動、加虐と被虐がはっきりと線引きされず、曖昧なまま浮遊した状態、この作品の決定的に秀逸なところは、この点に集約される。ほかにも例えば、奥山がほどかれて(自らほどいて)舞台奥に行くと、村松卓矢扮する「磔の先輩」のごとき男がやはり磔にされている(自ら磔になっている)その脇で、柵に体を巻き込んで何度もポーズを変えながら柵に絡まれる(自ら絡まる)シーン。あるいは、この2人をこらしめる古代ギリシア風「奴隷の監視人」らしき男が現われ、鞭を打ち鳴らし2人を怯えさせるのだけれど、自分で振っている鞭の音に自分で驚き「ビクッ」と狼狽えるなんてシーンがある。こうしたシーンはたまたまではなく明澄な知性が生んだものだ。舞踏の創始者・土方巽は死刑囚に「舞踊の原形」を見た。「生きているのではなく、生かされている人間」という「完全な受動性」に舞踏の根源があるなんて言葉を残している。しかし、そうだとしても、それを意図してなんらかの策を講ずるならば「完全な受動性」は途端に揺らぐ。受動を能動的に求めるという矛盾あるいは嘘。これは、舞踏に限らず、およそすべての舞台芸術が共通に出くわす隘路だろう。嘘を嘘と知りながら真に受けてくれる観客の「不信の宙づり」に支えられて、舞台表現は生き存え、同時に問うべき問いが先送りされる。大抵はそんな感じでことなく進むのだが、ウェルズは希有なことに『フェイク』その他の映画のなかで、この嘘の問題に真っ直ぐフォーカスしたのだ。奥山も今作でこの「嘘」という圏へと果敢にもアクセスした。
こうしたコンセプトも素晴らしかったのだが、もう一点言及しておきたいのは、踊りが純粋に面白かったことだ。奥山のソロの動きは、まるで逆再生した映像をトレースしているかのような、不思議な浮遊感があって、次の動作が読み取れず、そのぶん目が離せない。それも魅力的だったのだが、一層重要なことであるのは、大抵の舞踏的な動きとは対照的に、奥山をはじめ、登場するすべての踊り手から内向性をほとんど感じなかったという点だ。ようするにカラッとしていたのだ。観客は踊り手の内の秘めた部分を察知する面倒から解放されるがゆえのことだろう。そうだからか、踊り手の身体は奥山の与える数々の振付で奴隷のように弄ばれているのだが、被虐的ではなく、弄ばせているのだよと言いたげな軽さがある。その点でとびきりだったのが、「磔の先輩」と「奴隷の監視人」が舞台に横並びにさせられたとき、他の踊り手たちが彼らの両手、両足、口、頭などに次々と小道具を握らせ、履かせ、銜えさせ、被せるシーンだった。右手に位牌、左手に裸の人形、眼にはサングラス、頭にはかつら、例えばそんな小道具が盛られると、2人の踊り手はその事態にあわせたポーズを恐る恐るとるのだが、すぐに小道具は別のものに変えられてしまう。そうなると、変化したバランスに対応しようとして、2人はまたポーズを恐る恐るゆっくりと切り替えねばならない。ポーズをとっているようでとらされているようで、なんともいえない、能動と受動のあわいに突っ立った体が、じつに生き生きとしていて面白い。
大駱駝艦・壺中天公演では、しばしば、踊り手の体がちゃんと遊びの道具になっている。まるでゲーム上の体のように、まるでニコニコ動画上の体のように。今作は、そんな彼らの遊び心が躍動しまくっていた。脱帽です。

2013/09/19(木)(木村覚)

芸劇eyes 番外編・第2弾『God save the Queen』(後半)

会期:2013/09/12~2013/09/16

東京芸術劇場 シアターイースト[東京都]

4組目のワワフラミンゴ(『どこ立ってる』)も、性のテーマにアクセスする。冒頭、ガーリー(?)なルックスの女の子が2人現われ、テーブルを前に坐ると、コンビニで購入してきたエロ漫画(男性向け)を交換したり、並んで読んだりする。ウブな照れなど描かれない。だからといって、ストレートな性欲の表現に向かうのでもない。ワワフラミンゴが狙っているのは、小刻みに発生し続ける女のイライラや自尊心や欲望(等身大で、ちっちゃい人間の心)の姿を描いて示すこと、しかもそれをいいものともわるいものとも即断せずに、結論としてイライラしたり尊大だったり欲望を曝したりしている様を「かわいい」と観客に思わせることではないか。ガーリーなルックスもかわいさも、あくまでも女子向け。男への媚びはみじんもない。その分、デリケートにしつらえられたセリフや動作には独特な浮遊感があって、見ていて(男の筆者でも)「かわいい」とつい笑みが漏れてしまう。着眼点がいいのだ。舞台横の扉から腕だけが見えている。たぬきのかぶり物を着けた女(たぬき)が興味を示す。さっと消えた腕に執着したたぬきは、知り合いの女を連れてきてその腕の形をとらせる。例えばこんなささいなシーンに、この劇団のエッセンスが詰まっている。腕の形への執着に、さしたる意味はない。けれども、それだけに、執着の様子が滑稽に見えるし、また執着する様を描くことで独自の審美感が伝わってくる。あるいはけんかして、追いかけっこが始まる。追う側の脚は素早く回転しているのだが、前への推進力にならず空回りする。「待てー」と言いながらの空回りが、かわいくまた滑稽なのだが、その「空回り」の動作をチョイスする着眼点にはっとさせられる。ダンスらしい動きがあるというよりは、こうしたデリケートな動きや形のチョイスにダンスを感じさせられる。
それにしても、今回の5組の劇団名を見ていると生き物の名を冠したものばかり。うさぎ、鳥、フラミンゴ。タカハ劇団のシンボルには鳩が象られているし、Qの名の由来は確か虫という文字に似ていることだったはずだ。なぜ生き物が劇団名に入るのか? そこに女性らしさを見てもいいのか? 生き物=かわいい? それとも、変身願望? 本企画の上演順は、この点であらためて見ると、ほ乳類から鳥類へ、さらに虫(昆虫?)へと進む格好になっている。しかし、Qが今作でとりあげるのは、昆虫ではなく魚類。寿司屋の娘、その友人とアルバイトの女。友人はスルメをおいしそうに食べる。彼女はエイと人間のハーフなのだという。そう、Qにとっても性は重要なテーマ。ただし、いつものように、Qの性は雑種化することに憧れる。人間の男じゃないものへと向かう性欲は、人間の男を否定する。でもそれだけではなく、そこには女のどん欲さ、変身可能性へのエネルギーが溢れている。といっても、その衝動を容易く制御できるわけではなく、女の体ではいつも予期できないなにかが発現しようとしていて、その様を表現する際に役者の身体はなんとも不思議な動作を繰り出す。独特のくせのある発話もそうなのだけれど、発話に引きずられてなのか、身体動作がぎこちなくつなぎ合わされ、ときにはバレエの動きも取り込まれ、奇っ怪でユニークな動きのフレーズが生まれる。Qはそう思えば、ダンスを創作している劇団なのだ。今回見た5組の劇団は、性をテーマにするところや舞台上の身体を扱う意識の高さなど、重なる点が多く、いまの女性作家たちがなにをどう表現しようとしているのかが、とても明瞭に示されていた。そのなかで、Qの「ダンス」は、際立って見えた。女であること、女の身体とともに生きていること、その不思議や戸惑いやいらだちや希望が「ダンス」にぎゅっと凝縮されているのだ。男たちを置いてけぼりにして、女たちが表現をはじめた。いっそ直視できぬほど赤裸々に、徹底的にやって欲しい。その後で、ミサンドリー(男嫌い)と従来からのミソジニー(女嫌い)が互いに自己主張したその果てに、なにが見えるのかが恐ろしくも楽しみだし、そこまでやらなきゃならない事態に至っているのは間違いないからだ。

2013/09/13(金)(木村覚)

芸劇eyes 番外編・第2弾『God save the Queen』(前半)

会期:2013/09/12~2013/09/16

東京芸術劇場 シアターイースト[東京都]

演劇ジャーナリスト・徳永京子のコーディネートにより選ばれた若手劇団5組が、20分の作品を立て続けに上演する企画。5組の共通点は作・演出が皆女性であること。トリを務めたQのことはartscape誌上ですでにレビューしてきているけれども、これほど粒ぞろいの個性ある女性作家たちが演劇の現場を賑わせているとは思わなかったので正直驚いた。あとひとつ驚いたのは、舞台に置かれた役者の身体をどう動かすか、その点をどの作家もとてもデリケートに取り組んでいたことだ。彼女たちの肩書きは劇作家なのかもしれない。けれども、セリフを発話する身体が舞台上でどう振る舞うべきかを、セリフに身体が単純に従属するのではない仕方で模索している時点で、彼女たちは「劇作家」であると同時に「振付家」でもあった。今回、振付家として彼女たちをとらえることで、演劇の現場がじつは〈ダンスの現場〉になっているのではないか、そのことを確認してみようと思う。
最初の2組、うさぎストライプとタカハ劇団には〈振付〉の点で共通するところがあった。セリフが喚起する物語世界とは直接関係ない動きを、役者たちがひたすら行なうという点だ。うさぎストライプ(『メトロ』)は恋愛における後悔の念を4人の役者が口にする。その最中、役者たちはシンプルなタスクをあれこれ続ける。最後に舞台奥の壁を全身でぜーぜー言いながら押したのは、後悔の思いの高まりを「思い」とは別のレイヤー(ゼーゼー言いながら壁を押す)によって表現することで、セリフ中心主義的な芝居にならないようにしていた。なるほど。でも見ているうちに、これほどセリフと動作が基本的に無関係ならば、朗読劇でいいのではないかと思ってしまった。問題は、セリフを通してテーマを伝えることが作家の主眼である場合、舞台上の身体が基本的に不要な存在になってしまうところにある。すなわち身体をもてあましている。それ故に身体にタスクが課されているのでは、そう見えてしまったのだ。
このことは、タカハ劇団(『クイズ君、最後の2日間』)にもあてはまる。ネットの自殺サイトに「最後」の瞬間まで投稿を続けた「クイズ君」という実在の人物を取り上げ、彼と彼の投稿に反応するネットの住人たちの書き込みをセリフにし、またスクリーンにディスプレイした。テーマはそこに凝縮しているのだが、舞台上では、若い男の子2人が「クイズ君」の言葉を読む一方で、政治・経済のキーワードを口にしながらテニスのラリーに興じたり、数十個のテトリスみたいな形の白い箱をあちこちに移動させたり(最終的には高い塔ができ、その上から青白い花吹雪がドカッと落とされ、自殺の遂行が暗示された)と、「クイズ君の自殺」とは直接関係のない出来事を展開する。自殺をほのめかす男(「クイズ君」)が目の前(ネット画面上)にいながら助けることができない、もどかしく空しい人間関係。これを絶望の絶叫で表現してもしょうがない、ならば、その空しさを掘り下げて見よう。そう考えたのにちがいない。そしてその掘り下げの演出が、身体へのアプローチを引き出したのだろう。物語と直接関係ない身体動作は「空しさ」のメタファーとして機能したかもしれない。けれども、そうである限り、身体動作は「空しさ」を察知させるための手段にしかなっていない。そこがちょっともったいない。ところで、こうも思ってしまった。なぜ舞台上にいるのが、白いシャツ、黒いズボンのかわいい男子2人なのだろう。そこにはテーマに即して読みとるべきメタファーがない。その分、劇作家の無意識的な欲望が垣間見えた気がする。ときに2人はまるでゲームに興じる嵐みたいだ。観客も彼らの挙動に笑みをこぼす。「クイズ君」と「嵐」の両方に足がかかっている舞台というのが、本作のポイントに見えた。
そのことをより自覚的に舞台にしたのが、鳥公園(『蒸発』)だった。シェアハウスで暮らしているのか、姉妹とは思えない若い女2人がおしゃべりをしている。ぼさぼさの髪に度のきつそうなめがねをかけた1人の女は双眼鏡越しに男(ヒロキ)を眺めている。ヒロキは自慰行為に夢中。女はヒロキに目が離せない。ここで描かれているのはただひとつ、女の性だ。リア充の恋愛ではなく、自慰的な一方通行の性。「ヒロキは鶏とセックスしている!」(鶏姦!)と同居人に報告すると、ヒロキの様子に共振して、女は延々と腰を前後に振り続ける。無意識的な自慰の模倣は、執拗に繰り返されると奇妙なダンスに見えてくる。手前勝手で嫌悪感を催すこのダンスは、女性が解放されてゆくプロセスにおいて、ぼくたちの避けることが許されない光景を象徴しているものかも知れない。なにより、女たちの外見の不細工なこと! この不細工さは醜いがリアルな女性の一面を示しているはずで、こんな女性の表象は珍しいと思えば思うほど、既存の演劇がいかに男の眼差しのためにあったのかを証しているようでもある。

2013/09/13(金)(木村覚)

プレビュー:黒沢美香&ダンサーズの『食事の計画』、奥山ばらば(大駱駝艦)『磔(ハリツケ)』、イデビアン・クルー『麻痺 引き出し 嫉妬』

artscapeの企画で、今月のレビューでも取り上げた吾妻橋ダンスクロッシングの桜井圭介さんと話をした。その内容は、今秋中に本サイトにてアップされると思うのでそのときに読んでもらいたいのだけれど、あらためて桜井さんと話し、考えさせられたのは、ぼくのフォローしているダンスの分野で、この10年の間になにか真新しい試みというのはなされたのだろうか?ということだった。この10年に目立ったのは、真新しさよりも、一種の復古的ともいうべき伝統へ回帰する傾向だったように思う。いや、回帰でもなくて、多くのダンス作家たちは淡々と過去のダンスが獲得した価値を再生産し続けてきただけなのかもしれない。ただ「回帰」の言葉をつい口にしてしまうのは、吾妻橋のような試みがあったからだ。新奇さを競う以上にじつは「ダンスってなんだろう?」という本質的な問いを投げ続けてきた吾妻橋。これが「ファイナル」を迎えた。けれどもこの問い自体は、消えることはない。個々人には、「わたしはこれまでこんな試みをした」という自負があるかも知れない。けれども、その努力が個人のトリヴィアルな課題の解決に終始しないかたちで、いわばダンスなるもの(ひとが抱くダンスへの思い込み)の更新に役立ったのかを考えてみるべきだ。そもそもダンスにはとてつもない力があるはずだ。ダンスは(音楽と、あるいはパートナーと、あるいは観客の思いと)合わせるゲームであるだけではなくて、合わせないことから始まる事態へ突き進むゲームでもある。古典や伝統を放擲する必要もないけれど、いまぼくたちが生きている諸状況に合わせたり合わせなかったりすることで、ぼくたちを束ねたり荒野へ解き放ったりしながら、ダンスのもっている潜在的な力を、もっと真剣に試すべきではないだろうか……と熱くなってしまいましたが、すいません、ここはプレビューの場でした。今月は黒沢美香&ダンサーズの『食事の計画』(9月1日、8日、16日、29日、横浜市大倉山記念館ホール)、奥山ばらば(大駱駝艦)『磔(ハリツケ)』(9月13日~21日、壺中天)、あと東京圏では来月初旬の上演だけれど、イデビアン・クルー『麻痺 引き出し 嫉妬』([北九州公演]9月28日~29日、北九州芸術劇場、[神奈川公演]10月5日~7日、神奈川芸術劇場)をレコメンドします。あれ、今月ちょっといいじゃないですか! この3組の公演を見に行けば、ぼくが上記したことなんて、ただの思い過ごしだってことになるかもしれません。

2013/09/02(月)(木村覚)

Aokid『"Blue city"-aokid city vol.3』

会期:2013/08/24

Shibaura house[東京都]

Aokidは現在25歳のダンサー。東京造形大学出身。ヒップホップをベースにしながらも、そこにかわいくて、フレンドリーなアイディアを盛り込み踊る。ぼくはこのダンサーが率直にいって好きだ。好きな理由のひとつは、アニメっぽかったり絵本ぽったりするイメージが、速い動きの最中、花火の炸裂するように散りばめられる、そんなところだ。Aokidのアクロバットは、たんなるテクニックの披露ではなく、まるで気まぐれに紙切れに書かれた漫画のようで、ぼくらが見慣れ過ぎている非人間的な身体イメージと似ていて、リアルだ。もうひとつ好きなのは、彼の優しさ。本作は、昨年12月から始まったAokid Cityという公演の3回目。会場のギャラリースペースに入ると、受付でドリンクが振る舞われ、着席すると、Aokid本人が観客にお菓子を振る舞うのだった。Aokidは忙しく会場を歩き回り、上演の準備の傍ら、観客に話しかけ、場を和ませてゆく。そうした振る舞いは、パフォーマーと観客との境界を曖昧にし、客席と舞台空間との境界を曖昧にする。ストーリーは簡単だ。Aokidが海を泳ぐうちに見知らぬ島に辿り着く。そこで怪獣と遭遇し闘い、犬と知り合いになってまた分かれ、クジラに呑み込まれたかと思えば、再びこの世界(Blue city)を後にする。まるで絵本のようなファンタジー。3歳の息子を連れて行ったのだが、彼は公演の1時間を集中して、ときに爆笑しながら楽しんで見ていた。クジラに呑み込まれた場面では、クジラの胃袋をレストランに見立てると、テーブルが舞台横に登場し、サンドウィッチや飲み物が観客に差し出された。上演が中断し、しばし歓談。「つながり」を楽しむほんわかした時間は、別に批評の対象ではないし、批評性のなさを批判するなんて無粋だ。「好き」なんていっている時点で、批評をぼくは放棄している。Aokidのダンスがもっている質は、今後、ダンスに新しい局面をもたらすかも知れないけれど、そうしたことはまあちょっと置いておこう。優しくてかわいい男の子によるささやかなパーティ、これはこれとして類い希な楽しさに満ちていたのだ。

2013/08/24(土)(木村覚)

文字の大きさ