artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
プレビュー:マギー・マラン『サルヴズ』
会期:2013/06/15~2013/06/16
彩の国さいたま芸術劇場[埼玉県]
今月は珍しく海外の作品、マギー・マランの『サルヴズ』に期待したい。マランは、カンパニー・マギー・マランを率いるフランス・ヌーベルダンスの代表的女性振付家。1981年の作品『メイ・ビー』が異例のロングラン・ヒットを記録したことでも知られている彼女だが、2010年に初演された今作では、舞台上にさまざまな災難、悲劇的な出来事、怒りや悲しみの世界が展開するのだという。ネット上で公開されている動画を見ると、ゴヤやドラクロワの戦争・革命を主題とした絵画作品が舞台上を行き来するなど、たんに個人の問題に留まらない人類史を意識させる仕掛けが用意されているようだ。ピナ・バウシュの作品とも通底している演劇的な要素が含まれたダンスを得意とするマランが、社会の矛盾をどう舞台化し、それとどう向き合っているのか、そしてそうした取り組みがぼくたち東日本大震災以後を生きている日本人にどう響くのか、それを客席で確認したい。
2013/05/31(金)(木村覚)
渋谷慶一郎+岡田利規+YKBXほか『THE END』
会期:2013/05/23~2013/05/24
Bunkamuraオーチャードホール[東京都]
先日、富田勲による「イーハトーヴ交響曲」がNHKで放送されていた。初音ミクを交響曲に導入するというこの作品の試みは、ニコニコ動画という枠を超えて、電子音楽の大家によってもヴォーカロイドが活用されうることを告げていた。なるほど、富田に留まらず、こうした試みは今後、ぼくらの想像力を超えた仕方で多様な分野へと広がってゆくのだろう。『THE END』は、まさにそうした初期初音ミクの実験のひとつとして後に振り返られる一作ではあろう。YKBXの強烈な映像世界は、パフォーマーの(渋谷慶一郎は舞台の陰で演奏をしてはいるとしても)いないオペラが、映像だけでもちゃんと舞台を満たしうることを証明した。ほかにもマーク・ジェイコブス(ルイ・ヴィトン)による衣裳や、ロビーを飾っていた等身大(?)のフィギュアなど、初音ミクという存在の魅力を新しく展開する要素はいくつも見られた。とはいえ、本作の中心となる初音ミクをめぐる物語的要素には、共感も新味な感動もほとんどえられなかった。とくに人間と同様の死が初音ミクに待っているという内容の前半のセリフには違和感があった。初音ミクが人間ではない(故に死が不可能)であることこそ、初音ミクとぼくら人間とを結びつける切ない絆を構成するものではないか、そう思うからだ(その点「わたしは初音ミク かりそめのボディ」などの富田「交響曲」に表われる歌詞のほうが説得力がある)。もちろん、今後、初音ミクになにかの役を演じさせるという試みも起きるだろうし、渋谷と岡田のアイディアもそうした志向の一種なのかもしれない。しかし、そうであるならば、なにかを「与えてもらう」ことで自分は存在しているというセリフが後半に出てきて再び戸惑ってしまうのだ。これは人間的な死という文言とは別種のきわめて初音ミク的な実存を語るものであり、その点を重視するなら、前半と後半のつじつまがあわない。プログラムでの渋谷の発言を参照すると「死」というテーマは、どうも初音ミクの存在からというよりも、オペラという音楽ジャンルの現状から引き出されたものらしい。オペラは「すでに死んだメディア」というきわめてステレオタイプな考えに渋谷は依拠している? これだけとは言いきれないが、ようするに渋谷の創作の背景から「死」というテーマが導き出されているようで、そうした作家性と初音ミクという素材との相性がぼくはあまり良くないのではと思ってしまった。ボカロPたちが、競って初音ミクに歌を歌わせているニコニコ動画の楽曲たちは、初音ミクという存在から引き出された言葉に魅力を感じさせられるものが多い。しかし、ボカロPのアプローチは既存のJポップ的なセンスに縛られすぎに映ることもある。だから、そうしたなかにあって渋谷のような作家の音楽性が現状を変化させることには価値があるはずだ。とはいえ、初音ミク的想像力に起因するものでないのならば、そうした試みは優れたあだ花としてしか残らないのではないかと危惧してしまう。
2013/05/23(月)(木村覚)
高田冬彦「メメント・モリ──愛と死を見つめて」
会期:2013/05/23~2013/05/24
白金アートコンプレックス[東京都]
白金のビルに集合したギャラリーが、5周年を祝し杉本博司のキュレーションで合同展を行なった。ぼくはここで、以前にもartscapeで論評したことのある若い作家の作品を一点だけ取り上げることにしたい。ブリトニー・スピアーズになりきったり、食虫植物に変身したりと、これまでの高田冬彦の映像作品は、たいてい、高田本人が出演することで観客を挑発し戸惑わせてきた。しかし、本作《LOVE EXERCISE》はそこがちょっと違う。動画の画面には全裸に近い女が一人(しばらくすると女の務めた仕事を男が行なう)。女の体には掌ほどの大きさのお面があちこちに貼りついていて、男も女もいるのだけれど、その表情はどれも口を尖らせて恍惚としている。そこにおもちゃのような天使が現われ、「ここの子と、ここの子にチューさせて……ああもういいや、今度はこっちの子とあの子……」などといった気まぐれな指令を裸の女に与える。たとえば、胸の脇に着けたお面と太もものあたりに着けたお面をキスさせるとなると女はたいへんだ。スパルタのインストラクターにこらしめられているみたいに、苦しそうにしながら、女は体を丸めて面と面(口と口)を必死に合わせようする。無理難題をもちかける意地悪な天使によって、口を尖らせた男女が、もがく女の体の上でキスを試みる。ペアは男女とは限らない。男男も女女も女男女もある。この天使まかせの乱交的状態に眩暈のようなものを感じてくらくらしつつも、恍惚感が溢れてきて見ることがやめられない。これは愛をめぐる天使と恋人たちの物語であり、同時に天使と天使に指令される裸の女(男)とのSM的物語である。この二つの物語が二つの歯車となり、かみ合い、進む。愛というものの姿がこれほど赤裸々に語られていいのか、そう思うほど見る者の心と肉体を強く刺激してくる。高田の作品の特異性は人間を見つめるその眼差しの力にある。美しく価値ある人間のみならず、自己中心的で、露出症的で、ときに愚かときにずるい、自らの欲望に忠実な人間。この大衆的で俗悪な人間というものの実相に、高田はさらに一歩迫ってみせた。
2013/05/15(水)(木村覚)
プレビュー:岩渕貞太+関かおり『Hetero』(DANCE-X13 MONTREAL: TOKYO: BUSAN)
会期:2013/05/31~2013/06/02
こどもの城 青山円形劇場[東京都]
岩渕貞太と関かおりによる『Hetero』が「DANCE-X13 MONTREAL: TOKYO: BUSAN」で上演される。昨年の横浜ダンスコレクションEXで若手振付家のための在日フランス大使館賞を受賞したこの作品。2人がここ数年きわめてストイックに取り組んできた身体の質の実現を、今回の上演で驚愕しつつ見ることになるだろう。彼らは身体マニアとでも言いたくなるくらい、自分たちの身体を独自のニュアンスが生まれるまで執拗に造形してきた。昨年トヨタコレオグラフィーアワードでもその成果はあらわれ、関は『マアモント』で次代を担う振付家賞を受賞した。日本のコンテンポラリーダンスはややもすれば素人的であることが肯定的に見られるところもあるが、2人の取り組みは、造形することの可能性をわたしたちに訴えてくる。その造形愛はどこか人形愛に似ていびつで、そのいびつさこそ彼らのなによりの魅力なのだ。
2013/04/30(火)(木村覚)
黒沢美香(振付)、上村なおか+森下真樹(ダンサー)『駈ける女』
会期:2013/04/27~2013/04/29
スパイラルガーデン[東京都]
ゆったりとしたらせん状の階段の中程に座して、階段がぐるりと囲む丸い空間を見下ろしながら、公演中ずっと考えていたのは、黒沢美香のダンスは振付に還元できないなにかなのではないかということだった。上村なおかと森下真樹という10年以上のキャリアを積んできた2人のダンサー・振付家が黒沢美香の振付を踊る。コンテンポラリー・ダンスを10年以上ウォッチしてきた筆者のような者にとって、これは間違いなくワクワクさせる企てだ。事実、長身に見えるスレンダーな2人が薄赤い皮膚のような衣裳を纏って、円形の舞台をぐるぐると駈け回る冒頭あたりまでは、「薔薇の人」(黒沢が長年続けてきた、ときに恐怖を催すほど奇っ怪なダンス公演)シリーズが黒沢ではないダンサーによって上演されているかのような錯覚に陥り、興奮させられた。けれども、かなり早い時点で、あれ?と思い始めた。いかにも黒沢らしい振付が繰り出されてはいるものの、それが黒沢のダンスに見えない。森下のダンスは、中学校の教室にいる面白い女の子のような愛嬌がある。不意に見せる仕草につい笑みがこぼれる。それはいわば、あらかじめとらえておいた観客のなかにある笑いのツボを刺激しようとする「昨日」のダンスだ。不意にそんな言葉が浮かんだ。ならばどうだろう。即興を重視するところのある上村のダンスは、いまを感じながら、いまの身体を反省し進んでいく「今日」のダンスとでもいおうか。さて、そうとらえてみたうえで考えると、黒沢のダンスは「昨日」とも「今日」とも違う。あるいは、理想へと向かって邁進する類の「明日」のダンスでもない。あえていうならば、それは「明後日」のダンスだ。思いがけないところに確信をもって突き進む、乙女チックで不思議ちゃん的な、瑞々しいステップだ。黒沢独特の瑞々しい、なにか「はっ」と気づいたら見ているこっちが気絶させられていたとでもいおうか、そんな異次元トリップの感覚はこの舞台にない。いつも通り森下は「昨日」を、上村は「今日」を踊り続ける。振付は確かに黒沢的テイストが込められているのだが、2人の踊りは黒沢のエッセンスと向き合っているように見えなかった。もちろん、黒沢の物真似をすればいいということではない。とはいえ、「明後日」と「昨日」が、「明後日」と「今日」がどう響き合うのか、そこはこの公演の最大のポイントであろうし、少なくともぼくはそこになにかが凝らされているものと期待したのだ。いや、簡単な話だ。森下と上村が、黒沢のダンスをどう受け取り、どう解釈し、どう愛したあるいは憎んだか、それが知りたかったのだ。そこがぼくにはぼやっとしか見えなかった。
2013/04/28(日)(木村覚)