artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
鈴木ユキオ+金魚『大人の絵本』
会期:2013/01/25~2013/01/28
象の鼻テラス[神奈川県]
絵本作家トミー・ウンゲラーの『すてきな三にんぐみ』に触発されて『大人の絵本』というタイトルとなった本作は、第1部が鈴木ユキオ+金魚による『断片・微分の堆積』、第2部がゲスト(25日は黒田育世+松本じろ、26日はKATHY+大谷能生、27日は東野祥子+カジワラトシオ、28日は白井剛+Dill)を招いての『即興絵本』という二部構成。『断片・微分の堆積』は、昨年の『揮発性身体論「EVANESCERE」/「密かな儀式の目撃者」』と同じキャスト、鈴木に加え安次嶺菜緒、堀井妙子、赤木はるかの女性3人による上演。力の拮抗する身体部位の関係を発見しては採集し、それを最良の状態で再生しようとする、鈴木のトライアルはおおよそそのあたりに焦点が絞られているようだ。長年のパートナーである安次嶺はもとより、若い堀井や赤木も鈴木的振付が体に浸透してきたみたいで、昨年の公演よりも観客の身体に訴えかけてくる力が増してきた。近年のダンス作家たちの試みには、身体をストイックに鍛錬し、振付を体現する固有の質をかたちにしようとする傾向がある。それは誰でも踊れる民主的なダンスというよりは、ダンスの高みを追求する傾向であり、排他的に見える面もあるとしても、ダンスにしかできないことを徹底的に追求するなかで普遍的な価値を確立し、閉塞的な状況を突き抜けようとしているのであれば、支持したい。鈴木のダンスに濃密に存在するスリリングな魅力が、女性3人からも遜色なく受け取られるようになるのはもうすぐではと予感した(安次嶺のソロには彼女固有のダンスが強く感じられた)。第2部、ぼくが見た回には白井剛が音楽家のDillとともに出演、鈴木と3人で即興的なパフォーマンスを上演した。この第2部は「音」と「身体」の関係が主題であったというが、黒い革靴を白井と鈴木で奪い合ったり、壁に投げつけたり、床に手で叩きつけたりと「タップ」的な要素が出てくると、「コンテンポラリーのタップダンス?」と期待してしまったが、さほどその点の展開はなく、即興ならでは、ハプニングの連続するなか個人の力量が発揮される時間で場は満たされた。
2013/01/28(月)(木村覚)
「であ、しゅとぅるむ」展(文谷有佳里のドローイング作品ほか)
会期:2013/01/09~2013/01/20
名古屋市民ギャラリー矢田[愛知県]
美術批評の研究者で同人誌『Review House』の編集も担当した筒井宏樹企画による展覧会は、作家たちにチームを組ませたり制作のプロセスを開示するという縛りだったりを設定することで、展示会場をタイトル通りの「嵐」状態にしていた。作家たちのみならず観客にも開放されたお絵かきスペース(落書きOKの白い紙が通路の両側を覆う)を潜ると、見る者の視界には、つねに複数の作家による作品が重層的に断片的に飛びこんでくる混沌とした情景が広がった。ポスト・カオス*ラウンジのひとつの試みとして読みとりたくなるその景色は、しかし、カオス*ラウンジがpixiv的な環境から生まれていたのとは異なり、現代美術的な環境の反映であることは明瞭であり、その分、作家の技量の強さが際立っていた。それもそのはず、伊藤存、小林耕平、泉太郎、坂本夏子、梅津庸一、大野智史など作家の顔ぶれが強力なのだ。高級食材をふんだんに用いたミンチは、味わうと、それぞれの画力の競演といった様相を呈し、その分、瞬間のインパクトや情報としての強度に作家の力が還元されてしまう気がして「嵐」を生む展示の面白さと難しさを同時に感じた。そんななか、端っこで他の作家と競合することなく、ひっそりと、自力を存分に見せていたのが文谷有佳里のドローイング作品だった。小気味のいいスキャットに踊らされてしまうように、文谷の線は目的なくしかしリズミカルで、延々と続く軽快かつスリリングな運動に目は完全に心を奪われ、その流れに釘付けになってしまった。会場の一角で本人が実際に実演していたのだが、本人の意識とはまるで関係ないかのごとく自由闊達に手が動く様子は、さながら夢遊病者のよう。線の運動にグラフィティとの近さを感じる。いや、なにかになぞらえるなら、これは紙上のダンスだ。身体表現のダンスと異なり、花火みたいに瞬時に消えてしまうことなく、紙の上ならば運動の情報は堆積しているのだし、あるいは濱野智史のインターネット情報論(『アーキテクチャの生態系』)に重ねてみるならば擬似的に同期しているわけである。そうした利点を有すドローイング=ダンス。ドローイング以上にダンスを考えるヒントをもらった気がした。文谷は3月開催のVOCA展2013にも選出されているのだという。その展示にも期待が膨らむ。
2013/01/20(日)(木村覚)
プレビュー:鈴木ユキオ『大人の絵本』
会期:2013/01/25~2013/01/28
象の鼻テラス[神奈川県]
初詣で半吉を引いた木村です。息子は大吉で、くじには「おごり高ぶり丸」なる帆船に乗って順風満帆という絵が描かれていました。息子の船に便乗して今年を乗りきりたいと思います。さて、1月のマストは、鈴木ユキオ企画の『大人の絵本』(2013年1月25日~28日@象の鼻テラス)です。トミー・ウンゲラーの絵本にインスパイアされた企画ということで、一部は鈴木ユキオ+金魚の新作(『断片・微分の堆積』)、二部はゲストを招いて『即興絵本』と称した即興公演──といった構成で展開される予定。ゲストが豪華で25日は黒田育世+松本じろ、26日はKATHY、27日は東野祥子+カジワラトシオ、28日は白井剛+Dillといったラインナップ。いまの日本の(コンテンポラリー? もうそう呼ぶのにはリアリティがないかも)ダンスの力を確認すること間違いなし。上演会場が象の鼻テラスというのもいい。極寒の真冬の海辺とはいえ、横浜のリラックスした雰囲気が存分に楽しめることだろう。
2013/01/15(火)(木村覚)
バナナ学園純情乙女組『バナナ学園大大大大大卒業式~サヨナラ♥バナナ~』
会期:2012/12/28~2012/12/31
王子小劇場[東京都]
昨年5~6月の公演に際して、観客からのクレームが発生し、活動が難しくなってしまったバナナ学園純情乙女組(くわしくは水牛健太郎「いわゆるバナナ事件について」などを参照いただきたい)。これでおしまいかと思っていたのだが、最後に解散公演を行なうことになった。本作を見て(体験してといったほうが正確か)、あらためて思うのは、彼らのパフォーマンスというのは人と人との身体的接触に生じるなにかに賭けるところにあるということ。役者が小道具を使う前に観客にいったん預けたり、水や豆腐を舞台や客席にところ構わず浴びせかけたり、客席の間を水着姿の役者たちがうろうろしたりというのは、観客との直接的接触のマジックに賭ける彼らの方法のひとつである。それは身体の接触によってかりそめの一体感を構築する点で祭りに近いのかもしれない。ただし残念なことに(初日の公演を見たせいかもしれないが)、これまでと比べると、その大事な接触が弱いとどうしても思ってしまう。どんなものであれ接触とはハラスメントであり、傷つくことだ。傷から始まることが彼らのパフォーマンスの核であるとすれば、傷つけないでそれは始まらない。この傷へのアプローチは、今後どう展開するのだろうか。それと、アニソンだとかコスプレだとか若者文化の意匠を薄っぺらなまま大量に舞台に持ちこんで猛烈にかき混ぜる様ももうひとつの彼らの魅力であるが、そこでキラキラ輝く若者の身体の切ないほどに無意味な存在感は、ただたんに彼らが実際に若いから生まれたものではないということを証明して欲しい。そのためにも、解散後の彼らの活躍に注目し続けたい。
2012/12/28(金)(木村覚)
Q『虫』
会期:2012/12/20~2012/12/24
アトリエ春風舎[東京都]
2012年最大の衝撃作。桜美林大学出身の市原佐都子作・演出による劇団Qの第4回公演。大学を卒業してまだ2年弱の市原。本作は卒業制作がもとになっているようだが、学生気分みたいなものとは無縁の、しっかりとした構成や演出力に驚かされた。しかし、それはこの作品の衝撃とはさほど関係がない。なによりも驚愕したのは、ここに描かれているのが「女が見る女の像」であり、しかも、どんな気取りもなく、女のさえないところに的確にまっすぐに焦点が絞られていることだ。「人は女に生まれない、女になるのだ」(ボーヴォワール)の言葉のように、通常「女」とは男の眼差しが女の体に纏わせてつくるもの。「女」は男なしに単独には存在しない。演劇の世界もそうで、ほぼ100%「女」は男の欲望を具現した姿でしか現われない。これは男性作家に限ったことではなく、たいていの場合女性の作家も、理想像であれ、小悪魔であれ、ブスであれ、(男性中心)社会から求められる女性像を描いてきた。ところが、驚くことに、この作品にはそうした抑圧する男が存在しない(あるいは極小化されている)のだ。女子だけだからといって、女子会やらガールズトークやらとも無縁の世界。男ウケとも女ウケとも関係なく、ただただ女の欲望のいくつかのかたちが目の前に示される。モテる女、世渡りの上手い女、趣味を持つ女もいるが、主人公格2人は明らかにダメな女。不味い弁当屋で働く女たち、ひとりは夜に「虫」に強制的に下着をさげられ、射精させられる。嫌だが、窓を開けて何度も「虫」の侵入を受け入れてしまう。もうひとりは不味い弁当を毎日二箱持ち帰り夜と朝に食べる生活。ある日、関ジャニ∞が好きになり(ジャニーズ・ファンの心理が舞台に取りあげられたことなどかつてあったろうか!)、録画した番組を見ては、夜な夜な自慰に耽る。先述のバイト仲間の部屋に行くと自分も「虫」に射精させられてしまう。しかし、悪い気持ちばかりでもない。そんな彼女たちを含め、登場する女たちはみな妄想癖があり自慰志向がある。この世界に男はいない。いや、いるが関ジャニ∞に象徴される妄想の対象以外の男は「虫」扱い。女たちはみにくい。このみにくさはしかし、男からの抑圧的視線から自由な(あるいは追放されている)証拠でもある。くちゃくちゃと弁当を食べる不快な音、床にまき散らされまた雨のように降らされるポップコーン、不味い弁当の不気味さ、生理の話、クラミジアの話、どれも「虫」=男の力を最小にする装置として機能する。新しい扉が開かれた。観劇後そんな気持ちで震えた。『虫』では男は追放されている、いや、追放されているのは女のほうかもしれない。ミソジニー(女嫌い)とミサンドリー(男嫌い)の社会。しかし、なにより重要なのは、これまで語られずにいた孤独がここにあるということだ。
2012/12/22(土)(木村覚)