2021年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

マギー・マラン『Salves──サルヴズ』

会期:2013/06/15~2013/06/16

彩の国さいたま芸術劇場[埼玉県]

一言でいえば「ドタバタ悲劇」。ラストの5分は「ドタバタ悲喜劇」。5台のオープンリールが舞台を囲む。冒頭、この機械で再生するテープをダンサーたちがマイムで手繰ってみせる。その後は、5秒から10秒のきわめて短いシーンが暗転を挟んでひたすら連なってゆく。たとえば、一文字に腰掛けた男女、不意に現われた黒人や軍人が横から割り込むと端の一人が押し出され、倒れてしまうとか。とくに繰り返されるのは、あわてる人間たちの姿とか。なにに追われているのか判然としないが、あわてるさまは緊張しているようでも緊張している振りのようでもある。特徴的なのは、皿とか彫刻像とかを数人でバケツリレーしているあいだに、それらが床に落ち、割れてしまう場面。これが何度も繰り返される。割れた皿を集めて復元してみせたりもする。暴力が文化や伝統を破壊することのメタファー? しかし、不思議なくらい、戦慄が、見るこちらの心に迫ってこない。堆積していくシーンが暗転を挟んでいるからか、映画の一場面のように見えてしまい、その分、間近な舞台で実演されていることなのに迫真的でないのだ。世界に潜む不安を取り上げてはいるものの、この取り上げ方だと、不安な出来事を安心な距離から見つめている格好になってしまう。アイロニカル、でもそれでいいの?と思わされる。始終流れていたフランス語の語りをぼくが聞き取れなかったことが致命的問題だったのかもしれないが。最後の5分は、それまで暗かった舞台が突然明るくなり、大きなテーブルが用意され、パーティでも開かれそうな様子になる。しかし、ささいなことで、人々はけんかを始める。顔にカラフルなペンキを投げつけ合う。叩き合って、パーティが台無しになって終わる。悲劇の後の喜劇は、喜劇それ自体の力を発揮する余地なく悲劇をより悲劇的に(悲惨なことに)する。世界を転がす難しさ、生きることの苦しさは描いたのかもしれない。けれども、そんなこと当たり前じゃないとも思ってしまう。むしろ、難しいと苦しいと思い込んでしまう精神の硬直を解きほぐす力こそ、ダンスの力なのではないか。その意味では、もっと踊って欲しかった。短いシーンを積み重ねるやり方は、ピナ・バウシュを連想させたが、バウシュが踊りの内に盛り込んだ「精神を解きほぐす力」はここにはなかった。ただ悲しくもなく可笑しくもないドタバタがあるだけだった。

2013/06/16(日)(木村覚)

はえぎわ『ガラパコスパコス──進化してんのかしてないのか』

会期:2013/06/07~2013/06/16

三鷹市芸術文化センター・星のホール[東京都]

ノゾエ征爾が主宰するはえぎわの第26回公演は、2010年に初演した作品の再再演。はえぎわの芝居は、さまざまな人間のタイプを舞台にまき散らして、現代の社会を舞台に浮き彫りにする。本作では、とくに老いが求心力となっていたのだが、その際に特徴的なのが、人間の醜い部分を露出していく一方で、その表現はじつにカラッとしており、軽く、ユーモアに満ちているという点だ。派遣社員としてピエロを演じる気弱な主人公(ままごと主宰の柴幸男が演じる)が不意に出会った認知症の老婦人と意気投合、自分の部屋で暮らし始める。この出来事に、特養老人ホームのスタッフ、老婦人の娘や孫娘、主人公の兄夫婦や高校時代の友人たちが、絡まってゆく。類型的な人物造形はおもしろおかしくて、時代の病とでもいえるような諸問題を、ある程度自分との距離を置きながらしかし自分にも当てはまることとして観客に考えるよううながす。こうしたところにノゾエの演劇的力量が感じられ、引き込まれる。一方で、人物造形が類型的なぶん、わかりにくいところも出てくる。とくに、主人公と老婦人との愛情生活がどうして始まり、どう進んでいったのかという点。もちろん、老婦人のお漏らしや理不尽な行動に翻弄されつつも献身的に支える主人公の姿など、生活を描く部分はあるにはある。しかし、その生活に主人公は些細でもひとつの発見・感動を見出したりしなかったのか、なんて思ってしまう。結局、主人公の人間に向き合えない性格が自分の名前さえ覚えない女性との暮らしに居心地のよさを感じたという〈コミュニケーション不全状態こそが都合のよいコミュニケーション状態〉という、現代的若者の「らしい」姿を描くことに終始したということか。ところで、本作のタイトル。「ガラパゴス」は日本を指すとともに独自の進化を指しているようだ。進化はしばしば劇中で話題となり、ここが不思議なところなのだけれど、劇中では「老人」が進化の最終状態とされている。そして、老人の次の進化の状態は「?(わからない)」ということになっているのだが、この奇妙な老婦人との愛がより丁寧に描かれれば、そこに次の進化の様は示唆できるのかもしれず、そんなことが描かれたら!なんて空想しているうちに、芝居は終わった。

2013/06/12(水)(木村覚)

かもめマシーン『スタイルカウンシル』

会期:2013/05/28~2013/06/02

STスポット[神奈川県]

萩原雄太さん、『スタイルカウンシル』を見ました。この作品は客席の観客に向けられているようで、「未来」や「宇宙」の言葉で指し示された不在の対象に向けられていました。この仕掛けにぼくは率直に感動してしまいました。本作は「3.11以後」の作品です。いわきで取材し、そこで収録したインタビューが用いられています。ボイスレコーダーを手にした役者が、イヤフォン越しにインタビューの音声を聞き、被災者の言葉を役者が口伝えすることで、事柄の焦点は具体化されていました。福島で取材した人の思いを舞台に上げること、同時に、取材したときの萩原さんの思いを舞台に上げること、これが本作のひとつのベクトルです。しかし、それにとどまらず、一体それをしてどうなるのか、被災地への自分の思いはどうしたらいいのか、もうひとつのベクトルはそこから発して、人類の姿を宇宙人にどう説明したら説明したことになるのかという問いへと向かっていきます。ぼくは単純にそのベクトルが引き出されたことに、感動してしまいました。ああ、この芝居の観客はぼくたちではなくて、宇宙人なのか! 宇宙人という観客に見せたい人類の姿とはなにかと問う一方で、リアルの観客は舞台から見放されるのか! 真の観客は神であるバリの芸能がそうであるように、特殊な関係性を舞台空間に構築した気がしたのです。萩原さんの試みは、荒唐無稽に思われるかもしれません。けれども、萩原さんの真面目さが、ここまで至らせたというところになんというか狂気を感じて、ぼくは魅了されました。ただし、こうなると真面目さの真実性が問われることになるのでしょう。萩原さんの真面目さは演技なのか本気なのか、そこが本作の一番の焦点のように思います。真面目さが突き抜けて、芸術どころじゃないと社会活動に向かう人もいるでしょうし、社会と芸術の関係に思い悩んだ末、芸術活動に専念すると決める人もいるでしょうが、萩原さんにはぜひとも、「(芸術も社会活動も)どっちもとる」という立場を選択して欲しいと思ってしまいます。そこで戸惑いあたふたすることも、ひとつのパフォーマンスでしょうし、ひとつ決定的なポイントを見つけて徹底的に掘り下げるのも、見所多いパフォーマンスになりうるかも知れません。たとえばセリフに「それは(ここにはいない誰かが演劇では「いる」と錯覚できること)、錯覚だけれども、僕らのその気持ちは、本当に、あります」「僕らは、僕らを信じます」などという言葉がアイロニーではなく、ストレートな表現だとしたら、この作品は萩原さんの芝居という以上に演劇論であり、もっといってよければ信仰告白です。告白を聞いてしまった観客の一人として、その信仰を萩原さんがどう生きるのかというドラマを見ていきたいと思っています。

2013/06/02(日)(木村覚)

Noism1『ZAZA──祈りと欲望の間に』

会期:2013/05/31~2013/06/02

KAAT[神奈川県]

金森穣さん、『ZAZA──祈りと欲望の間に』を見ました。時間をかけて鍛え上げたダンサーの身体は圧倒的な力を発揮するものだなとあらためて確認しました。第1部の「A・N・D・A・N・T・E」、白い羽(俗にいえば紙吹雪)のようなものがつくる円の周囲をダンサーたちはぐるりと周り、ときに円に入るとダンサーたちは複雑に絡まって、羽を宙に舞わせながら、アクロバティックな連鎖を繰り広げました。そうしたときのよどみのなさに、ダンスのなかの非ダンス的要素を削ぎ落してはじめて生まれる、ストイックな美しさを堪能しました。ロマンチックバレエのしばしば第2幕で展開される妖精たちの世界を重ねて見ていました。妖精たちの世界は、人間の意識下に潜む欲望の世界です。その闇を白で描く。羽のような紙のようなものでつくった円の形がダンサーたちによって乱れていくさまに、そうした闇の姿を一瞬見た気がしました。バレエは狂気に迫りながらぎりぎりまで狂気を美しく可憐に描くものです。第1部はその狂気へ、つまりバレエの力へ向かっていると思いました。
以上のように第1部に魅了されたぼくは、その一方で、第2部、第3部をうまく受けとめられませんでした。第2部「囚われの女王」は、囚われた女王が主題のシベリウスの楽曲をバックに井関佐和子が踊るソロ作品。単純な話、ぼくにはダンサーのどこからも「囚われた」感じがしなかったし、目の前にいるのが「女王」という感じがしなかった。冒頭に長い説明がスクリーンに映りました。その説明内容とダンスとのギャップが埋まらないまま終わってしまった。気になったのは、井関の痩せた身体です。「短髪だからボーイッシュ」というのもつまらない理解ですが、井関の身体は「女王」の質をほとんど見る者に察知させません。その代わりに感じられるのは、鍛えられたストイックな身体が目の前にいるということです。チュチュを剥ぐと、バレエダンサーは無機質なダンス機械に見える。この事実を見ないことにして「女王」の主題を押し出すより、この事実を積極的に活かしたほうがよいのではなどと思いました。
ところで、金森さんはもっとダンス中毒だと思っていました。ダンス中毒の異常性が、狂気にもギャグにも見えるくらい爆発していると観客はグッとくるだろう──、そんなものが見られるという期待を抱いてこの日劇場に来たのですが、第3部「ZAZA」ではその期待は満たされませんでした。経験上、舞台にリンゴというアイテムが登場すると条件反射的に「マズイ!」と身を固くする習性をぼくはもっていますが、やはりあれは危険ですよ。いくら金森さんの表現したいことがデリケートだとしても、リンゴが登場しただけでそれが連想させるありがちなメタファーへと観客は単純化させてしまうものですから。ちなみに、ブラウン管テレビもおもちゃのピアノも拡声器も同様なアイテムで、無意味に60年代(「アングラ」!)を喚起させられたりします。自己顕示欲と性欲とが満たされぬままにはけ口を求めている、金森さんはそんな現代社会の姿を描きたいようにぼくには見えました。それをコント(非ダンス)的な表現ではなく、ただただ踊ることで描いたらいいのに。自分の踊りを見せたいというダンサーの自己顕示欲が、ガリガリの身体を生み出してしまう。フェティシズムを喚起しない身体が、性的に欲情している。そんなちぐはぐな、異常で、ときに切ないときに滑稽なダンス中毒の世界。これこそ、現代社会を語るのにふさわしい、バレエならではのメタファーなのではないか(『ジゼル』にはすでに、踊り死にしそうになるというダンス狂いのシーンがありますが)。そうした自己への批評が見え隠れしたら、そのとき現代的なバレエ作品が生まれるように思うのです。

2013/06/02(日)(木村覚)

岩渕貞太、関かおり『Hetero』(「DANCE-X13: MONTREAL:TOKYO:BUSAN, 3rd Edition)

会期:2013/05/31~2013/06/02

青山円形劇場[東京都]

闇にスピーカー経由の溜息が漏れる。その直後、男と女が光に照らされた。貝のように向き合う2人。次第にゆっくりとした動作で体の形を変えていくのだけれど、線対称の鏡写し状態で、男が手を延ばせば女も手を延ばし、二つの手は重なる。緻密に同期するユニゾンは、無音のなかで、美しい緊張を保つ。身長差が20センチほどある2人だから、完璧に一致するわけではない。微小なズレは、タイトルが示すような「違い(hetero)」を気づかせるが、ユニゾンの緻密さがともかく徹底していて、2人を人間離れさせる。カナダ、韓国、日本の振付家・ダンサーがそれぞれの国で上演をしてゆくという文化交流の意味合いもある「DANCE-X13」という企画で、彼らは異彩を放っていた。カナダ(ヘレン・シモノー『FLIGHT DISTANCE III: CHAIN SUITE』)と韓国(キム・スヒョン『KAIROS』)の作品は、特徴ある音楽がベースとして流れていて、ダンサーたちはその音楽にリズムを合わせたり、やや離れたりしながら、いかにもコンテンポラリーダンスというような「らしい」運動を見せる。岩渕貞太と関かおりのダンスは、そうした音楽的要素もないし、そもそも何々「らしい」と特定できるような動きではない。圧倒的な個性がそこにあった。一定のスローな動きが、音楽に縛られるような類のダンスの時間性を失効させる。しかし、ずっとスローというのでもなく、素早い動きも差し込まれ、ギアを変えていくからこそ、この個性は引き出されているのだろう。10分ほど過ぎたあたりだろうか。最初のとは異質な男の大声で溜息がまた舞台に投げ込まれた。すると、この2人と溜息の主との関係が、気になってくる。2人は巨大な怪物の胃袋の中で、いまこうして生きている? 正確なことは皆目わからないのだが、そうした連想が湧いてくる。そうなると、2人の体はじつはとてもミクロなスケールなのではないか、などといったさらなる連想に誘われる。形が少しずつ変わり、体が絡まり合うと、2人は未知の昆虫のように見えてくる。その一方で、女の体の丸さや男の体の頑強さが2人を人間に引き留める。3回目の溜息が舞台にこだました。たまたま2人を照らしていた光が2人を見失った。そんなふうに、2人の運動は見えなくなった。

2013/05/31(金)(木村覚)

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