artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

『吾妻橋ダンスクロッシング2013 春』

会期:2013/03/29~2013/03/31

アサヒ・アートスクエア[東京都]

吾妻橋ダンスクロッシングは、浅草のアサヒ・アートスクエアを会場に桜井圭介が2004年からキュレーションしてきたパフォーマンス・イベント。最近は「ダンス」という括り方ではとうてい収まらないセレクションになっているのだが、今回はこれまで以上に特異な感触があった。コミカルさは後退し、代わりに暗さ、不安さが濃密に漂い、退廃的とでも形容したくなる「だめ」さが際立った。伝統的な価値に反対するジェスチャーを指すのに、いまぼくは「だめ」という言葉を使ったのだけれど、その意味で(いや、その意味を超えて)格段に「だめ」だったのは遠藤一郎のパフォーマンスだった。core of bellsはパンキッシュな演奏を変身をめぐる奇っ怪な小芝居とともに行ない、演奏がぐにゃりと変形してしまう仕掛けを見せた。これは「パンクをまじめに演奏するとパンクでなくなる」というディレンマに立ち向かい、その難問に解答を試みたまじめな「だめ」さだ。室伏鴻は何度もぶっ倒れ、舞台から落下し、素人的なダンサーたちが林立する中で四つん這いで徘徊した。これは知的で方法的な「だめ」さだ。悪魔のしるし(危口統之)は自虐的に自らの「腐った」(タイトルが「芯まで腐れ」)状況を嗤い、「長嶋茂雄」のバットで自らの死刑を執行した。これはアイロニカルな「だめ」さだ。東葛スポーツはチェルフィッチュに出演する女優二人が演劇とラップを融合したスタイルで無軌道に観客に向けてくだをまいた。この投げやりな様子はいらだつ女性の内心に潜む不安を滲ませていた。これらのだめさは知的だし反省的で反抗的──だからじつは自分はだめじゃないといいたげ──なのだけれど、遠藤一郎の「だめ」はそうした前置きなしのだめなのだ。ひょいと舞台にあがったその男は、観客に向けて「さあ」というかけ声を連呼し、力をためるような身振りを何度も繰り返した。その後、『展覧会の絵』をバックにガッツボーズを決めてみせた。彼がかけ声をかけ、こぶしを握りしめるたびに、観客席は気恥ずかしさで引いてしまう。「あいつ、なんなの」と冷笑すれば観客は遠藤に楽勝できる。けれど、この「引き」はここで自分たちが望んでいるものはなんなのかと観客に考えさせ、いろいろな既存の価値に縛られている自分に向き合わせる力をも有している。この「だめ」はその意味でダダ的だ。けれども、ダダのように見る者を無意味へ誘うのが遠藤の狙いではない。遠藤の行為はどれも青臭くマジだ。後半、ブルーハーツの『TRAIN-TRAIN』を絶唱すると、「気恥ずかしい遠藤」という存在にすがすがしささえ感じるようになる。core of bellsが賢明にも選んだ迂回路をさらに迂回する……、いやいや、これはやはりただの絶唱なのだ。王様は裸だと指さす側で平静を装うのではない、自分が裸であることを隠さず、情熱と不安をむき出しにした王様の絶唱。ほかの作家たちが「がれき」の話をしているのに遠藤は「さら地」の話をしていた、などと喩えるのは不謹慎か。ともあれ遠藤の出演にキュレイターの意志を感じた。「だめ」の進む先にある「未来」を遠藤は指し示そうとしていた。

吾妻橋ダンスクロッシング2011:http://artscape.jp/report/review/10009292_1735.html
吾妻橋ダンスクロッシング2010:http://artscape.jp/report/review/1217753_1735.html
吾妻橋ダンスクロッシング2009:http://artscape.jp/report/review/1209300_1735.html


2013/03/29(金)(木村覚)

岩淵多喜子『パフォーマンスキッズ・トーキョー:からだのキモチ』

会期:2013/03/24

ルネこだいら[東京都]

(以下の文はリハーサルとゲネプロを基にしている。見学を許可してくれたスタッフの方々に感謝致します)
子どものからだは面白い。筆者の家に暮らす3歳児のからだは柔軟で機敏で、ときに暴力的、ときに奇想天外だ。息子がポーズをとり親が2人でそれを真似する、なんて遊びがはじまると、超ユニークなポーズを真似できず四苦八苦する親たちの低スペックぶりにあきれながら、フレッシュなからだの面白さを痛感してしまう。泣けばからだ全体が泣く。文化の諸コードにどんどん呑み込まれていくと彼の涙も文化的になるのだろう。それは確かに成長である。何かを習得するとからだの能力は拡張する。けれども、その成長は同時に、過去の人間たちがつくった規範に縛られてゆくプロセスでもある。
岩淵多喜子が振付・構成を担当した本作を見た(以下は本番ではなくリハーサルとゲネプロを見ての文章である)「パフォーマンスキッズ・トーキョー」はNPO法人芸術と子どもたちらが主催して上演されてきたプログラムで、24年度は山下残、山田うん、セレノグラフィカなどダンス系や音楽系の作家たちが携わり、約10日間のワークショップの後で発表会を催してきた(学校の授業で実施されるプログラムもある)。ぼくは2011年の鈴木ユキオによる公演『JUST KIDS』をここで評したこともあるが、そのときもまた本作でも感じたのは教育(振付)というものの難しさだ。教育はできないことをできるようにする。その成長が、できるようになった子どもをどこへ導くのかにその真価かかっていよう。鈴木の場合は、彼のルーツである舞踏の暗黒性へと子どもたちを連れて行った。そうして、死や絶望を含んだ生活の暗部へと子どもたちを向き合わせた。岩淵の場合、例えば、自分の過去にあったこと、将来あったらいいと思うことなどをジェスチャーで表現している(ように見える)シークエンスなどがあり、子どもたちを自分自身へ向き合わせようとしていた。それもひとつの教育方法だろう。この向き合う「自分自身」が本人も自覚していなかった何かであれば、そこには驚きがあり、発見があるはず。今回の上演がまさにそんな自分自身(=「からだのキモチ」)に気づく機会であったらと思うのだが、上演の主たるベクトルはそうした気づきを大切にする方向よりも、上演の完成度を高める方向にあったように感じられた。一番正直な感想は、よくここまで大人数の子どもたちをまとめたというものだった。その努力はしかし、「からだのキモチ」とは別の方向への努力ではないかとも思ってしまうのだ。
「からだのキモチ」が現われるのはむしろ振付を逸脱する瞬間だった。例えば、ジェスチャーの動きがどんどん速くなってしまうとき。あせっているのとも緊張しているのとも異なる子どものからだらしいテンポ感が出てしまっている。間をとったほうがきれいだろう。けれども、そうするとからだの「キモチ」が消えてしまう。確かに子どもは異常なほど機敏なときがある。決まった台詞を読み上げるときなど、よくそれが現われる。脇にそれるが、NIbrollの速さを、そうした幼児的身体の「キモチ」と連関づけて理解することは可能かもしれない。
仮想の虫をキャッチしては誰かに投げるという場面でも、相手が投げきる前にキャッチしてしまう速い(早い)子どもが何人かいた。こうしたゲームは舞台の上ではなく、純粋に遊びとしてやると集中してでき、より実感をともなったものになるのだろう。そう思うと、観客の前で作品を完成した状態で披露する劇場空間という仕組みが「からだのキモチ」の現われを邪魔している気がしてくる。
ここまで書いてきてはたと気づいたのだけれど、ぼくが夢想しているのはNPO法人芸術家と子どもたちが掲げる「CHILDREN MEET ARTISTS」とは逆で「ARTISTS MEET CHILDREN」が起こる場なのかもしれない。整った大人の身体たちが構成する一般的な舞台公演の一様さとは異なり、子どもたちのからだはじつに多様で、スペックの違いが感じられ、面白いのだ。子どものからだという素材の面白さに気づいて、自分の作品作りが変容してしまうような作家が出てきたら、などと想像してしまう。ただ、子どものポテンシャルが引き出されても、子どもたち自身は日々生きている自分のからだを動かすだけで別段目新しくなく、楽しめないかもしれないけれど。

2013/03/24(日)(木村覚)

ダンス企画おやつテーブル『お葬式』

会期:2013/03/23~2013/03/24

RAFT[東京都]

岡だ智代、おださちこ、木村美那子、まえだまなみの4名によるおやつテーブルは、2007年から継続的に公演を催しているダンスグループ。世代の違う、ダンス出自もさまざまな女性たちが、「おやつ」というキーワードに象徴されるような、デリケートで味わいのあるダンスを踊る。「ダンス」というと手脚を大きく伸ばしてアグレッシヴに運動するあれやこれやをイメージするかもしれないけれど、おやつテーブルはそういう「ダンス」とは相当異なる。あえていえば(とくに初期の)ピナ・バウシュに近い。日常のしぐさを取り出して、反復し、見る者に何かを知覚させる。それは甘く切なく儚い生というものの感触。とくにこの企画は、これまで会場が劇場やスタジオではなく、多くの場合、ダンスとは直接関係ない日常的な場所を用いるのに特徴があった。日常的な場で日常的なしぐさを、日常の衣服に身を纏ったパフォーマーが行なう。すると、その仕草に導かれて見る者のさまざまな記憶が刺激され、目の前の動作のみならず、個人的な記憶まで引き出されて、多層的で豊かな場が生まれるのだ。小さい動きだからこそ滲み出てくる感情があるのだ。今回でいえば、岡だ智代が横向きにだらりと座り、小さく、首を傾けたり、腕を揺らして見せたときの、なんとも言えない、微妙な色気のごときものはどうだろう。特筆すべき妙技とか美しいフォルムとかではないのに、見る者を釘付けにしてしまうのだった。岡だの肉体が堆積してきた経験とでもいうべきなにかを目撃してしまった気がする。今作は、タイトルが「お葬式」。黒服で現われるかと思いきや、4人は白っぽいふわっとした衣裳。彼女たちは送られる側のようだ。『葬送行進曲』を超スローに奏でるピアノが最初から最後まで随伴する。ウエディングドレスのなかに潜って、首を出さずにドレスを踊らせたおださちこなど、印象的な瞬間はいくつもあったけれど、彼女たちのデリカシーを最大限に引き出すためには、やはりスタジオではなく日常の空間(もちろん葬儀場が最良だろう)で見たかった。

2013/03/24(日)(木村覚)

大駱駝艦・壺中天公演・村松卓矢『忘れろ、思い出せ』

会期:2013/03/15~2013/03/24

大駱駝艦スタジオ 壺中天[東京都]

大駱駝艦壺中天公演の新作は村松卓矢の振付・主演。偏愛的にぼくは村松のダンス・舞台に魅了され続けているのだけれど、その理由のひとつはシンプルなワン・アイディアの徹底にある、そうあらためて感じた。今回、村松が用意したのはロープ。白いロープが上から吊されたところに現われた3人のダンサーたち。何をするのかと思えば、首に巻きつけ、体を傾けた。「おおっ、大丈夫なのか!」と不安になるくらい、顔がきつそう。中国の雑伎団が柔軟な若い女性に軽やかな舞をロープに絡まりながら見せるなんてのとは対極の、三途の川がおぼろげに見えそうになっていそうな、死と生を強く感じさせるパフォーマンス。村松は「縛り」をダンサーにかけて、物理的に動きづらくさせることをかつてもよくしてきたが、これは究極ともいえる(そして比喩ではない本当の)縛りだ。村松が現われると今度は、村松1人に3本のロープが絡まる。さっきまで苦しんでいた3人がロープを引っ張ると村松の腕や脚がマリオネット人形のごとく吊り上げられる。情けないような恥ずかしいようなポーズにさせられる村松に苦笑を禁じえない。こうして、「ロープに縛られるダンサー」のヴァリエーションが舞台上で次々と展開していくのだ。ダンサーはこの縛りに表現の自由を奪われるわけだが、表現の意味を受け取る必要がない分、観客は目の前の身体が被っている出来事に集中できる。それはじつにエロティックな体験だ。的確なアイディアをくぐり抜けた身体が滲ませるエロティシズム。それは壺中天公演の大きな、そして希有な魅力だろう。後半に至り、ロープはマス目状に舞台を覆うと、村松はそこここのマス目から首を出したり軽く絡まったりするが、前半までの強い絡まりがないぶん、しまらない。「苦しませてくれないロープがいじわる」だなんて思ってしまう。所在なげな村松が可笑しい。ロープと身体の関係の持つ幅が見えてくるのも面白い。こうした豊かさも、ワン・アイディアに徹するがゆえに引き出されたことだ。

2013/03/19(火)(木村覚)

プレビュー:劇団☆死期『ワンナイトレビュー』、大駱駝艦・壺中天公演・村松卓矢『忘れろ、思い出せ』

[東京都]

個人的に今月一番注目しているのは、3月23日に予定されている、森美術館で開催されている会田誠展「天才でごめんなさい」での関連イベント、劇団☆死期の演目2(劇団☆死期 ワンナイトレビュー)。演目1は会田のパートナーでもある美術作家の岡田裕子を中心とした人形劇が上演されるとのことで、こちらも気になるのだが、演目2に出演する高田冬彦と林千歩のパフォーマンスがどうなるのか期待大なのだ。artscapeレビューですでに紹介済みでもある2人★1。どちらも東京藝術大学の大学院修士課程をこの春修了するというとても若い作家なのだが、彼らが得意とするヴィデオ作品の面白さは格別。高田の最新作は卒展で見た。ひとつの身体上で愛をめぐる複数の接触が天使の指示とともに展開される作品は、エロく、不気味で、悪趣味にも映るが、濃密な愛の物語になっていた。林千歩の作品では本人の容姿とは対照的に、しわくちゃのおじいさんのようないでたちで林が登場すると、グロテスクな張りぼての怪物のとともにパフォーマンスする、不可思議で鮮烈なイメージが現われたりする。会田誠との類似性を見出そうとするよりも、ポスト会田世代の作家の躍動それ自体に目を凝らしてほしい。ダンスでは、当レビューではおなじみの壺中天の新作をレコメンドします。今回の振付は村松卓矢が担当。それだけで必見というべきなのだけれど、『忘れろ、思い出せ』のタイトルがまた秀逸(2013年3月15日~24日、大駱駝艦スタジオ 壺中天)。

★1──それぞれ下記を参照。
林千歩『You Are Beautiful──Love Primavera!』
高田冬彦『Many Classic Moments』

2013/03/01(金)(木村覚)