artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
岡崎藝術座『隣人ジミーの不在』
会期:2013/02/17~2013/02/18
横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール[神奈川県]
神里雄大は「ひねくれた人」を舞台に登場させる。その人のねじくれた状態が現在あるいは未来の日本社会の暗部を指し示す。絶望が舞台を駆動させる。希望のなさが語りの真実を保証する。そして、ひねくれた人のダメさが社会への批評になっているとき、舞台に説得力が生まれる。けれども、そのダメさがたんにダメな人を取り上げただけではないかと映る場合「それ、個人の問題かも」とも思わされることもある。筆者にとってどちらかといえば本作は後者だった。主人公は新妻が他人の子を宿したのではないかと疑るダメな夫。前半では新妻にかみつく主人公が描かれ、後半ではその主人公が妻と別れた数年後に社会の落伍者となっているさまが描かれる。神里の見立てでは未来の日本の社会は、多数の多様な外国人が国内に流入しており、そのなかでコミュニケーション手段を日本語しかもっていない者は、就職がままならず、ゆえに一層ひねくれて拝外主義者となり孤立してしまう。彼を孤立させているのはおそらく日本社会ではない、グローバルな世界の運動によるものだろう。いや、そうやって外に原因を求めず、単純に彼自身の問題ととらえるべきかもしれない。自分の孤立を社会のせいにする彼の振る舞いこそ彼の非社会性を示すものであり、だから彼の孤立は彼の自業自得と思わずにはいられない。主人公のひねくれは、ゆえに、彼の妄想癖を示しはするものの、そこから異質な存在が社会において喚起する批評的な何かを読みとるには弱い。今作での神里の狙いはしかし、そうした意味でのひねくれた人で溢れる日本社会の暗い未来を予言することにあったのかもしれない。その描写には崩壊に向かう快楽がないわけではない。けれども、そこで暗い悦楽に浸るよりは、Qの市原の眼差しがそうであるように(と筆者は勝手に想像するのだが)、父親に望まれなかった彼の子どもがどん欲にサヴァイヴする未来を期待しつつ夢見たいと思ってしまう。
2013/02/18(月)(木村覚)
村川拓也『ツァイトゲーバー』
会期:2013/02/15~2013/02/16
KAAT 神奈川芸術劇場(TPAM in Yokohama 2013)[神奈川県]
2011年のフェスティバル/トーキョーでも話題になった作品。しかし、筆者は今上演ではじめて本作を見たので、ここに雑感を記しておきたい。
最初に村川拓也は簡単に作品を説明したあとで、出演者を客席から募る。介護をテーマにした本作では、実際に日々介護の仕事をしている労働者(工藤修三)が舞台でその1日を実演する。観客の1人がその際の「被介護者」となる。役柄は、目だけで介護者とコンタクトをとる「被介護者」で、ほぼ完全に体を介護者に預けることになる。1人の若い女性が手を挙げ、60分程度に簡略化された1日(昼食を挟んだ夕食前までの時間)の再現がはじまった。介護者・工藤はめがねを掛けた優しそうな若者。だが白いTシャツ越しにはその印象に見合わない隆起した筋肉が見える。そのさまは介護が筋肉労働であることを強調していた。その代わり、介護の感情労働の側面は抑制されていた。介護者と被介護者のコミュニケーションは「あ・か・さ・た・な……」と介護者が声を発し、例えば「あ(行)」で被介護者が瞬きすると今度は「あ・い・う・え・お」と読むなかで瞬きがあったところで一文字(「い」でまばたきがあれば「い」)が特定される、というきわめて根気のいる作業で進められる。そうして届けられる被介護者からのメッセージを基に、介護者は料理をつくり、外出するかどうかなどの決定に応じる。
ストレスのかかる肉体労働のドキュメンタリーは、たいてい健常な肉体ばかりが幅を利かせている劇場空間が普段は見過ごしている被介護者の肉体に光を当てている点で価値ある試みだと思う。抑制された介護者と被介護者のやりとりは、物語的展開を生まない分、「こんなに穏当なことばかりのはずはない。じつはあんなこと、こんなこともあるのでは」と見る側がさまざまな想像をめぐらせる余地を生んでいた。「被介護者」には舞台上で自分の欲求を口にするという指示が課せられていて、若い女性は3回「のどが渇いた」と口にした。しかし、そういう演出だったのだろう、介護者・工藤は淡々とその発言を無視した。そのことが被介護者の孤独を浮き彫りにした。この「被介護者」役を観客が遂行したことには意味があったろう。その仕掛けは観客全員がこの立場を追体験する可能性を与えていたのだから。ただし、やはり本物の被介護者が舞台上にいたら、舞台の質は相当変わっていただろうとも思わずにはいられない。被介護者が客席にいたらどうだったろう、とも思う。リアリティにというよりも想像力に訴えようとの意図は理解できるし、そのことの意味を否定するつもりはない。ただ、演劇の盲点を突くこうしたドキュメンタリーの手法が、演劇変革に寄与するためにあるのか社会変革に寄与するためにあるのかは真摯に考えるべき事柄であるに違いない。もちろん、作家の試みは両方に寄与すべきだ。村川にとってそのための一歩が本作なのだと信じる。
2013/02/15(金)(木村覚)
Q『いのちのちQ』
会期:2013/02/08~2013/02/11
さくらWORKS<関内>[神奈川県]
Qという劇団名はかつての作品タイトルでも用いた「虫」という文字の字面に似ていることに由来する、とどこかで読んだ。意味に従う仕方とは異なるこうした奇妙なかたちへのセンスが主宰の市原佐都子のうちにあるようで、本作のタイトルもやはり意味不明でしかもどことなく不気味だ。この不気味さは、意味を超えて何かと何か(ここでは「いのち」と「Q」)が無闇に接合されてしまう生理的感触から来るものだろう。ああ、でも、それこそ、生命(より端的にいえば生殖)というものの実質なのではないか。昨年末『虫』を見て以来というQ観劇歴の浅い筆者なのだが、Qの劇の核になっているのは、虫のそれのように不気味な生殖=生命というものの実質なのではないかと、観劇後に強く思わされた。
本作はペットブリーダーの一室が舞台。家では4匹の小型犬が飼われている。3匹の血統種は室内で、1匹の雑種はベランダで暮らす。ペットブリーダー(人間)に支配されている犬たちの生命のいびつさ。それが近親相姦的交配のエピソードなどとともに描かれると、先述した不気味さに見る者は取り囲まれてしまう。テレビ番組『どうぶつ奇想天外!』を見る美貌の犬はジョセフィーヌという名で、八景島シーパラダイスのセイウチとの交尾をかすかに夢見る。だが、ナイスという名のふとっちょなフィアンセとの交尾以外、彼女に選択肢はない。純血種の暮らす室内の逃れられない密閉感は水槽の生命に似ている。見ていて息苦しくなってくる。この苦しさは、人間の生の今日的なありようと重なるようでもあり、そう連想するとさらに一層息苦しくなる。ただし雑種の生はまた別だ。雑種の犬の名は「のりのみや」。天皇家出身であるものの一般男性のもとに嫁いだ女性の名に相応しく、彼女の生は純血のサイクルからはみ出ている。寿司を置いていく代わりに性交を求める人間の存在など、雑種の犬の生は暴力的だが自由でたくましい。こうした純血種と雑種の対比にQの作劇の確かさを感じる。ところで、この対比といい、生理的嫌悪を誘発する不気味さといい、岡崎藝術座と近いと思わされてしまうのは気のせいか。ともあれ、雑種交配への夢と現実は、どんな妄想へと飛躍していくのだろう。そう思い、今後の市原がつくる作品に期待してしまう。
2013/02/11(月)(木村覚)
手塚夏子『私的解剖実験-6──虚像からの旅立ち』
会期:2013/02/03~2013/02/04
Art Theater dB 神戸[兵庫県]
演奏担当のカンノケントが見えない位置から、マイク越しに、横一列に並んだ出演者5人に質問を投げかける。女2人と男3人。冒頭、左から手塚夏子、若林里枝、萩原雄太、大澤寅雄、捩子ぴじんと並んだ。ダンサーもいるが、演劇の演出家や研究者も混じる。「新たなことをチャレンジするとしたら何をしますか?」をはじめに質問が続く。「あなたにとって気持ちのいいことは? さらに、一般に気持ちの悪いことは?」「現在の職業は? 一般に成功とは何ですか?」など。構成はきわめてシンプル。身の回りにある箱やビニールテープを素材につくられた社の如きオブジェが舞台からゆっくり降ろされる儀式的な場面がはじめにあったものの、その後は質問と応答のやりとりが淡々と続く。これがダンス公演? 派手な身振りも、スタイリッシュな振付もない。代わりに目に映るのは、もじもじとしたり、イライラしたり、そわそわしたりしている、不意に痙攣的にゆれる5人の体。「緊張している」とか「トイレに行きたい」とかの演技に見えなくもないが、それにしては動作が切実すぎる。演じているというよりも、どうしてもそう動いてしまうといった「切迫した何か」を感じさせるゆれ。しかもよく見ていると、そのゆれは質問の「一般に~」の部分に答えようとする際、若干だが激しくなっているようだ。
後半、若林がだじゃれのようでもあり卑猥にも響く言葉を連ねながら、凧の糸が切れたようにふわふわと前に進み踊り始め、舞台から客の集まる床へと降りた。それがひとつのトリガーとなって、他の者たちも降りて、「あり、あり」というかけ声だったか、声を上げ踊り出した。正直にいって、見栄えのあるダンスとはいい難いこの踊りは、まるで原始に集団の踊りが誕生したときのように、ゆるやかに起こり、まとまりなく進んだ。観客もこの輪に誘われた。この踊りの吸引力に心身ともに巻き込まれなかったぼくは傍観したが、まるでバリの祭りに潜入しているときのような気分にはなり、いつか会場の扉を潜って出演者たちが出て行ってしまうと、それを追った。小さなロビーでしばらく踊りともはしゃぎともつかない無軌道な集団の状態が続いたあと、この公演らしくない公演らしきものは終了した。
直後、まだ興奮の状態が残ったまま、手塚はトークゲストの砂連尾理としばらくアフタートークを行なった。そこでの手塚の発言を筆者が理解した範囲で整理すれば、この作品の核となっているのは、一般性に基づいて人にルールを課してくる力とそうした力に対して抗おうとする個の力との葛藤である。子どもが電車ではしゃぐとき、それを制止してしまう自分(母親としての手塚)は、社会の規範を望んでもいないのに、その瞬間、規範を体現する者と化してしまう。そんな体験談を例に挙げながら、子どもあるいは内発的な身体あるいは個としての存在が、社会的な規範に抗い、抗いきれずに、その葛藤から撤退して、「あり、あり」と自己の存在を肯定する文句を呟きながら、ゆるやかに祭りの状態を形成しつつ旅立ってゆく、そんな作品だと手塚は説明していた。後半の「あり、あり」の声とともに踊りっぽい動きを見せるところは、違和感との葛藤から撤退した後で、ゆえに解放感はあるものの、動きの動機が曖昧になるぶん説得力に乏しく、実際、前述したように、ぼくは踊りの輪への誘いにのることはなかった。ただし、質問に答えようとしてよじれる前半の身体には、不思議な力があった。規範を内面化してあたかも自発的な動きであるかのように見せるのが通常の訓育的なダンスの理想だとすれば、ここではむしろ規範に合わせることの違和感から不意に出てしまう不随意的動き(これを身体の内発的な動きと言ってもよいだろう)が舞台に上げられている。ぼくはここにもうひとつのダンスがあると思った。これは手塚が見つけた、新しい、もうひとつのダンスだ。かすかで、じれったくも感じるが、真に「私」が「公(一般性)」と闘っているさまの映っているダンスだ。
自身の公演を「私的解剖実験」と称した当初から一貫して、内発的な「自走」する身体に注目してきた手塚が10年を超える模索を経て到達したひとつの境地。公演らしくない体裁も、「公演らしさ」という規範から本人が受け取った違和感を押し隠さぬままにした結果の姿なのだろう。「体の声を聴く」などとよくいうが、たいていの場合、ダンスはその声を聴かない方向で成り立っている。聴き始めた途端に、あらゆるところから違和が発生し始めるからだ。聴かないことで動作は秩序立ちきれいに見える。しかし、そのきれいさはなにのため? 手塚の試みは、観客にそう問いかけているようだ。規範(あるいは社会秩序)よりも大事なものがあるのではないか、少なくとも、規範との葛藤を克服したはてではなく葛藤の最中にこそダンスはあるのではないか、今作の試みはぼくたちにそう呼びかけている気がする。
2013/02/04(月)(木村覚)
プレビュー:岡田利規×ピッグアイロン・シアターカンパニー『ゼロコストハウス』
会期:2013/02/11~2013/02/13
KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]
岡田利規が国際的に活躍するアメリカのパフォーマンス集団ピッグアイロン・シアターカンパニーと組んで上演するのが『ゼロコストハウス』。タイトルから推測できるように、この作品は坂口恭平の『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』(太田出版、2010)をマテリアルにして、またヘンリー・デイヴィッド・ソロー『森の生活』も参照しながら、岡田自身の自伝的な内容を盛り込みつつ、東日本大震災以後の生活が語られていくのだという。2年近く前から(すなわち「3.11」以降)、演劇の分野でもダンスの分野でも「震災以後」を主題にした作品は多くつくられてきた。それらの多くはこの歴史的な出来事と十分に張り合っているようには見えず、たんに「流行現象に飛びついている」のかと思わざるをえないような作品も少なくなかった。先述の坂口と熊本で実際に交流を行なってきた岡田は、彼の直接の経験から一体なにを語るのか、その経験から彼がえた「変化」とは具体的にはどんな事態なのか、そしてなによりそうした自身の体験や考察の成果から演劇というフォーマットはどう揺るがされるのか、大いに期待したいところだ。
2013/02/01(金)(木村覚)