2021年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

室伏鴻『Krypt──始めもなく終わりもなく』

会期:2012/10/20

鎌倉生涯学習センターホール[神奈川県]

舞踏家・室伏鴻の希有な所作に〈言葉を漏らす〉というものがある。踊りの最中、不意に喋る。踊りがたいていの場合踊り手の陶酔とともに生じるとすれば、その酔いを自ら醒ますかのように言葉が踊り手の肉体から漏れる。本作では、60分ほどの上演が40分を超えたあたりだったか、94才の認知症だった母が昨晩亡くなったと言葉が漏れ出した。火葬した骨の話に及ぶと、全身を銀色に染めた男の肉体にも同じ骨が、いつか白い灰と化す骨が存在していることへ、思いは吸い寄せられた。非人間的というよりも非有機的に見える銀の肉体は実際のところ生ある存在であり、そしていつか死する存在である。そして、そう思ったときはたと気づいたのは、室伏は死の側から生へ向けて踊ってきた踊り手だった、ということだった。大抵、踊り手は陶酔し忘我へ至ることで死へと接近するものである。とすれば、それとは反対に、室伏はずっと死者として舞台に立っていたのではないか。おかしな、矛盾した表現だが、室伏は生の衣を纏った死者である。そう考えると道理が行く。そうであるならば、core of bellsの瀬木俊を中心とした若い音楽家たちの演奏が室伏の踊りにフィットしていると感じさせたのは、彼らの振る舞いが、盆に親と帰省した孫が亡き祖父とおかしな交信をしているようなものだったからかもしれない。「おかしな」と書いたが、若い音楽家たちは室伏の踊りを認めながら、踊りに従属することなく、ギャップを抱えながらうまく遊んでいたということだ。死者があらかじめ「出(ex-)てしまった存在」であるとして、その死者・室伏の存在が硬直化するのを回避し、死者が死者のまま活性化しうるとすれば、そうした「おかしな交信」を実行してしまう他者の存在が必要なのかもしれない。

2012/10/20(土)(木村覚)

山下残『ヘッドホンと耳の間の距離』

会期:2012/10/10~2012/10/14

STスポット[神奈川県]

『北斗の拳』や『ジョジョの奇妙な冒険』を彷彿とさせるおかしな表情やポーズを取りながら、若い男二人が声を漏らしたり床を踏みしめて音を立てたりするのを、マイクロフォンが拾って、アンプから増幅した音を出す。50分の舞台で起きるのは基本的にこれで、仕組みとしてはさほど目新しくないとも言えるのだが、視覚も聴覚も刺激するしっかり充実した上演であった。どんな動きでも体は勝手に音を出しているもの。ダンスだからと言って視覚的な動きにだけ注目するのではなく動く際の勝手に出た音にも注目し、それを採集して、アクションペインティングならぬアクションプレイング(演奏)にしたのが面白い。それは確かにそう、しかし、ただ採集したのではなく、大事なのは、瞬時にディレイやリバーブで加工することで、音は動作から離れ一人歩きを始め、そのうえでなおも音の源である体の近くに居座っていることで、その効果が面白さを倍加させていた。四つん這いになって倒れ込むと両膝と両腕で床を叩くことになるが、その音が過剰にヴォリュームを上げられ、リバーブもかけられなどされると、まるで漫画の効果線みたいな効果を与える。四つん這いの姿を置いていけぼりにして、音が勝手に過激化する。視覚像と音像のギャップがおかしくて、身体の見え方が変わってしまう。そんな仕掛けがじつに巧みだ。それよりなにより、このポーズ(動き)を取らせるか!と山下残のセンスがずるい。それは山下が既存のダンスにとらわれずにダンスをつくっているからこそのものだろう。そう、ダンス作品を面白くするのもつまらなくするのも、作り手が「ダンス」なるものにどう囚われているのかを自覚し、その囚われからどう自分を解放しようとするのかにかかっている。

2012/10/14(日)(木村覚)

プレビュー:アンドロイド版『三人姉妹』

会期:2012.10.20~2012.11.04

吉祥寺シアター[東京都]

先のレビューで触れた砂連尾理らの公演、あるいはパラリンピック、あるいはEテレの番組『バリバラ』などを見ていると、五体満足なエリート的身体以外の身体を見る面白さに気づかされる。優劣ではなく個性を見るというとありふれた言い回しだが、各身体の性能に注目し、驚いたり、思いがけない魅力に気づかされたりすることは、純粋に楽しい。さて、これが人間ではなく機械の身体であったら、どうだろう。平田オリザがロボット研究者の石黒浩と続けてきたロボット演劇あるいはアンドロイド演劇は、演劇のなかで身体がどう扱われてきたか、そして今後どう扱いうるのかをめぐる大胆なプロジェクトだ。舞台に立つのが役者(人間)ではなくロボットでもいいんだという衝撃は、ロボットの社会的活用といったテーマ以上に、人間とはなにかそして演劇とはなにかを照らし出す。今回のアンドロイド版『三人姉妹』(10月20日~11月4日@吉祥寺シアター)でも、そうした目の醒めるような衝撃を期待したい。

2012/09/28(金)(木村覚)

「Chim↑Pom」展

会期:2012/09/22~2012/10/14

パルコミュージアム[東京都]

「ゴミ」をテーマにすることで、渋谷のデパートに置かれた美術館での展示という条件を生かそうとしたChim↑Pom。(恐らく)パルコの商品が陳列された空間をマクドナルド(?)のイメージカラー(黄色とケチャップ色)でめちゃくちゃに塗りたくった最初のブースや、着替え室を潜るとパルコ(PARCO)の看板から奪取した「C」と「P」がクイーンの代表曲に合わせてカラフルに点滅する次のブースは、いたずら心が炸裂していてわくわくさせられた。最後のブースは「ゴミ」をテーマとする作品が並ぶ。インドネシアや東アジアや日本のゴミ事情をリポートするような作品群は、現状確認に留まっていて、なんだかおとなしい。黄色いネズミの剥製が生誕した地、渋谷での展示なのだから、ネズミたちに登場してもらいたかったのは正直なところだ。いや、というよりも、あのネズミたちのように、渋谷の表層が引き剥がされて隠れていた生命力がむき出しになるといった痛快な事態を期待してしまった。服をゴミにしたあとで、さらにそのゴミにタグを付けて販売するといったダイナミックな反転が見たかったのかもしれない。

2012/09/24(月)(木村覚)

砂連尾理/劇団ティクバ+循環プロジェクト『劇団ティクバ+循環プロジェクト』

会期:2012/09/22~2012/09/23

元・立誠小学校講堂[京都府]

障がいのあるアーティストとそうでないアーティストとが共同制作するドイツの劇団ティクバと日本で同様の活動を志向している循環プロジェクトとが共同で制作した本作。特徴的だったのは、基本的な方法をポスト・モダンダンスから借用し応用しているように見えたこと。たとえば、一時間強の公演のなかで12のパートに分かれた(配布された「砂連尾理 演出のノート」に基づく)最初のパートは「歩く」タスクだった。会場は老朽化した小学校の講堂。観客は中央の床面を四方から取り囲む。6人の男女が横に並び、1人ずつ椅子から立つと前へ歩き、舞台の端まで来ると後ろ歩きで戻る。ただ「歩く」だけ。この振付とは言い難いシンプルな指示は、各人の身体の個性を引き出すのにとても効果的だ。からだが引きつることも、滑らかに歩みが進むことも、車いすを回す腕の力強さも、微細なものだが本作の重要な展示要素となっていた。途中でビー玉がころころと床を斜めに横切った。6人の身体性がビー玉の身体性と等価に置かれ、それによってより一層、各人の身体の物理的な性格(性能)へ見る者の注目が集まる。次のパート「自己紹介──対話の始まり」では、「私は砂連尾理です」と砂連尾が言葉を発すると同じ言葉を隣のメンバーが次々発してゆく。発声も各身体の性能がよく表われるものだ。ダウン症の身体から、その性能を証す個性とともに言葉が出る。性能の露出は、普段ならば差別や批判のもとになるもの。それをこんなにはっきりと展示してよいのかと見ていて少し戸惑う。観客は戸惑いながら、通常の鑑賞で用いる評価の基準を捨て別の尺度を模索する。理想ではなく現実に価値を見出すよううながされる。観客はそうして自由になる。とはいえ、彼らはみな舞台表現者である。公演の成立を揺るがすような、不慣れな身体はそこにはない。みなためらいなく自己を展示している。各人の身体の個性を肯定しながら、本作は作品としての強さを保持し進んでいった。健常者の女性ダンサーが車いすのタイヤを足でそおっとなでるシーンなどほのかにエロティックな場面や、あるいは攻撃的に衝突する場面など、健常者と障がい者の対話(コンタクト)の幅を拡張する試みが豊富に盛り込まれていた。

KYOTO EXPERIMENT 2012 - Osamu Jareo / Thikwa + Junkan Project

2012/09/22(土)(木村覚)

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