artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
一人快芸術
会期:2009/12/19~2010/02/21
広島市現代美術館[広島県]
一人快芸術とは、「たった一人で充足し、そのうえ人に伝播する」芸術のこと。従来まで「アウトサイダーアート」として括られてきた知的障がい者による芸術的な表現や、美術の専門教育を受けていないアマチュアによる表現行為を総括する上位概念として打ち出された造語である。じっさい本展に出品しているのは、障がい者施設で働く人たちをはじめ、地域の共同体や都市の路上を舞台に何かを生産している人たちが大半で、吉村芳生や梅佳代といった著名なアーティストはむしろ少数派だ。ネーミングとしてはやや長い上に言いにくいという難点はともかく、展示の内容はどれもおもしろく、たいへんに見応えがあった。それぞれ没頭している対象や手法は異なるにせよ、共通しているのは、展示されているモノがいずれも行為や運動の一側面にすぎないということ。戦後の復興のなかで次々と変化していく広島の街並みをとらえた大量の写真や、駅の改修工事にあわせて作られては消えていく案内表示。疾走する電車を丸ごととらえた写真は文字どおり高速の運動を一瞬にとどめているし、祭りのたびに既製品を合成してつくられる奉納品は祭りが終われば元の日常生活に戻っていく。目の前の「作品」は行為の現われにほかならず、逆にいえば、それらの背後に流れている時間を想像的にとらえてはじめて、「作品」を鑑賞することになるというわけだ。けれども、だからといって、一人快芸術は「アウトサイダーアート」に代わる、新たなモードとして提示されているわけではない。むしろ、退屈なアートや古臭い美術、あるいはお堅い芸術などを、「ものをつくる」ないしは「からだを動かす」という原点に改めて引き戻すための入り口として提案されているのではないだろうか。頭を下げてその入り口をくぐり抜けてみれば、この世の中には、思いもつかないようなことに熱中しながら全身を動かし続けている人たちがたくさん生きていることに、新鮮な驚きとともに大きな感動を覚えることができるはずだ。本展のおかげで、そうした奇跡的な出会いをもたらす場として、美術館という場所はまだまだ十分に使えるということが判明した。ちょうど行為や運動が絶えず変化し続けているように、美術館の役割もまた、次々と転位していくのだろう。
2010/01/30(土)(福住廉)
現代絵画の展望 12人の地平線
会期:2009/12/08~2010/03/22
旧新橋停車場鉄道歴史展示室[東京都]
工事のため休館中の東京ステーションギャラリーによる企画展。中村宏や中村一美、イケムラレイコ、小林正人など12人の絵画作家による過去作品が展示された。実在する都市風景を廃墟に変貌させてしまう元田久治の版画作品は、東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにしていたが、かつての新橋駅を再現した空間で発表されることによって、鉄道の駅舎の過去と近未来を同時に予見させていた。グリッドで分割した写真の明暗を頼りにそのまま鉛筆で転写する吉村芳生は、雨に濡れた路上を描いた作品を発表。微視的には鉛筆の筆致にしか見えないが、巨視的に見れば紙焼きの写真のようなレトロな風情を湛えている(現在は展示を入れ替え、同じ作家たちによる近作を展示)。
2010/01/29(金)(福住廉)
オサム・ジェームス・中川 写真展 BANTA─沁みついた記憶─
会期:2010/01/20~2010/02/02
銀座ニコンサロン[東京都]
沖縄の海に切り立った断崖、BANTAを写した写真展。岩壁の表面のごつごつしたテクスチュアーと縦長の構図によるハイパーリアルな光景が特徴だ。海を見下ろす視点と崖を見上げる視点が共存した写真は、引き込まれると同時に突き上げられるような、奇妙な知覚体験をもたらしている。これは、先ごろ国立新美術館の「DOMANI明日展2009」に参加した安田佐智種による放射状に乱立した超高層ビルの写真と通じる、じつに今日的な歪んだリアリティーの現われなのかもしれない(5月に大阪に巡回する予定)。
2010/01/28(木)(福住廉)
杉田和美 写真展
会期:2010/01/18~2010/01/30
コバヤシ画廊[東京都]
展覧会のオープニング風景を撮影する杉田和美による毎年好例の写真展。展覧会のはじまりにふさわしい熱気のさなか、ベテランのアーティストや著名なキュレイターの無防備な一面を垣間見ることができるのが楽しい。今年の発見は、岡崎乾二郎と浅田彰がともに奇妙な柄物のトートバックを肩から下げていたこと。あのあたりでは、ああいうのが流行っているんだろうか?
2010/01/28(木)(福住廉)
5th Dimension
会期:2010/01/21~2010/01/31
フランス大使館旧事務所棟4F[東京都]
「noman’s land」展とほぼ同時期に同じ会場内で催されたグループ展。吉祥寺のArt Center Ongoingのディレクター小川希のキュレイションによって、有賀慎吾、小川格、小林史子、柴田祐輔、早川祐太、東野哲史、山本篤、和田昌宏、SONTONの9組がそれぞれ作品を展示した。階下のぬるい雰囲気とは対照的に、いずれの作品も「イカレタ表現」ばかりで、おもしろい。しかも、フランス大使館という場の特性など端から無視した姿勢が潔い。なかでも際立って飛び抜けていたのが、東野哲史、柴田祐輔、山本篤。東野はみずからの鼻毛を水栽培で成育させようと試みる、現在進行形のプロジェクトを発表した。毎日の気温と全長を計測しながら記録した写真日記を見ると、基本的には全長1.1cmの鼻毛がそれ以上生長することはなく、むしろ黴が生えたり、水が変色したりと、周囲の環境の変化のほうが目につくが、この作品の醍醐味は「心なしか成長したかのような感じ」を追体験できる点にある。それは、実在的には錯覚以外の何物でもないにもかかわらず、感覚的にはひじょうに豊かな幻であり、それこそがアートの働きだったということを、東野の作品は静かに物語っているのである。一方、柴田祐輔と山本篤の映像作品は、2人が扮する駐輪監視員による支離滅裂な物語だが、これはタイトルに示されているように、「つながらない」ナンセンスストーリーというより、むしろ監視するという単調な仕事に隠された、ドラマティックな物語への欲望を極限化させた映像として見ることができる。山にハイキングに出掛けた柴田と山本は、その道中でなぜか巨大な落石に襲われ轢死するわ、弁当に盛られた毒で暗殺されるわ、挙句の果てにどこからともなく飛来してきた矢に背中を貫かれて悶絶しながら絶命してしまう。過剰に説明的な演技がおもしろい。だが次の瞬間、シーンは自転車をほんの数センチ動かして空間をこじ開ける、駐輪監視員の日常的な業務に切り替わり、仕事を終えたのだろうか、軽やかに歌を謳いあげながら自転車で帰宅する柴田の姿で唐突に映像は終わってしまう。一見すると、脈絡に欠けた断片的な映像にしか見えないかもしれない。けれども、駐輪監視員にかぎらず、およそ警備や監視といった、なんとも非人間的な労働の質を思い返せば、そうした労働者たちは、おそらくは柴田と山本が演じたような、じつに劇的でスペクタクルに満ち溢れた妄想を頭のなかで繰り広げながら楽しんでいるにちがいないと思わずにはいられない。ベタな撮り方でそう思わせる映像は、極端な妄想に具体的なかたちを与える、アートのもうひとつの働きにほかならない。ここに、アートがあった。
2010/01/28(木)(福住廉)