artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
富士山 展
会期:2010/04/28~2010/05/16
ニュートロン東京[東京都]
富士山をテーマとしたグループ展。三瀬夏之介や山本太郎など9人のアーティストが絵画や映像などで富士山を表現したが、全体的に記号としての富士山を単純に持ち込んだ作品が多く、まるで物足りない。富士山とはいうまでもなく「日本」を象徴する役割を背負わされた表象であり、それはつまりさまざまな思想的な立場が激突する闘技場でもある。であれば、作品を見る側としては、そのような闘争こそ作品なり展覧会に見出したいという点がひとつ。もうひとつは、そうしたことを芸術に期待する考え方がすでに時代錯誤だとしても、闘争的な側面から富士山を開放するだけの別の文脈が用意されているわけでもないということ。ただ記号としての富士山が宙ぶらりんのまま作品のなかで消費されているという状況が、はたして何を意味しているのか、最後まで理解に苦しんだ。
2010/05/12(水)(福住廉)
会田誠 展「絵バカ」
会期:2010/05/06~2010/06/05
ミヅマアートギャラリー[東京都]
会田誠の新作展。ギャラリーの壁面を覆いつくすほど巨大な平面作品3点と、映像作品などを発表した。おびただしいほどのサラリーマンの死体やOA機器が文字どおり山積みにされた精緻な絵や、中村一美のように絵具を大量に使って「1+1=2」と描いた大味な絵など、絵の風合いを変えながらも、会田誠ならではのアイロニカルな批評精神が十全に発揮されている。そうした「会田誠らしさ」は、東京藝大に伝えられてきた「ヨカチン」という伝統的な宴会芸を現在の美大女子学生に全裸で踊らせた映像作品でも変わらないから、会田誠の真骨頂を楽しめたことはまちがいない。ただ、そうして手を変え品を変えながらやればやるほど、会田誠の孤独感が浮き彫りにされていたようにも思う。「ヨカチン」を踊りきる女子学生の姿には前世紀の画学生文化にたいする郷愁に加えて、その主体が男子から女子に転移してしまったことが暗示されていたし、その女子による乾いた宴会芸にはかつて篠原有司男が感じた「暗然としたもの」はもはや見るべくもない(篠原有司男『前衛の道』美術出版社、2006年、p.22)。サラリーマンを死体の山に見立てたとしても、サラリーマンの絶頂期ともいえるバブル期ならともかく、彼らが現に生存を追い詰められつつある社会状況では、アイロニーの力も半減せざるを得ず、むしろ単純なリアリズムに見られかねない。アイロニカルな作品とは、文脈への鋭い意識を前提としているが、文脈そのものが変質すれば、当然主体の位置関係も変更せざるを得ないし、方法論も代えなければならない。今回発表された作品のうち、少なくとも平面作品については、その修正作業が追いついていないように見えたのは事実である。サラリーマンも表現主義も、仮想敵としては不適切であり、もはやおちょくるまでもないからだ。映像作品については、宴会芸を女子学生にやらせることによって新たな方法論を獲得したように見えたが、それは会田誠の作家性から離れていく傾向であるという点で、孤絶感をよりいっそう強めていた。
2010/05/08(土)(福住廉)
歌川国芳 奇と笑いの木版画
会期:2010/03/20~2010/05/09
府中市美術館[東京都]
歌川国芳の錦絵を見せる展覧会。武者絵や役者絵、美人画、風景画など、(前期と後期あわせて)200点あまりが一挙に公開された。幕府の目を盗むために猫や雀などを擬人化させながら世相を風刺したり、降臨した観音様によって庶民の生々しい本音を引き出したり、絵の技巧はもちろん、絵の届け方にも工夫が凝らされていて、じつに楽しい。アイロニーの絵描きにとってお手本になるような作品ばかりだ。
2010/05/08(土)(福住廉)
リフレクション/映像が見せる“もうひとつの世界”
会期:2010/02/06~2010/05/09
水戸芸術館現代美術ギャラリー[茨城県]
映像作品を集めた企画展。藤井光、Chim↑Pom、八幡亜樹からジェレミー・デラー、ライアン・トゥリカーティン、ローラン・モンタロンなど、9組のアーティストがそれぞれ映像作品を発表した。たとえば地下鉄の駅のホームにまで映像広告が進出しつつあるほど、映像が現代社会の隅々にまで浸透している今日、映像を芸術表現として価値づけるハードルはかつてないほど高くなっている。そんじょそこらの映像作品ではYOUTUBEのそれに勝てないし、わざわざ数百分の時間を費やして美術館で退屈な映像を見てやるほど現代人は暇でもないからだ。だとすれば、映像作品を見る基準は2つある。ひとつは映像の内容がおもしろいか、つまらないか。もうひとつは映像の見せ方、つまりインスタレーションとしておもしろいか、つまらないか。前者で抜群だったのは、マティアス・ヴェルカム&ミーシャ・ラインカウフ。ベルリンの地下鉄に手漕ぎ車で潜入したり、停車中の鉄道やバスなど公共機関の乗り物の窓ガラスを勝手に清掃する様子をとらえた映像は、じつに楽しい。乗員の大半は怪訝な顔で警戒感を強めるが、なかには好意的に対応する者もいて、制度の良し悪しがじつのところ制度を運用する人間の良し悪しと大いに関わっていることを鮮やかに示した。後者の点で際立っていたのは、宇川とさわひらき。個室トイレでサイケデリックな視覚体験に興じる鑑賞者の姿を監視カメラによって別室で流すという宇川の作品は、ともすると安易な神秘性に回収されがちな視覚体験を通俗的な空間と監視社会のメタファーによって社会性とうまく接続させた。回転するコインなどの映像を回転するスピーカーからの音響とともに見せたさわひらきは、とりわけ映像の内容と形式を有機的に組み合わせることに成功しており、出品作家のなかでも抜群の完成度を誇っていた。
2010/05/07(金)(福住廉)
佐々木耕成 展「全肯定/OK.PERFECT.YES」
会期:2010/04/23~2010/05/23
3331 Arts Chiyoda[東京都]
今年で82歳を迎える佐々木耕成の個展。かつて読売アンデパンダン展や「ジャックの会」など前衛美術運動で活躍し、その後ニューヨークへ渡ってヒッピー・ムーブメントやヴェトナム反戦運動などカウンターカルチャーの只中で「全肯定の思想」を練り上げた。数10年前にひそかに帰国して群馬県内の山中で絵画の制作を再開したというから、今回の個展は佐々木にとってじつに40年ぶりの再デビューである。展示されたのは巨大な抽象画40点あまりと記録資料、インタビュー映像。キース・へリングの影響を受けたという抽象画は、明るいかたちが有機的に入り組んだもので、細胞分裂を目の当たりにするかのような運動性を体感できる。そこには難解な美術理論による解説など端から必要としない、あっけらかんとして、一切の屈託がなく、溌剌とした精神が体現されている。それが佐々木のいう全肯定の思想の現われであることは疑いないが、しかし、そこには一方で全否定という暗い根が張っているようにも思えた。全肯定の思想は、そもそもシベリアに抑留され、命からがら逃げ延びて帰国してきたという動物的な経験を出発点としているからだ。だから佐々木が描き出す全肯定の抽象画には、戦争という人間の存在を全否定する経験から、人間のありのままをすべて肯定するという境地に到達した、長く、そして粘り強い軌跡が隠されているのである。その反転、その回復、その飛躍こそ、佐々木耕成の絵画の本質にほかならない。これは近年のサブカル的なドローイングや日本画、あるいは80年代の抽象画にも望めない、佐々木耕成ならではの絵画的達成である。
2010/04/23(金)(福住廉)