artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

高須健市 surface

会期:2010/02/02~2010/02/14

neutron-kyoto[京都府]

壁一面がヴィトンのモノグラムで埋め尽くされ、床には大量の紙くず。よく見ると、壁に貼りつけられていたモノグラムは、いろんな紙を切り抜いたもので、マンガや広告に印刷された図柄がそのまま残されている。床にばら撒かれていたのは、それらの残骸だった。素材はすべて街なかで拾い集めた古新聞や古雑誌、広告チラシなど。原材料費は一切かけられていないというところに、ラグジュアリーブランドに代表される消費経済へのアンチテーゼが容易に読み取れるが、大量の紙くずが醸し出す、ある種の貧乏臭さはどうにも否めない。地域通貨にしろ、DIY的な実践活動にしろ、既存の経済体系にたいする対抗的なモデルにとって重要なのは、貧乏臭さに開き直ることではなく、多少の無理をしてでも別の豊かなイメージを打ち出すところにあるのではないだろうか。政治的実践ならともかく、アートのそれで勝負するなら、なにをかいわんやである。

2010/02/09(火)(福住廉)

森川穣 確かなこと

会期:2010/02/05~2010/02/24

京都芸術センター ギャラリー南[京都府]

ホワイトキューブの壁面に黒い線が水平状に走っている。近づいてよく見てみると、それは壁に開けられたスリットで、中には石や紙くず、ほこりなどが入っている。まるでふだんは閉じられている天井裏を覗き込むような経験だったが、これらは会場である京都芸術センターの床下から拾い集められたものだという。通常は上や下に隠されている世界を、水平方向から見ることによって、それらが日常生活の文字どおり隣に存在していることを実感させられた。たとえば「死」のような、見えない世界は、じつはすぐ真横にあるのかもしれない。

2010/02/09(火)(福住廉)

絵画の庭 ゼロ年代日本の地平から

会期:2010/01/16~2010/04/04

国立国際美術館[大阪府]

ゼロ年代の特徴である具象的な傾向の強い絵画作品を集めた展覧会。草間彌生をはじめ、O JUN、奈良美智、会田誠といったベテランから、厚地朋子、坂本夏子、後藤靖香といった80年代生まれの新進アーティストにいたるまで、28名による200点あまりの作品が一挙に展示された。同美術館の全展示室を一人ひとりのアーティストのために規則的に整然と区切っているため、(学芸員による企画展にありがちな)異質な絵画を同居させることによるショック効果より、ゆっくりと丁寧に絵画を鑑賞させることをねらっていたようだ。じっさい、展観をじっくり見通して思い至るのは、ここにはかつてのアートにとっての中心的なイデオロギーとして機能していた「見ること」や「描くこと」をめぐる制度批判が微塵も見られない代わりに、描写することの全肯定ともいうべき無邪気な振る舞いがあるということだ。企画者がいうように、それが「欧米の美術史の文脈のみに縛られない解放感」をもたらした「かつてない地殻変動」であることはまちがいない。けれどもその一方で、それにしては展示された絵画作品が偏っていたのが気になった。スーパーフラットやマイクロポップの系譜を逸脱しない絵画が大半で、ゼロ年代の大きな特徴である新たな日本画や、明らかに著しい成果を残した細密画の動向、さらには淺井裕介の泥絵や大空に落書きを描いたChim↑Pomなどのように、最初から保存して残すことを念頭に置かない絵画、社会運動や政治運動と深く連動した絵画など、従来の絵画観ではとらえきれないような絵画は含まれていなかった。だが、近年の具象的な傾向とは、抽象/具象、洋画/日本画、タブロー/ドローイングといった制度的な分類に通底する大きな流れであり、だからこそそれは絵画のありようを根底的に変えてしまったことが明らかである以上、ゼロ年代の絵画を回顧するのであれば、そこには当然首尾一貫した傾向より、雑然とした異種混淆性が際立っているはずではないだろうか。ゼロ年代の絵画を絵画から振り返ることが難しいところにゼロ年代の絵画の特徴があるのだ。その意味でいえば、同展のなかでその困難な条件を体現していたのは、森千裕だけである。ほとんどの絵画作家が自己に固有の表現形式を追究することで個別の画風を醸し出していた反面、森千裕は全体的な雰囲気は統一されているものの、一つひとつの作品をそれぞれ別々のタッチで描き出した。水彩の絵もあれば、色をべったり塗りつけた絵もあり、落書きのようなドローイングもあれば、平面をあっさり飛び越えて粘土彫刻のような立体作品もある。同展の全体にゼロ年代の混沌を見出すことはできなかったが、森千裕の作品のなかに結果的に現われていたのは、救いである。

2010/02/09(火)(福住廉)

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『残照~フランス・芸術家の家~』

新宿バルト9[東京都]

会期:2010/02/08、2010/02/11
小橋亜希子監督によるドキュメンタリー作品。「NHK-BSドキュメンタリー・コレクション」というテレビ放送の番組を映画館で公開する企画のひとつとして上映された。舞台は、フランスのパリ近郊。アーティストのための老人ホームで暮らす、年老いたアーティストたちの心情を、カメラは丁寧に浮き彫りにしてゆく。18世紀の貴族の邸宅を改装したこの施設では、ピアニストや彫刻家、画家、アニメーター、グラフィックデザイナーたちが創作活動に勤しみながら共同生活を送っている。彼らは、いずれも年老いたアーティストという点では共通しているが、その心の奥底はじつにさまざま。過去の栄光を頼りにして死を望んだり、子どもや孫にないがしろにされて深く傷ついたり、作品が売れたことに狂喜乱舞したり、新たなパートナーとともに暮らそうとして施設を出ようと画策したり、「アーティスト」というカテゴリーには到底収まり切らない、愛や欲望、悲哀といった人間の基本的な心模様が画面から溢れ出ている。たしかに特別な技能を持っているという意味でいえば、彼らは依然として超人的な「アーティスト」なのだろう。けれども、身体機能の衰えとともに隠せなくなったその技能の綻びが、彼らの世俗的で人間的な部分をよりいっそう際立たせていたのも事実である(くたびれた爺さんたちに恋心を寄せる老婦人たちの眼には、文字どおり星が入っている!)。この映像作品が教えているのは、いまも昔も、芸術はつねに世俗的な人間の営みのなかから生まれてきたのであり、美術と日常を峻別することじたいがきわめて不自然であるということだ。だとすれば、美術と福祉、あるいは美術館と老人ホームを区別する境界線そのものが、制度的に作られたものにすぎないのであり、つまりは正当な根拠に乏しいということが明らかになる。この芸術的な老人ホームは、もしかしたら日本の美術館にとっての未来像を先取りしているのかもしれない。

2010/02/08(月)(福住廉)

泉太郎「クジラのはらわた袋に隠れろ、ネズミ」

会期:2010/01/16~2010/01/31

アサヒ・アートスクエア 4F/5f[東京都]

泉太郎の快進撃が止まらない。昨年後半の野毛山動物園、神奈川県民ホールギャラリーに続き、今回はアサヒ・アートスクエアの巨大な空間を存分に使い倒したインスタレーションや映像作品などを発表し、また会期中に滞在制作によって作品を変化させ続けた。高さ6mを誇る空間を占めるのは、大量の角材を組み合わせた「すごろく」。升目に描かれた指示に従いながらコマを進めていくゲーム性の高い作品である。昨年夏に、群馬県立近代美術館で粗っぽく蒔かれた種が、野毛山動物園で見事に発芽し、ここ浅草で一気に花開いたというわけだ。ただ、大きく成長したのは作品だけではない。泉太郎本人も、自分自身を新たなステージに押し上げようとしているように思われた。「日常/場違い」展の《さわれないやまびこのながめ》が市民の声やボランティア諸君の手を全面的に取り入れた作品だったように、今回のすごろく作品もまた、観客参加型の要素を前面化しているからだ。泉太郎といえば、孤独な一人遊びを次々と繰り広げていくのが最大の特徴だが、今回の展覧会ではむしろそれはあまり目立たない。いや、正確にいえば、泉太郎が興味の対象を一人遊びから観客参加型のアート作品へと切り換えたのではなく、観客を吸い込んでしまうほど一人遊びの磁力がますます強大になりつつあるということではないだろうか。これまでの孤独な一人遊びという段階から、共同的な一人遊びともいうべき新たな段階への進化。そのうち世界の隅々まで「すごろく」の升目を延ばしていくのではないかという妄想を抱かせるという点でいえば、泉太郎の作品は、たとえば淺井裕介や遠藤一郎の精力的かつ魅力的な活動と相通じるものがある。テン年代のアートを動かしていく大きな潮流は、すでに生まれている。

2010/01/31(日)(福住廉)