artscapeレビュー
キャリー
2014年01月15日号
会期:2013/11/08~2013/12/12
丸の内ピカデリー[東京都]
高畑勲監督の『かぐや姫の物語』で欲求不満だったのは、都から脱走したかぐや姫が着物を脱ぎながら山中を疾走する、あの胸騒ぎを覚えずにはいられないシーンが、結局のところかぐや姫の見果てぬ夢だったことだ。これまでにないアニメーションによってこれまでにないかぐや姫の物語が語られるのかと思いきや、あくまでも原作に忠実なまま物語は終わってしまった。荒々しい線が力強く躍動する画に眼が釘づけにされただけに、期待が外れたショックは大きい。
その萎えた気持ちを再び漲らせたのが、本作だ。スティーブン・キングの原作と、1976年にブライアン・デ・パルマ監督によって制作された映画を踏襲してはいる。しかし『かぐや姫の物語』と決定的に異なるのは、主人公の人間像である。
陰湿なやり方で同級生にいじめられている高校生のキャリーは、家庭でも狂信的な母親から虐待され、八方塞がりのなか幸いにも恵まれた超能力を研ぎ澄ますことで、大逆襲をはかる。物語の終盤で一気に爆発する暴力は、思わず拍手喝采を送りたくるほど痛快である。同じく悲劇的なヒロインとはいえ、ひたすら耐え忍ぶかぐや姫とは対照的に、キャリーは少なくとも反撃したのだ。
堅忍不抜の内向性と窮鼠噛猫の外向性。前者の精神性が現代の日本社会にいまだに残存する美学であることは否定できないにしても、注目したいのは双方の悲劇の背景にはいずれも親が介在しているという事実である。信仰を重んじるあまりキャリーの行動を束縛する母親が常軌を逸していることは言うまでもない。ただ、かぐや姫の上洛に狂喜乱舞する翁もまた、その真意とは裏腹に、かぐや姫の自由と人生を縛りつけている点で、キャリーの母親と同じ狂気を共有している。2人の対照的な娘は、ともに狂った親に翻弄されるという面で、表裏一体の関係にあるのだ。
双方の悲劇に通底する現代性があるとすれば、それはこの親子のあいだの支配関係に表わされていると言えるだろう。
2013/11/21(木)(福住廉)