artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

ハギエンナーレ2012

会期:2012/02/25~2012/03/18

萩荘[東京都]

谷中に建つ築50年以上のアパート「萩荘」で催されたグループ展。東京芸大の学生の住居やアトリエとして使用されていたが、この春の閉鎖と解体に先立ち、10人前後の若いアーティストたちが作品を展示した。室内にあるはずのカーテンを室外に、逆に室外に置かれている植木鉢を室内に設えたり、一部屋を丸ごと鳥小屋に改造して小鳥を放ったり、随所で工夫を凝らしていて、なかなかおもしろい。ただ全体的には控えめで、解体が決定しているという空間のメリットを十分に活かしきれていないようにも思った。このように居住空間を展示場に転用する展覧会は数多いが、無理にホワイトキューブに仕立てたとしても逆効果に終わることが多い。むしろ、東京・麻布のフランス大使館で催された「5th Dimention」展や大阪・西成の新福寿荘における「梅田哲也展」のように、解体を見越して破壊に破壊を重ねる作品のほうが、よく映える。自己の内発的な表現といえども、アーティストであれば、空間の質に応じてかたちを整える才覚も必要とされるのではないか。

2012/03/18(日)(福住廉)

麻生知子「内祝」

会期:2012/03/03~2012/03/31

Gallery Jin Projects[東京都]

「VOCA2011」展に参加した麻生知子の個展。畳やちゃぶ台、焼き魚、親父の剥げ頭などを描いた平面作品を発表した。おもしろいのは、それらの大半を真上から見下ろす視点から描き出しているところ。それらが壁面に展示されているから、水平方向に鑑賞しつつも、垂直方向に見下ろすようなトリッキーな視覚経験を味わえる。今回の新作のなかには盆踊りを描いた作品があったが、これも三面図のようにいろんな視点から描いており、視点がめまぐるしく入れ代わる運動性がおもしろい。麻生が描き出しているのは、彼女にとっての記憶の原風景のように見えるが、それをいろんな視点から再構成することで、見る者に記憶を立体化するトレーニングを求めているようだ。ここに、「平面」の今日的な効能が認められるような気がする。

2012/03/18(日)(福住廉)

山根秀信 個展「風景」

会期:2012/03/12~2012/03/17

Gallery K[東京都]

山口市在住で、昨年の第65回山口県展大賞を受賞した山根秀信の個展。宅地造成した土地に住宅が点在する寂寥感のある風景を平面に描いてきたが、今回の個展では、それに加えて、米粒を敷き詰めたジオラマ作品も発表した。壁面に展示された水彩の鮮やかな彩りと白で覆われた床面の対比が美しい。しかもこれらの米粒はすべて山根が自ら育て、収穫したもので、それらを納めていた米袋も平面作品とあわせて壁面に展示されていた。それらを見ていると、食であろうと芸術であろうと街であろうと、人間は太古の昔より自然の恵みから多くを負ってきたという厳然たる事実を改めて思い知らされる。都市社会が成熟した反面、その暗部がまざまざと浮き彫りになっているいま、この食と芸術と都市が一体となった原点に回帰することが求められているのではないか。

2012/03/16(金)(福住廉)

第15回岡本太郎現代芸術賞展

会期:2012/02/04~2012/04/08

川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]

岡本太郎現代芸術賞といえば、いまや日本の若手アーティストたちにとっての登竜門としてすっかり定着しているが、ここ数年の受賞作の傾向は全般的に定型化されている印象が否めない。それが自らの様式に呪縛されていった晩年の岡本太郎を彷彿させることはともかく、いずれにせよ審査員の全面的な入れ替えを断行しない限り、例えば「動脈硬化」に陥って久しいVOCA展やシェル美術賞と同じような末路をたどることは目に見えている。どういうわけか、選考する権力に固執する美術評論家や学芸員が多いが、おのれの存在が状況の停滞を招いているという客観的な事実が見えないようであれば、同時代の美術の動向を的確に見抜くことなどできるはずがないではないか。このようなコンクール展で頻出する、ある種の「遅さ」は、年に一度催されるという制度に端を発していると言われることが多いが、じつは、ひとえに選考する者自身の眼力に由来しているのである。
そのことを踏まえたうえで、なお本展で注目したのは、千葉和成。これまでダンテの『神曲』を現代的に解釈した作品を制作してきたそうだが、今回は東日本大震災における津波や地震、原発事故をモチーフとして盛り込んだ平面と立体を発表した。福島第一原発の地下に巣食う怪物によってメルトダウンの悪魔的な光景を描写した立体作品の迫力に比べると、平面作品は全体的に画面の構成が粗く、随所に仕掛けられたユーモアも逆効果に終わっているという難点がないわけではない。ただ、そうだとしても、画面の四方八方を貫く執拗な粘度は見る者の視線を惹きつけるには十分すぎるほどであり、これが近年の絵画に大きく欠落している特質であることには変わりがない。時事的な主題を強引に作品に取り込み、自らの世界観を更新してみせた力技も、評価できる。

2012/03/16(金)(福住廉)

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カレが捕まっちゃった

会期:2011/03/09~2012/03/09

渋谷オーディトリウム[東京都]

2月の前橋映像祭で上映された江畠香希監督のドキュメンタリー映画。昨年の9月11日に新宿で行なわれた「原発やめろデモ!!!!!」における警察の過剰警備と不当逮捕の実態を記録した。詳細を記述することはあえて控えるが、この記録映像には脱原発デモに対する警察の弾圧(としか言いようがない)が克明に映し出されている。したがって、脱原発デモに参加した人にとって、一見の価値がある映像作品であると断言できる。いや、この困難な時代を生きる者たちこそ見るべき映像と言ってもいい。
原発の全廃を願う大多数の人たちにとって、政府がそれをなかなか遂行しない以上、デモという集団的な表現形式に頼らざるをえないことは変わりがない。ただ、それが警察との折衝を不可避としており、かつての労働運動や学生運動がその応酬によって極限化してゆき、やがて疲弊しながら自滅していった歴史的経緯を考えれば、今後の脱原発運動はデモ以外の集団的な表現形式を開発するべきだと思う。脱原発運動の内実が多様であるように、その表現形式もまた多様であっていい。デモの祝祭性は不可欠だが、多大な時間を必要する原発の廃炉を達成するには一時的な祝祭性が必ずしも有効であるとは限らない。であるならば、脱原発運動を記録したこの映画は、そのオルタナティヴな選択肢のひとつになりうるはずだ。というのも、この映画には脱原発を願って行動する人間に通底する心模様が鮮やかに映し出されており、それをある種の「共通感覚」として共有することが期待できるからだ。
いまやプロジェクターと平らな壁があれば、たとえ映画館でなくとも、上映会の開催はどこでも可能である。オルタナティヴ・スペースやカフェ、大学、民家、廃屋、あるいは神社仏閣など、使える場所はまだまだある。「カレが捕まっちゃった」を上映して来場者同士で議論する場を、全国津々浦々、ありとあらゆる街角に広げていくこと。そのような闘い方を、レイヤーのようにデモの上に重ねることで、現在の脱原発運動を今後もたしかに持続させていくための「厚み」と、心の底で脱原発を願っているにもかかわらず、それを表現することに躊躇している大多数の人びとを受け入れることのできる「拡がり」が生まれるのではないだろうか。

2012/03/09(金)(福住廉)