artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
タイム
会期:2012/02/17~2012/03/15
TOHOシネマズ日劇[東京都]
生命の時間を貨幣に置き換えたSF映画。富める者がいつまでも若いまま半永久的に生存できる反面、貧しい者はわずか20数年しか生きながらえることができないという設定が、今日の新自由主義的な資本主義経済の暗部を巧みに照らし出している。若々しい美しさという特権、社会階層に応じて居住空間を切り分けるゲーティッド・シティ、生存のための労働が生命の時間を削るという究極的な逆説。今日の現代社会が抱える諸問題がこれでもかと言わんばかりに盛り込まれているため、この映画にはSFらしからぬ生々しいリアリティが醸し出されている。ただその一方で、惜しむらくは、物語がきわめて凡庸な筋書きに陥ってしまっているところ。『俺たちに明日はない』のような強盗劇はともかく、ボニー&クライドのような悲劇的な結末を巧妙に回避したうえで、安っぽい革命賛歌に終始しているのは、ハリウッド映画の限界というべきか、それともあくまでもフィクションに徹したというべきか。これでは、今日の恐るべき現実にとても太刀打ちはできまい。
2012/03/01(木)(福住廉)
絵描きと戦争
会期:2012/02/11~2012/03/02
渋谷オーディトリウム[東京都]
木村栄文監督による伝説的な映像作品。「フジタよ、眠れ」を含む同名の著作がある菊畑茂久馬が監修に加わり(『菊畑茂久馬著作集1』)、出演もした。絵描きにとって戦争とはなんだったのか。藤田嗣治と坂本繁二郎の対照的な足跡をたどりながら、この問いについて考えるドキュメンタリーだ。おもなインタビュアーはテレビドラマ《白い巨塔》(1978年)で知られる俳優の山本學で、木村栄文が聞き手を務めた部分もある。菊畑による軽妙な語り口をはじめ、山本學のオフショットをあえて挿入するなど、さりげなくユーモアを重視した編集によって、重厚長大になりがちな主題をじつにバランスよく見せている。いわゆる「戦争画」をめぐって交わされる美術関係者による証言の数々も、非常に率直に述べられており、建前の向こうに隠されがちな本音の言葉に、思わず吹き出してしまうことがあるほどだ。私たちが最も必要としているのは、「戦争画」についての学術的で専門的な研究とは別の次元で、「戦争画」について知り、話し合い、そして考えることができる、このように親しみやすく、わかりやすい映像なのだ。原子力という内なる敵との戦争が始まってしまったいま、新たな「戦争画」は描かれるのだろうか。藤田が正面から挑み、坂本が回避した戦争とは比べ物にならないほど抽象度が高まり、眼に見えることすらなくなってしまった戦争を、絵描きはどのように表現するのだろうか。そして、世界のすべてが可視化されうるほど視覚が強大であるにもかかわらず、肝心なことは闇に包まれているという大いなる逆説の時代において、木村栄文に匹敵する映像作品は現われるのだろうか。
2012/03/01(木)(福住廉)
いまは冬
会期:2012/02/11~2012/03/02
渋谷オーディトリウム[東京都]
RKB毎日放送のディレクター、木村栄文によるドキュメンタリー番組。1972年に制作された35分の短編で、「地の塩の箱」運動の主催者であり詩人の江口榛一に密着した。鍵のない募金箱を全国に設置して、豊かな者は金銭を投入し、貧しい者はそこから借り受けるという運動に身を費やす江口をとらえた映像を見ると、その理想と現実のはざまを、あくまでもたくましく生きようとする姿に圧倒される。それが、例えば人力飛行機というロマンを追究する男を記録した《飛べやオガチ》にも通じていることを思えば、木村栄文の眼を離さなかったのは、おそらくそのようにして両極のあいだで揺れ動きながらも、明るく、壮健に前に進むことを自らに課した人間の生き様だったのではないかと思えてならない。そのように振舞いながらも、どこかで哀愁や憂いを感じさせる人間を、木村は撮りたかったのだろう。
2012/02/27(月)(福住廉)
恵比寿映像祭 映像のフィジカル
会期:2012/02/10~2012/02/26
東京都写真美術館[東京都]
4回目の恵比寿映像祭。ウィリアム・ケントリッジやサラ・モリス、大木裕之など国内外14組のアーティストによる映像作品が展示された。映像技術のハイ・テクノロジーを追究する作品もあれば、あえてロー・テクノロジーを見せる作品もあり、その雑然とした展示は、映像の時代における百花繚乱を象徴しているとも言えるが、たんにアーティスティックなイメージの垂れ流しとも言える。長時間の鑑賞に堪えない作品が大半を占めていたなか、ひときわ異彩を放っていたのが、東京シネマによる科学映画。テレビを生産する工場のラインをつぶさに追跡したり、配電盤をクローズアップでとらえたり、その映像の質がいちいち魅力的でたまらない。それは、あるいはアナログ映像で育った世代に特有のノスタルジーにすぎないのかもしれないが、その一方で、現在の映像表現が直面している限界を示唆しているようにも思われた。日常生活の隅々まで侵食するほど映像が氾濫しているがゆえに、例えばかつての「ビデオアート」のように、映像というメディアが「アート」という価値を半ば自動的に担保することが難しくなった現在、私たちはいかにもアーティスティックな映像に辟易しているのではないか。むしろ「記録」という映像の最も基本的な機能に、「アート」は反転してしまったように思えてならない。
2012/02/23(木)(福住廉)
石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行き
会期:2011/12/10~2012/02/26
府中市美術館[東京都]
美術評論家の石子順造(1928-1977)の展覧会。石子の批評活動を「美術」と「マンガ」と「キッチュ」に分けたうえで、それぞれの空間に作品を展示した。静岡時代の石子が主導したとされる「グループ幻触」の作品を紹介したほか、中原佑介とともに石子が企画に携わった「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(東京画廊・村松画廊、1968年)を部分的に再現するなど、展覧会としてはたいへんな労作である。図録も充実しているし、何よりつげ義春の代表作《ねじ式》の原画を一挙に展示したところに最大の見所がある。にもかかわらず展覧会を見終えたあと、えもいわれぬ違和感を拭えないのは、いったいどういうわけか。その要因は、おそらく最後の「キッチュ」にあると思われる。石子が蒐集していたという大漁旗やステッカー、造花、銭湯のペンキ絵など、通俗的で無名性に貫かれた造形物の数々は、たしかに「まがいもの」のようには見える。けれども、美術館の中に整然と展示されたそれらには、「キッチュ」ならではの卑俗な魅力がことごとく失われており、むしろ寒々しい印象すら覚えたほどだ。これが「墓場としての美術館」という空間の質に由来しているのか、あるいは石子が見ていた「キッチュ」を現代社会が軽く追い越してしまったという時間の質に起因しているのか、正確なところはわからない。とはいえ、少なくとも言えるのは、私たちが注いでいる「キッチュ」に対する偏愛の情がまったく感じられなかったということだ。美術館が「キッチュ」や「限界芸術」を取り上げるとき、おうおうにして、このような白々しさを感じることが多いが、それは企画者の趣向というより、もしかしたら石子順造に内蔵された限界だったのかもしれない。オタク前夜の時代を切り開いた美術評論家としては注目に値するが、オタクが黄昏を迎え、代わって「限界芸術」という地平が見え始めているいま、石子だけを手がかりとするのは、いかにも物足りない。大衆文化を盛んに論じた鶴見俊輔、林達夫、福田定良、あるいは今和次郎らによる思想を総合的に再検証する仕事が必要である。
2012/02/22(水)(福住廉)