artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
Chim↑Pom展 LEVEL7 feat. 広島!!!!
会期:2011/12/10~2011/12/18
原爆の図丸木美術館[埼玉県]
丸木美術館で催されたChim↑Pomの展覧会。広島の原爆や福島の原発について彼らが表現してきた一連の作品が、丸木夫妻による《原爆の図》と同じ美術館で展示されたことの意義はとてつもなく大きい。《原爆の図》の圧倒的な重さと対比されることで、いままで以上にChim↑Pomの軽さの意味が際立って見えたからだ。これまでChim↑Pomの作品は不当にも軽佻浮薄な印象で判断されることが多かったが、それは必ずしも現在の若者文化を体現した彼らの佇まいに由来しているだけではない。原爆と同じ原子力エネルギーを「平和利用」することで繁栄してきた戦後社会が、そのような相対的な軽さを要請したのだ。その恩恵のもとで生まれ育ったChim↑Pomにとって、原子力は原爆という絶対的な暴力を告発するほど外部にあるものではなく、むしろ自分たちの内側に内蔵されているものだった。肉眼で見ることができない以上、重さを実感することができないといってもいい。だからこそ、それは絵画の対象になりうる重さを持ちえず、飛行機雲というたちまち雲散霧消してしまう軽薄なメディウムを選び取ったのではなかったか。もちろん原爆の被爆地へ赴いた丸木夫妻と同じように、Chim↑Pomも原発事故の現場に足を運んでいる。けれども、そこには建物の破壊こそあれ、大量死のような地獄絵図があるわけではなく、肝心の炉心さえ、いまだに誰も見ることができない。つまり放射能の被害は、いまのところ想像するしかない以上、想像力を使って思い描く空想の世界ではおのずと軽くならざるをえないのだ。広島と長崎に落とされた原爆が私たちの戦後史の出発点であり、なおかつ原爆美術の原点だったとすれば、Chim↑Pomが刻印したのはその「現在地」にほかならない。本展において、その両極が同時に示されたことによって、重い原爆美術から軽いそれへと変遷した過程を想像することができた。そのあいだを数々の視覚芸術によって架橋するのが、おそらく目黒区美術館が準備していた「原爆を視る」展なのだろう。このほど正式に中止が決定されたようだが、時期と場所を改めて開催することが大いに待望される。
2011/12/14(水)(福住廉)
イエロー・ケーキ クリーンなエネルギーという嘘
会期:2012/01/28
渋谷アップリンク[東京都]
昨今、原発についてのドキュメンタリー映画の上映が相次いでいるが、この映画もそのひとつ。原子力発電に必要な天然ウランの採掘に焦点を当て、旧東ドイツやナミビア、オーストラリア、カナダの採掘現場にカメラが入っていく。古い資料に登場する人物にインタビューしたり、空撮によって取材拒否された採掘場を撮影するなど、粘り強い取材態度は評価できる。けれども、全体的に大仰な音楽が耳障りであり、肝心の放射線の種類や線量の単位を詳らかにしないなど、不満が残らないわけではない。とはいえ、ウランを100%完全に輸入に頼っている日本で、その採掘現場の実態がまったく知られていないことを考えれば、やはりこれは見ておく必要がある映画だといえる。旧東ドイツの採掘現場跡地にそびえ立つボタ山や、アボリジニの土地を奪って造成されたオーストラリアの採掘場で垂れ流される排水からは、いまも放射線が発せられているという。放射性廃棄物の行く末を追跡した『100,000年後の安全』とあわせて見ると、結局のところ、原子力エネルギーは人間の手には負えないという厳然たる事実を明快に理解することができるはずだ。これから手を引くことができるかどうかに、人間が人間たりうるかがかかっている。
2011/12/13(火)(福住廉)
ぬぐ絵画──日本のヌード1880-1945
会期:2011/11/15~2012/01/15
東京国立近代美術館[東京都]
いわゆる「裸体画」の歴史を振り返った展覧会。黒田清輝から萬鉄五郎、熊谷守一、そして安井曽太郎、梅原龍三郎、小出楢重まで、おもに油彩100点が展示された。西洋から輸入した「裸体画」を受容していく過程を時間軸で区切った構成は、いくぶん面白みに欠けるとはいえ、いちおう堅実ではあるし、黒田による《智・感・情》など、見るべき作品も多い。女性のヌードを描いている以上、そこにはエロティシズムの視線が必然的に動員されるが、おもしろいのは黒田によって制度化された「裸体画」の系譜が、後の世代の絵描きによって撹乱され、エロティシズムの視線すら相対化されているように見えるところだ。なかでも、とりわけアナーキーなのが萬鉄五郎。腋毛を見せつける《裸体美人》がよく知られているが、そのほかにも日本髪を結っているのだろうか、巨大な頭部をもつ裸婦像を描くなど、冗談としか思えないヌードをたくさん描いている。「裸体画」という歴史的系譜に沿ってみれば、黒田によって導入された西洋的肉体美の基準からの逸脱として見られるのだろうが、一方で「裸体画」をエロティシズムの呪縛から解放したと考えられなくもない。幻想的な背景や白人女性のモデルによって肉体を過剰に美化するのではなく、私たちの土着的な肉体そのものを凝視すること。萬鉄五郎は肉体をいかなる意味にも還元することなく、あくまでも物体としてとらえる即物的な視線で描いていたのではないだろうか。それが滑稽な印象を与えるとしたら、私たちの肉体が滑稽なのだろう。
2011/12/07(水)(福住廉)
ビリー・アキレオス
会期:2011/11/23~2011/12/14
ルイ・ヴィトン表参道店[東京都]
イギリス人のアーティスト、ビリー・アキレオスが、ルイ・ヴィトンのバッグやベルトでつくった小動物のオブジェを、ルイ・ヴィトンの店内で見せた。2010年、アーティストの岡本光博による《バッタもん》に一方的にクレームをつけて展覧会から撤去させながら、外国人アーティストにほぼ同じような作品を制作させたところに、ラグジュアリーブランドならではの図太い神経が見え隠れするが、それはともかく問題の焦点は作品が優れているかどうかの一点に尽きる。展示されたのは、熊やカメレオン、アルマジロなど。そのなかで、まさしくバッタをモチーフにした作品が、エントランス脇のもっとも目立つ場所に展示されていた。岡本の《バッタもん》と比較してみると、甲乙つけがたいというより、その質的な差が歴然としていることは誰の眼にも明らかだ。《バッタもん》が最低限のパーツによってひじょうに合理的に造形化されていたのにたいし、アキレオスのバッタは無駄なパーツが多すぎるため、フォルムの美しさに欠けるばかりか、機械的というか、文字どおり不細工な造形である。クリエイションの根底において、前者の重心がバッタにある反面、後者はバッグを重視していると言ってもいい。余計なお世話だろうが、もう少し審美眼を磨いたらどうだろうか、と言っておきたい。
2011/12/03(土)(福住廉)
天才ハイスクール!!!! カミングアウト!!!!!!!!
会期:2011/11/25~2011/11/27
素人の乱12号店、キタコレビルGARTERギャラリー、なんとかBAR[東京都]
Chim↑Pomの卯城竜太が講師を務める美学校の学生たちによるグループ展。高円寺の「素人の乱」のいくつかの店舗を会場にして、8人がそれぞれ作品を展示した。いずれも個人的な動機と社会的な文脈を接続させた作品で、見応えがあった。とくにおもしろかったのは、臼田知菜美。映像を見ると、彼女が見ず知らずの喫煙者たちに一本のタバコを貰い続ける様子が記録されているが、そうして集めたタバコを会場で配布して自由に喫煙できるようにされていた。トイレに入ると、こんどはカフェやパチンコでトイレを借りた臼田がトイレットペーパーを拝借する映像が流され、それが目の前のトイレで使用されているというわけだ。トイレットペーパーの先端を丁寧に折り畳んでいるところがなんとも律儀だが、双方の作品に通じているテーマは、自分の愛嬌を差し出す代わりに、展覧会で必要とされる物資を貰い受けるというエコノミーである。これが、相手に金銭を振り込ませるのではなく、こちらから相手に金銭を振り込むことを説得するChim↑Pomの《オレオレ》と通底していることは明らかだが、本展には臼田以外にもChim↑Pomからの強い影響がうかがえる作家が多かった。それは美術であろうとなかろうと、教育というシステムが決して避けることができない関門であることにちがいはない。だからこそ、彼らの今後にとって重要なのは、これまで学んできたことをみずから解きほぐしていくこと、すなわちunlearningである。その先に、アーティストとして自立する自らの姿が見えるはずだ。
2011/11/27(日)(福住廉)