artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

笹岡啓子 写真展 Difference 3.11

会期:2012/03/07~2012/03/13

銀座ニコンサロン[東京都]

地震と津波による被害は眼に見えるが、放射能によるそれは眼に見えない。同じ被害でも、じつに対照的な関係にあることを、笹岡啓子の写真は明快に写し出している。ほとんど同じ構図で切り取られた写真には、一方に凄惨な破壊の現場があり、他方にはのどかな山村風景がある。あまりにも落差があるため、しばらく見ていると目眩を覚えるほどだ。この視覚的なギャップは、地震と津波の被害に対しては情動的な支援を惜しまないにもかかわらず、放射能汚染に対しては見て見ぬ振りをしながら沈黙を守る昨今の日本社会における奇妙なねじれと正確に対応している。その意味で、笹岡の作品は被災地の写真でありながら、同時に私たち自身の写真でもあるのだ。

2012/03/08(木)(福住廉)

山口晃 展 望郷

会期:2012/02/11~2012/05/13

メゾンエルメス8階フォーラム[東京都]

震災の影響を受けたアーティストは多いが、それを作品に反映させるアーティストは少ない。それは私たちが震災に衝撃を受けながらも、そのことを普段の生活にあえて表面化させない身ぶりと似ているのかもしれない。だが、アーティストと自称するのであれば、凡人とは異なる才覚や感性を見せてもらいたいと願うのもまた、凡人ならではの中庸な考え方である。
今回の個展で山口晃は、ストレートな表現を卑下して、へんにひねりを効かせがちな現代美術の作法とは対照的に、それをじつに素直に、一切隠すことなく詳らかに見せているが、そこに、彼が類い稀なアーティストである所以を垣間見たような気がした。展示されたのは、真っ黒に塗られた電柱の列と傾いた部屋のインスタレーション、そして東京をおなじみの俯瞰で描いた大きな襖絵である。黒い電柱はあの恐るべき黒い津波を、傾いた部屋は地震によって揺るがされて均衡を失った都市生活を、それぞれ暗喩していたようだし、制作途中のためだろうか、色がない襖絵にも、高層ビルに匹敵するほど巨大な防潮堤が描かれている。空前の大震災を前に、激しく狼狽する山口自身の姿が透けて見えるようだ。
制作途中のため予断は許されないが、さしあたりアイロニーとユーモアが大きく欠落しているところも、今回の大きな特徴である。山口晃といえば、過去と現在と未来が融合した都市風景を香味の効いた皮肉と小さな笑いによって描き出す絵描きとして語られることが多いが、今回の襖絵には、そのような遊び心に満ちた要素が、いまのところ一切見当たらない。ただ淡々と、想像的な建築様式とともに東京の街並みを描いているような印象なのだ。
この劇的な変化は、疲弊した都市をゼロから組み立てなおす意気込みの現われなのだろうか。それとも、これまで山口が描いてきたフィクションとしての夢物語が現実的な到達目標に見えてしまうほど、現実が想像に肉迫してしまった事態への戸惑いなのだろうか。あるいはもっと別の何かなのか。その答えはまだ見つかっていない。

2012/03/08(木)(福住廉)

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松井冬子 展 世界中の子と友達になれる

会期:2011/12/17~2012/03/18

横浜美術館[神奈川県]

かつてこれほどまでにコレクターが出しゃばった展覧会があっただろうか。コレクターのコレクションをまとめて披露する展覧会ならともかく、新進気鋭の日本画家による美術館での初個展である。通常であれば「個人蔵」と記されることが多いキャプションに、これみよがしに(としか見えない)個人名を露出させた光景は、まったくもって異様だった。絵を見る視線につねに所有者の暗い影がまとわりつくようで、鑑賞するうえで目障りなことこの上ない。記名された名前の大半が男性だったことから、美しい女性の日本画家の作品を「所有」していることを顕示する、きわめて男根主義的で下品な欲望の現われなのかと勘ぐりたくもなる。狂気や幽霊、情念を徹底的に追究しながらも、それらをあくまでも美しく表現するのが松井冬子の真骨頂だったはずだ。美しさを極限まで追究するがゆえに狂気を伴うといってもいい。このたびのコレクターの露出は、そうした完全無敵な美しさを内側から瓦解させかねない、著しい汚点であると言わざるをえない。コレクターの矜持が失われているのか、あるいは権威づけのための率先した戦略なのか、いずれにせよ今後の松井冬子には、そのような翳りを一切寄せつけない完璧な美を期待したい。

2012/03/07(水)(福住廉)

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林加奈子

会期:2012/02/18~2012/03/24

Gallery αM[東京都]

ストリートのアートといえば、グラフィティやスケートボード、ブレイクダンス、ラップなど、広義のヒップホップカルチャーとして語られることが多い。むろん、スクワッティングや海賊放送なども含めれば、より広いカウンターカルチャーの文脈に接続できるだろうが、いずれにせよ「ストリート」には男性文化の色合いが濃かった。アイス・キューブにせよ、バスキアにせよ、バンクシーにせよ、ストリートとは何よりもまず男性にとっての舞台であり、女性はあくまでも従属的な立場に甘んじるほかなかった。だが、本来ストリートが誰にとっても表現が可能なオープンな場であり、あらゆる人びとにとっての公共財であるとすれば、こうしたジェンダー・バイアスはきわめて不当であると指摘しなければならない。社会が男性だけで成り立っていないように、ストリートは男性だけのものではない。いや、社会の中枢が男性に牛耳られているからこそ、逆にストリートは女性が闊歩しなければならない。
こうした点で、林加奈子のパフォーマンス作品は興味深い。路上を行き交う人びとの前でしゃがみこんだり、公園の樹木に着衣の毛糸を延々と巻きつけたり、林のパフォーマンスはストリートと少女性を両立させながら、ヒップホップカルチャーに偏っていた従来の男性中心主義的なストリート・アートを是正しているからだ。ややもするとすべての作品に通底する詩的雰囲気に流されてしまいがちだが、林の作品の醍醐味は詩的な陶酔感というより、ストリートの野蛮性に少女性を巧みに忍ばせる鮮やかな手並みにあるのであり、その一見無邪気に見える振る舞いこそ、従来のストリート・アートにはなかった林加奈子ならではの特質であるように思う。

2012/03/02(金)(福住廉)

平成23年度第35回東京五美術大学連合卒業・修了制作展

会期:2012/02/23~2012/03/04

国立新美術館[東京都]

清水穣が的確に喝破したように(「制作展の翳り」[『美術手帖』2012年4月号])、今日の美大の卒展は「ゆとり世代」の弊害とも言うべき雰囲気に支配されている。全体的に漠然としていて白々しい展示の風景は、少なくとも大都市圏の美大の卒展に共通する一般的な傾向と言ってよい(むしろ地方都市の美大のほうが、実感としてはまだ希望がある)。政治的社会的表現の圧倒的な不在と、メディウムの即物的な改変の流行は表裏一体の現象であり、美大におけるアカデミズムにかなり前から巣食っていたが、以前にも増してそれが際立って見えるのは、ひとえにその外部にある今日の政治的社会的状況がこれまでにないほど緊迫しているからだろう。物質に閉じこもる「ゆとり」を必ずしも否定するわけではないが、そのような今日の状況にあっては、それが同時代を批判的に示すより逆に黙認することになりかねないし、同時代のアート、すなわち現代のアートを志すのであれば、むしろ美術に頼るより世俗的な社会の現場に直接的に飛び込むほうが有効であることは、もはや誰の眼にも明らかである。
さしあたってそのように現状を診断したうえで、本展に展示されていたおびただしい作品を見渡してみると、注目できたのは次の2点。武蔵野美術大学の長谷川維男による《2011年府中の旅》と、女子美術大学の緑川悠香による《フクシマ》だ。長谷川は、昨年のDIC COLOR SQUAREでの個展では赤い地蔵コーンのシリーズを発表していたが、今回は府中を宇宙に見立てたドキュメント作品を展示した。府中人とは一切の交流を持たず、公衆トイレの使用も自ら禁じ、さながら宇宙旅行のごとく、3日間の予定で生存圏外の府中の街へ繰り出した。こうしたパフォーマンスがウケ狙いの遊戯にすぎないと切り捨てられがちであることは否定できないとしても、一方でそれが今日の危うい生存圏を鈍く逆照していることもまた事実である。尋常ではないほどの放射性物質が拡散され、それらが循環する生態系の中で生きることを強いられている私たちにとって、生存圏外としての府中=宇宙は、笑って済ますことができないほどリアルな問題だからだ。2日目に警察の職質を受けて旅が頓挫させられたのも、生存圏内というフィクションの綻びを暴くパフォーマンスへの政治的な中止命令として考えられないこともない。いかにも乱雑なアウトプットにやや難が残るものの、この愚直な挑戦は評価したい。
緑川による《フクシマ》は、直接的なタイトルはともかく、絵画表現として得体の知れない強度を感じた。おそらくは男女の横顔を描いた具象的な平面作品の対は、それぞれ陰鬱な背景と生々しい肌色が鮮やかに対比させられているが、細部に仕掛けられた抽象的な操作が、不穏な雰囲気を倍増しており、なんとも怖ろしい。もしかしたらとんでもないものを見てしまったのではないかという不安な気持ちにさせられるほどだ。「いま」を平面に落とし込む意欲すら見られない作品が多勢を占めるなかにあって、それに取り組んでいる非常に稀有な例として印象に残った。

2012/03/02(金)(福住廉)