artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
桂川寛 追悼展
会期:2012/01/11~2012/01/18
三愚舎ギャラリー[東京都]
昨年10月に亡くなった桂川寛の追悼展。晩年に描かれた水彩画をはじめ、シュルレアリスム絵画、モノクロによる風刺画などが発表された。昨年の2月に熊谷守一美術館で催された回顧展では、よく知られている50年代のルポルタージュ絵画を中心に展示が構成されていたが、今回は上京直後に描かれた絵画など、これまであまり知られることが少なかった作品が数多く発表されていた。小規模な会場だとはいえ、資料を細かく配置するなど、充実した展示である。それらの絵を見ていると、擬人化された魚が頻繁に登場していることに気づくが、これは桂川自身を魚に見立てたものだという。他者を動物に見立てたうえで批判的に風刺する画家は少なくないが、自己を動物として描写する画家は珍しいのではないだろうか。ひとを笑うことはたやすい。だが、自分を笑い飛ばすことはなかなか難しい。桂川寛の絵には、その困難な芽が隠されていると思う。
2012/01/18(水)(福住廉)
イワサキタクジ展(ファントムと使途不明な日々)
会期:2012/01/06~2012/01/14
GALLERY MAKI[東京都]
希代の画家、イワサキタクジの新作展。展示した絵画をベースに、フィルム写真をスライド上映する「幻燈会」を随時おこなった。写真はこれまでと同様、この世を写しながらもあの世への入り口を垣間見させるような寂寥感があふれており、その視点はいつにも増して此岸と彼岸のあいだを彷徨う霊魂のそれを彷彿させた。入れ代わり立ち代わり映し出される写真を見ていると、そこに写されている風景の向こう側に連れて行かれるように錯覚するほどだ。そうした強い霊性は、写真だけでなく絵画にも通じるイワサキの大きな特徴だが、今回発表された絵画にはひときわ強く立ち現われていた。中世の宗教画をモチーフにした色彩豊かな絵画に描き出されているのは、生と死、父と母、男と女、神と悪魔、赦しと恐怖などの両義性。いずれかが明示されている場合もあるし、いずれにも解釈できる場合もある。生きることも死ぬことも、すべてを丸ごと引き受ける覚悟のようなものが、画面からひしひしと伝わってくる。これほど幅と厚みのある絵画は、少なくてもここ数年の展覧会では見られなかったから、今回の個展でイワサキはひじょうに大きな達成を遂げたと言わねばなるまい。さらなる展開が待望される、数少ない画家である。
2012/01/13(金)(福住廉)
若木くるみ「車輪の下らへん」
会期:2011/12/10~2012/01/21
Gallery Jin Projects[東京都]
第12回岡本太郎現代芸術賞で岡本太郎賞を受賞した若木くるみの個展。会場の中央に設けた巨大な車輪のなかで、モルモットのように延々と走り続けるパフォーマンスを見せた。手足と顔面を黒い布で覆って匿名性を担保していたから定かではないが、おそらくは当人なのだろう。走る速度はあくまでもジョギング程度であるため、車輪の回転運動もゆっくりとしているが、その駆動音は木製の車輪がきしむ音が室外へ漏れ出すほど大きく、そして絶え間ない。どうやら会期中つねに走っていたようだ。むろん、無意味の徹底という現代アートの典型的な作法を見出すことはできる。けれども、展覧会のタイトルに示されているように、これがヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を念頭に置いていたとすれば、車輪の下に踏み潰されるより、いっそ車輪の内部に入り込み、それを動かしてしまうという逆転の発想を見抜くこともできなくはない。強者の論理のなかで、その戦略を逆用しながら生き延びる弱者の戦術。かつてミシェル・ド・セルトーが唱えたような機略が現代アートの文法に内蔵されていることを、若木くるみは身をもって解き明かしたのではないだろうか。そのような「反転」を内側に含んだ自転運動は、社会に直接的に貢献する公転運動にはなりえないのかもしれないが、その自転が鮮やかで美しいということにこそ、社会的な意義がある。
2012/01/11(水)(福住廉)
池袋モンパルナス展
会期:2011/11/19~2012/01/09
板橋区立美術館[東京都]
近年、同美術館が熱心に研究している「池袋モンパルナス」の集大成ともいえる展覧会。「池袋モンパルナス」とは、1930年代の池袋近辺に建造されたアトリエ付の住宅に集まった美術家たちのコミュニティ。詩人の小熊秀雄が書き残した同名の詩に由来している。本展では、「池袋モンパルナス」に集った寺田政明、麻生三郎、靉光、松本竣介、古沢岩美、長谷川利行などの絵画作品を中心に、当時の地図、画家たちによる日記、関連する映像などもあわせて展示された。アトリエの間取りを会場の床面に描き出し、その空間を来場者に体感させるなど、絵画作品とテキストによって研究成果を発表する従来の学芸員的手法から一歩踏み込み、より多角的に研究対象をとらえようとしているところが高く評価できる。とはいえ、であればこそ、今以上に美術館活動から踏み出す挑戦があってもよかったと思わないでもない。たとえば、アトリエの所在が把握できているのであれば、当時の地図を手に現在の街並みを歩くツアーを参加者とともに行なえば、画家たちの行動範囲をよりいっそう実感することができるだろうし、その街歩きによって新たな事実が発見されるかもしれない。歴史を全体的に解明するには、ある程度偶然性に任せたイベントが有効なのではないだろうか。「池袋モンパルナス」を美術史に位置づけるだけでなく、美術以外の文化や社会、政治との接合面によって定位することを望むのであれば、「美術」から一歩踏み外す勇気が不可欠である。
2012/01/09(月)(福住廉)
エッセンシャル・キリング
会期:2011/12/24~2011/12/25
新文芸座[東京都]
イエジー・スコリモフスキ監督作品。ヴィンセント・ギャロ演じるイスラム兵が米軍に捕捉され、収容所で虐待されるも、移送中の車両事故を機に逃走。厳冬期の山中をただひとり遁走する模様を描き出す。追跡の手から逃れて雪原を走りぬける男が体現しているのは、人間の野性。米兵から車や衣料、武器を奪い、木の実や皮、蟻まで喰らい、はては赤ん坊を抱えた女の母乳を吸い取るなど、生き延びるために男は内側に秘めていた野性を徐々に覚醒させていく。その無言の行動が動物と近しいことはたしかだが、男は殺害を逡巡したり人間ならではの知恵を働かせていることから、人間の野性は必ずしも「野蛮」を意味するわけではなく、生物としての生存欲求を最大限に追求する身ぶりと知性を表わしている。それゆえ、私たちは男の「生きる」身ぶり、いや「生きよう」ともがき苦しむさまに眼を奪われるのだ。生きることに四苦八苦する人間のありようを、これほどまでに強く、明快に、しかも単純に見せる映画をほかに知らない。人間の温かさに触れることで、呼び覚まされた野性がたちまち力を失ってしまうラストシーンも、残酷なまでに美しい。
2011/12/25(日)(福住廉)