artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

ウメサオタダオ展 未来を探検する知の道具

会期:2011/12/21~2012/02/20

日本科学未来館[東京都]

民族学者の梅棹忠夫(1920-2010)の展覧会。京都に生まれ、アジアやアフリカ諸国へのフィールドワークを経由して、国立民族学博物館の創設に尽力し、やがて日本の文化行政のキーマンとなってゆく人生の軌跡を、数々の資料や書籍、道具、写真などで振り返った。梅棹の足取りを、簡素なベニヤの合板を円環状に組み立てることで表現した展示構成が、何よりすばらしい。そこに展示されていたのは、手書きのフィールドノートをはじめ、それらの情報を整理するための、いわゆる「京大式カード」など、いずれもコンピュータ時代以前の知的生産の現場を物語るアイテムばかり。その物体としての迫力のみならず、それらに滲み出ている肉体性の痕跡に瞠目させられる。京都を拠点にした長い活動を追っていくと、梅棹の活動領域が世界の周縁から政治の中枢へと転位していく過程が手に取るようにわかり、その変転に一抹の寂しさを禁じえないのは事実だとしても、その一方で梅棹の視線が(失明してもなお)つねに専門家の先の非専門家たち、つまりは私たちにまで及んでいたことも十分に理解できる。代表作『知的生産の技術』(岩波新書)は、インターネット時代になったいまとなっては、やや古色蒼然と見える印象は否めないにせよ、昨今の知的生産を貫く基本的な技術論としては依然として有効であるし、エッセイ「アマチュア思想家宣言」(『梅棹忠夫著作集』第12巻所収)は専門的な科学者の信用が失墜してしまった目下の転換期にこそ、広く読まれるべきテキストであると言える。これからの困難な時代を生きるには、梅棹忠夫が身につけていた身体的な知のありようが不可欠なのではないか。

2012/02/20(月)(福住廉)

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Viewpoints いま「描く」ということ

会期:2012/02/04~2012/02/26

横浜市民ギャラリーあざみ野[神奈川県]

最近、充実した展覧会を立て続けに催している横浜市民ギャラリーあざみ野の企画展。「描く」という手わざを共通項に、淺井裕介、椛田ちひろ、桑久保徹、吉田夏奈による作品を、それぞれ自立した空間で展示した。泥絵で知られる淺井は、マスキングテープや紙ナプキンなどの日用品を素材にしたドローイングのほか、近頃熱心に取り組んでいるという陶芸作品や、既成の文字を切り貼りしたレタリングの作品などを発表して新境地を開いてみせた。ボールペンの描線を無限反復させることで、シンプルな楕円を描き出す椛田は、それらを描いた長大なロール紙を周囲の壁面に張り巡らせた。吉田もまた無限に増殖させることが可能なパノラマ絵画のほか、会場を瀬戸内海に、立体模型を小豆島に見立て、その表面に島の風景を描き込んだ新作を発表した。そして近年評価が高まっている桑久保は、夢幻的な海岸の光景を描いた新作のほか、アトリエを再現したインスタレーションも見せた。モダニズム絵画論が明らかな失敗に終わり、新たなムーブメントに突破口を見出すこともできずにいる今日の絵画の状況は、絵を描く者にとっても絵を見る者にとっても、「描く」という単純明快な原点に立ち返る機運を高めつつある。そうしたなか、手の赴くまま自然に描く淺井や、偏執的かつ求心的に描く椛田、分裂的かつ遠心的に描く吉田、そして戦略的に考え抜いたうえではじめて描くことを正当化する桑久保という4つのアプローチをバランスよく見せた企画者の手腕は、高く評価したい。

2012/02/12(日)(福住廉)

バミューダトライアングル

会期:2012/02/04~2012/02/12

シャトー小金井[東京都]

有賀慎吾、泉太郎、小林史子による3人展。新進気鋭のアーティストたちが、古いマンションの中の空間を、それぞれ思う存分に活用した展示で、たいへん見応えがあった。黄色と黒によってアブノーマルな世界を創り出す有賀は、例によって不気味で不穏なインスタレーションを発表したが、あえて小さな入り口から来場者を招き入れることによって、あたかも直腸に進入するかのような変態性を体感させた。家具や電化製品を再構成する小林は、そのようにして部屋の中にもうひとつの部屋をつくり出したが、部分の集積であるにもかわらず、もうひとつの部屋の外壁が垂直の壁であるかのように感じられる反面、内部は乱雑に仕立てられた不思議な構造体だった。そして、噴水のある大空間を使った泉もまた、これまでと同様、既存の空間に介入し、映像の撮影と投影の場所を同一にしながら、独自の遊戯を展開した。鯉が泳ぐ池の中に飛び込み、ともに回遊しようとする映像を、その池の底に投影する作品は、映像の中では当然鯉に逃げられるものの、実際の池の中で泳ぐ鯉は、投影された映像の中の泉とともに見事に泳いでいるように見える。映像をとおして鯉との叶わぬ接触を図っているようだ。さらに全身黒タイツ姿でビリヤード台の上に仰向けに横たわった泉のまわりに数人の女性が立ち並び、手足の切れ目からひたすらボールを出し入れする映像も、終始カメラ目線の泉がコミカルなユーモアを醸し出しつつ、ボールの出し入れの反復が、奇妙なエロティシズムを感じさせた。最近の泉太郎は、どういうわけかエロチックな印象の強い映像を数多く制作しているが、今回の作品はそのなかでもとりわけ突出しているような気がする。映像というフィルターをとおして不可触の対象と接触するというフィクション。だがそれは、泉の作品に限られた特質ではないようだ。粘着的ともいえる有賀の作品も、鋭角的な小林の作品も、ともになにかしらの触覚性ないしは皮膚感覚を大いに刺激するからだ。

2012/02/10(金)(福住廉)

小松浩子 写真展 ブロイラースペース時代の彼女の名前

会期:2012/02/07~2012/02/12

目黒区美術館 区民ギャラリー[東京都]

最近まで東京は桜上水にあった「ブロイラースペース」。写真家の榎本千賀子と小松浩子が共同運営しながら毎月一度それぞれ新作を発表するためのスペースで、2011年6月におよそ1年間の活動を終えた。本展は、そこで小松が発表した作品のなかから厳選した写真を展示したもの。600点あまりの写真を壁面に展示すると同時に、20メートルの印画紙にそのまま焼きつけた長大な写真を壁面に張り巡らせ、一部を床に寝かせて展示した。大空間をたったひとりで埋め尽くした、渾身の展示である。小松がレンズを向けているのは、かねてから土建業者の資材置き場だが、モノクロ写真には重機や装置、ブロック、タイヤ、各種の建材などを集積させた光景が映し出されている。そのおびただしい物量自体に迫力があるが、よく見てみると、それらの物を規則的に配列する秩序と、その外側に逸脱する力が、写真の中で激しくせめぎ合っていることに気づく。求心的に引きつける力と、外向的にあふれ出る力が、ひとつの写真の中で入り乱れ、そのダイナミズムが得体の知れない蠢きの気配を醸し出しているのだろう。それは、暗い森の中で何かの存在を不意に感じ取ってしまった、あの怖ろしい感覚に近い。

2012/02/09(木)(福住廉)

浜田浄

会期:2012/01/25~2012/02/05

Shonandai MY Gallery[東京都]

抽象画の可能性を一貫して追究してきた浜田浄の新作展。いくつかの色を塗り重ねた平面を彫刻刀で削り取った作品などを発表した。えぐりとられた痕跡が無数に広がる画面は荒々しいが、一つひとつの傷跡の輪郭には堆積した色彩の層がわずかに垣間見え、その相反する要素が見る者の視線を巧みにかどわかすのがおもしろい。さらに傷跡に目を凝らすと、ところどころで紙がめくれ上がっているのがわかる。つまり、キャンバスの表面に紙を貼りつけ、その上にメディウムを盛りつけているというわけだ。彫刻刀をキャンバスの寸前でとどめる繊細な技術が、画面の激しい印象とそぐわないところも、じつに魅力的だ。減算的に「描く」浜田の抽象画は、つくる者と見る者にとっての過剰な主観性を退けながら、「描く」ことの可能性と限界を知ろうとしているように思えてならない。

2012/02/05(日)(福住廉)