artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
村山槐多の全貌 ─天才詩人画家22年の生涯!─
会期:2011/12/03~2012/01/29
岡崎市美術博物館[愛知県]
夭折の詩人画家、村山槐多の本格的な回顧展。油彩や水彩、デッサン、詩や書簡など、槐多の作品を中心に、従兄弟にあたる山本鼎による作品もあわせて350点あまりが一挙に展示された。中学生で結成したグループ「毒刃社」の回覧雑誌『強盗』のポスターにはじまり、《尿する裸僧》《湖水と女》《バラと少女》などの代表作、晩年を過ごした代々木界隈の風景画、さらには90年ぶりの公開となった木炭デッサン《無題》など、まさしく「槐多の全貌」に迫る充実した展示で、非常に見応えがあった。いわゆる「アニマリズム」と言われる野性的で衝動的な描線による自画像や人物像を見ていくと、貧困と失恋、放蕩と退廃にまみれながら、槐多が走り抜けた短くも濃厚な生涯の軌跡に圧倒されてやまない。なかでも本展の白眉は、300号の水彩画《日曜の遊び》。長らく山本鼎の作品だとされていたが、今回改めて槐多の作品として展示したところに、企画者の並々ならぬ執念がうかがえる。たしかに描線などから察すると槐多の作品であるという見解は客観的に妥当だと思えるが、その一方で槐多に独特な性向を顧みると、あるいは槐多と鼎の合作という線もありうるのではないかと思わないでもない。なぜなら、展示されていた槐多の初期のラブレターを見ると、そこには同級生の男子に宛てられたきわめて純粋な熱情があふれ出ており、そのほとばしる情熱をもってすれば結果的に鼎との合作という稀な事態を招いたとしても、なんら不思議ではないように思われるからである。そのような妄想を抱きながら改めてこの作品の画面を見直してみれば、自然のなかで戯れている青年たちは、きれいに男子と女子で分けられて描写されており、ここに女性をヌードにさせて排除したうえで成立するホモソサエティーの論理を見出すことは、決して困難な分析ではない。現代社会において男性と女性というジェンダー(社会的に強制される性別役割)はおろか、生物学的な区別も人工的に溶解しつつあるように、単独の芸術家と単独の作品を一対一で対応させる近代的な芸術観もまた、根本的に再考されるべきではないだろうか。
2012/01/21(土)(福住廉)
入江明日香 展
会期:2012/01/10~2012/01/21
シロタ画廊[東京都]
銅版画のコラージュで知られる入江明日香の個展。鋭い線とたおやかな色によって「少女と四聖獣」を描いたシリーズを発表した。いずれの作品にも描かれているのは、少女と神話的な動物。両者が密着した平面は、一見するとコマとフキダシを外した少女マンガのようだが、余白を絶妙にとらえた画面構成と控えめながらも調和の効いた色彩が、物語から自立した平面作品として成立させている。とはいえ、入江による今回の作品の醍醐味は、平面作品の自立性というより、むしろ神話的な世界を想像的に描いたところにあると思う。それを描いてきたのはマンガであり、美術はむしろ等閑視しがちだったことを思えば、動物と人間が交換可能であるような神話世界をまっとうに描いた点は評価されるべきである。「人間」の根拠が疑われている昨今、それを改めて規定するには神話世界に立ち戻るほかない。であればこそ、神話的動物と人間の関係が一対一である現状から、それらがより複雑に入り乱れる混合的な画面を待望したい。
2012/01/19(木)(福住廉)
HOWARD WEITZMAN PHOTO EXHIBITION
会期:2012/01/18~2012/01/31
銀座ニコンサロン[東京都]
東京在住のハワード・ワイツマンの写真展。渋谷を行き交う人びとを写したモノクロのポートレイト50点あまりを発表した。ほとんどの写真は、いわゆるギャルの奇形的な風貌をとらえており、それらをていねいに見ていくと、写真家の視線が立体的に造形化された髪型や人工的に倍増されたまつ毛に注がれていることがよくわかる。彼女たちはいずれも無表情であり、それゆえ顔面の筋肉が一様に下がっているにもかかわらず、まつ毛はどこまでも上昇するかのような異常な生命力を誇っているところに、現在の都市文化の矛盾が如実に表わされているような気がした。すなわち、自然としての身体に生命力が乏しい反面、人工的な身体に瑞々しい生命力があふれているというねじれ。もしかしたら現在の都市生活者はすでに死んでいるのではないか。そんな想像を繰り広げたくなる写真である。
2012/01/19(木)(福住廉)
白井忠俊 展─千年螺旋─
会期:2012/01/07~2012/01/28
INAXギャラリー2[東京都]
「円筒絵画」の白井忠俊の個展。青緑の蛇肌を描いた平面作品を円筒状に仕立てて見せた。ぬめりのある蛇肌が重なり合うだけでもえぐいのに、それを円筒の表面に貼りつけているから、蛇のとぐろがそのまま再現されているようで、その迫力によりいっそう凄みが加えられている。360度から鑑賞できるという点では、正面性を求める絵画というより彫刻に近いのかもしれないが、白井の「円筒絵画」があくまでも絵画であるのは、油絵具を厚く盛りつけることで鱗のように見せる工夫を凝らしていること以上に、それが対象の無限性を描写しようと試みているからだ。蛇の頭を確認することはできるが、その胴体は果てしなくとぐろを巻いており、それはどこまでいっても中心にたどり着かない無限の螺旋回廊のようだ。世界を四角いフレームに収めることで、その向こう側を想像させることが絵画の基本的な機能だとすれば、白井の「円筒絵画」はそれを円筒状に整えることで対象の再現性と無限性を同時に倍増させてみせた。無邪気な具象絵画が全盛の時代にあって、「平面」ないしは「絵画」という形式をオーバーホールしながら再構築する仕事は、今以上に評価されるべきである。
2012/01/19(木)(福住廉)
DOMANI・明日展
会期:2012/01/14~2012/02/12
国立新美術館[東京都]
ここ数年で恒例となった文化庁による芸術家在外研修制度を利用したアーティストたちの成果発表展。比較的近年に外国に渡ったアーティストたち8名による作品を中心に、過去に制度を活用した美術家たちによる作品50点あまりもあわせて展示された。あらゆる都市を廃墟にしてしまう元田久治が圧巻だったが、今回とくに注目したのが、児嶋サコ。近年熱心に取り組んでいるネズミをモチーフとした絵画や立体、そして映像を発表した。児嶋が描き出すネズミは、たとえばChim↑Pomにとってのスーパーラットとは対照的に、捕獲するものではない。むしろ、ネズミは児嶋自身であり、それを見るそれぞれの鑑賞者自身である。デジタル写真を編集したスライドショーの映像は、自然のなかを逃走するネズミの視線が投影されているから、鑑賞者は地を這って走り抜けるネズミの高揚感とスリルを味わえるし、女性の下半身にネズミが融合した立体作品はネズミに「なる」欲望の忠実な反映にほかならない。Chim↑Pomにとってのスーパーラットが同類とはいえ捕捉する他者だとすれば、児嶋にとってのネズミは自己の欲望を一方的に投影するイメージであると言ってもいい。その欲望とは、動物をモチーフとしたキャラクターに自己を埋没させることだけではなく、ちょうどネズミが檻から逃散するように、人間という存在そのものから抜け出すことを表わしているように思われた。人間を覆い隠すための動物化ではなく、脱人間のための動物化。もちろんアニメやマンガといった20世紀のサブカルチャーを顧みれば、そうした傾向は随所に見出すことができる。ただし、それらはあくまでも人間という基盤のうえで動物化の物語を繰り広げているのであって、どれほど動物へ飛躍したとしても、最終的には人間に帰着していた。ところが、児嶋のネズミは人間に立ち返るのではなく、むしろ野原をかき分け、岩壁をよじ登り、自然の向こうに突き抜けてしまう。映像のラストで大きく映し出された雲のかたちがネズミに見えたが、それは人間には決して回帰しない、ある種の決別宣言のように思われた。
2012/01/18(水)(福住廉)