artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
前橋映像祭2012
会期:2012/02/03~2012/02/04
前橋市弁天通り大蓮寺、ヤーギンズ[群馬県]
群馬県前橋市で催された映像祭。同じ商店街に隣接する寺とカフェを会場に、14組による17作品が、2日間にわたって上映された。地域密着型の小さな映像祭とはいえ、今日の「映像の時代」を如実に物語るかのように、じつにさまざまな映像を見ることができた。杉本篤+八木隆行による《八木隆行》は、前橋在住のアーティストである八木の作品を紹介する映像で、組み立て式の湯船を背負って山に登り、池のほとりで風呂に入る八木の身体と言葉をとらえる。美しい自然の只中でビールを飲みながらのんびり入浴を楽しむ八木の姿を見ると、「どうだ、うらやましいだろう!」と暗に言われているようで、なんとも悔しい。そもそもアートとは、対話やコミュニケーションの次元とは無関係に、オルタナティヴな美しさや生き方を一方的に見せつける、万人に向けた勝利の雄叫びだったのではないかと思わずにはいられない。江畠香希の《カレが捕まっちゃった》は、東日本大震災から半年後の2011年9月11日に新宿でおこなわれた「9.11原発やめろデモ!!!!!」のドキュメンタリー。デモの群集のなかから警察による過剰警備の実態を克明に映し出し、そのなかで逮捕された江畠の「カレ」が釈放されるまでの過程を丹念に記録した。デモの当事者の視点から撮影された映像に現場の臨場感があるのは言うまでもないが、それ以上に色濃く立ち現われているのは、このデモの主催者である「素人の乱」と江畠自身による逮捕された「カレ」への友愛の情。釈放された「カレ」に平手打ちを加えて出迎える江畠を映したシーンや、その後歓迎会の会場で「カレ」を温かく祝うシーンは、愛以外の何物も映っていないとすら言える。映像とは、かくも強力に人間の心情に働きかけることができるメディアだったのだ。頭部を蹴り上げられ、ざんばら髪のまま、意識朦朧とした「カレ」の青い顔を、警官隊の隙間の向こうにとらえた映像を、私たちは決して忘れることはできないだろう。原発のない社会を望む者たちは、このネガティヴなイメージに対抗しうるポジティヴな映像を待望している。
2012/02/04(土)(福住廉)
預言者
会期:2012/01/21
ヒューマントラストシネマ渋谷[東京都]
近年稀に見るフィルム・ノワールである。ジャック・オーディアール監督が描き出したのは、入獄した若い受刑者の男が刑務所内の社会でなんとか生き延びていくプリズン・ドラマ。孤独から出発しながら組織の底辺に組み込まれ、知恵を働かせながら対立する組織とうまく折衝していき、やがて組織の上へのし上がってゆく。アラブ系主人公のいかにもチンピラ風の顔と身ぶりが断然よいし、人道的な老人に扮した『サラの鍵』から一転して冷酷なコルシカ・マフィアを演じたニエル・アリストリュプの佇まいも味わい深い。閉ざされた刑務所社会の暗鬱とした空気感と、陰惨な暴力描写には言いようのないほどの恐怖を覚えるが、その一方で不可能にしか思えない困難な局面を切り抜けていく鋭い知性とたくましい根性のありようが、とてつもなくすばらしい。人間が生きる技術、すなわちアートが、すべて描き出されているといってもいい。たとえば権力を握るにつれて、主人公は刑務所の内外を往来するようになるが、日本とフランスの制度上のちがいに驚かされることに加えて、ここには人間社会の境界線を超えていく想像力が表現されているように考えられるからだ。刑務所社会に育てられたともいえる主人公にとって、一時的に出向くことができる刑務所の外のシャバは刑務所社会の延長でしかなかったし、そのことは完全に出獄したとしてもおそらく変わらないことは、ラストシーンで象徴的に描かれている。あの名作『ビューティフル』と同じように、画面に特定の死者がはっきりと映り込む設定にしても、この世の人間とあの世の人間の境界を軽やかに乗り越えていく想像力の表われにほかならないし、異民族のあいだを行き来する主人公も、その想像力を身をもって体現していると言えるだろう。そもそも「預言」という才覚ですら、現在と未来の境界線を部分的に溶解する技能として考えられる。この映画から得られるのは、人為的に構成されたありとあらゆる境界線を超越する根源的な想像力のありようである。社会の制度疲労がもはや隠しようがないほど明らかになっているいま、もっとも必要されているのは、このイマジネーションだ。
2012/02/01(水)(福住廉)
第60回東京藝術大学卒業・修了作品展
会期:2012/01/29~2012/02/03
東京藝術大学大学美術館ほか[東京都]
今年の東京芸大の卒展はなかなか秀作が多かったように思う。それは、作品の平均値が高かったからだとも言えるが、その一方で「つくる」ことと同時に「見せる」ことにも関心を払った学生が多かったからだ。寺木南の《純粋大衆芸術》は、人体がまぐあう性愛のシーンを描いた皿を壁面に展示した作品だが、一部の皿にプロジェクターで動画を投影するなどの工夫をして、食と性、生と死の問題を多面的に表現していた。豊永恭子の《地を愛でる》は、彫像作品だが、来場者に提灯を手渡し、暗い室内に置かれた彫像をその弱い明かりで照らし出して見せた。暗闇の中から浮かび上がる彫像はなんともエロティックだった。同じく彫刻の宮原嵩広は、階段の脇にあるデッドスペースを巧みに使用した作品で度肝を抜いた。狭い空間に入ると、コンクリートの壁面が円状に大きく凹んでいる。壁面全体をコンクリートで厚みを持たせ、その中央に凹部を設けたわけだ。なるほど、うまい具合に考えたものだと感心していたら、それだけではなかった。対照的な位置にある、もうひとつの階段脇の空間に入ると、そこにあったのは凸部のコンクリート。同じ要領で、対照的な場所に、凹凸をそれぞれ作りだした発想と技術が抜群にすばらしい。
2012/01/31(火)(福住廉)
今和次郎 採集講義
会期:2012/01/14~2012/03/25
パナソニック汐留ミュージアム[東京都]
考現学の今和次郎の展覧会。全国各地の農村の暮らしや文化を詳細に書きとめたフィールドノートや写真、民家を再現した模型、都市の風俗の細部を記録したメモや地図、さらには住宅の設計図など、270点あまりを一挙に展示した。合板パネルを組み合わせてつくった会場をじっくり丁寧に見ていくと、画家であり、建築家であり、デザイナーであり、そして何より足を使ったフィールドワーカーだった今の全貌に迫ることができる。フリーハンドの線で緻密に描かれた絵や図や像は、いくら見ていても飽きることがないほど、じつに美しい。線だけではない。1枚の四角い紙面に必要なイメージとテキストを満遍なく盛り込むバランス感覚も抜群で、その的確な構成力には何度も唸らされた。こうした今の手わざを支えていたのが、「生活改善」という言葉に示されているように、前近代的で封建的な農村文化を克服する思想としての近代だったが、現代社会がむしろ近代の隘路に陥り、新たな方向性を見失っていることを思えば、私たちはいま、今が改善する必要を見出した前近代を、改めて検証するべきではないだろうか。考現学というパースペクティヴは、都市文化を仔細に見るためだけではなく、いままさに疲弊している農村文化を再興するためにこそ、有効に使えるはずだ。そこに、考現学のアクチュアリティーがある。
2012/01/29(日)(福住廉)
渋谷ユートピア 1900-1945
会期:2011/12/06~2012/01/29
渋谷区立松濤美術館[東京都]
「渋谷」に集った近代美術の画家たちによる作品を見せる展覧会。菱田春草や岡田三郎助、岸田劉生など、主に前世紀の前半に現在の「渋谷」近辺に住んで制作していた画家たちによる作品を展示した。近代美術を新鮮に見せるための文脈として「渋谷」を担ぎ出したのはよい。当時の地図と現在の写真をあわせて見せるなど、展示に一工夫加えている点も好印象だ。ただし、同展が射程に収めている「渋谷」は、現在の青山や麻布、恵比寿なども含んでおり、地政学的なカテゴリーからの逸脱が大きすぎるといわざるをえない。なんといっても、渋谷は文字どおり「谷」なのだから、青山を「渋谷」と呼ぶにはどう考えても無理がある。そうした地理的な条件を超越するほどの共同体が結ばれていれば話は別だが、展示を見るかぎり、池袋モンパルナスのような濃密な人間関係が結ばれていたようにも思えない。さらなる今後の調査研究を待ちたい。
2012/01/29(日)(福住廉)