artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

喜多村みか「meta」

会期:2017/01/19~2017/02/12

Alt_Medium[東京都]

喜多村みか(2006年にキヤノン写真新世紀優秀賞受賞)の新作は「ポートレート」だった。老若男女、多様な人物たちの姿が、画面のほぼ中央に据えられた横位置の写真が会場に淡々と並ぶ。それはたしかに「ポートレート」としかいいようのない作品なのだが、どこか居心地の悪さを感じる。ひとつは、被写体を同じ位置に、ほぼ無表情に直立させた構成に、作者の強い意思を感じないわけにはいかないからだ。もうひとつは、人物とその背景となる環境とのあいだに、かすかなズレがあるように見えるからである。人物だけが背景から切り抜かれ、コラージュされているように見えてしまう写真もある。
つまり、喜多村のこの試みは、一見さりげない「ポートレート」に見せて、タイトルが示すようにメタフィジカルな問いかけを含むものなのだろう。そのあたりについて、写真展にあわせて刊行された同名の写真集に寄せたテキストで、彼女はこんな風に書いている。
「つまりこれは、私やここに写っている人たちがこの世からいなくなったとき、誰かに見つめられ、そのとき何かを感じさせることが出来るかを問う、わたしの密かな実験でもある。」
たしかに、人物が写っている写真には、そんな問いかけを呼び起こす不思議な力が宿っている。喜多村が指摘するように、あと100年経てば、「私やここに写っている人たち」は一人残らずこの世を去ってしまうからだ。この試みはまだ始まったばかりということで、作品自体の数が少なく、展示のスタイルも定まっていないようだが、少し長く続けていくことで、「メタ・ポートレート」とでもいうべき方向に展開していく可能性があるのではないだろうか。誰をどう撮るのかという基準をよりクリアーにしつつ、作品の完成を目指していってほしい。

2017/02/09(木)(飯沢耕太郎)

あざみ野フォト・アニュアル 新井卓 Bright was the Morning──ある明るい朝に

会期:2017/01/28~2017/02/26

横浜市民ギャラリーあざみ野 展示室1[神奈川県]

昨年は石川竜一の展覧会を開催した「あざみ野フォト・アニュアル」の一環として、今年は新井卓の「ある明るい朝に」展が開催された。さほど広くない会場だが、充実した内容の展示であり、なによりも意欲的な新作をしっかりとフォローしているのがいい。長く続けてほしいイベントの企画である。
新井は2016年に第41回木村伊兵衛写真賞を受賞して、一躍名前を知られるようになったが、それ以前から世界最初の実用的な写真技法であるダゲレオタイプによる作品制作に取り組んできた。ダゲレオタイプは数10秒~数分の露光時間が必要で、1回の撮影でネガとポジが一体化した複製不可能の1枚の画像しかつくることができない。新井は原爆が投下された広島、東日本大震災の被災地となった福島、東京・江東区夢の島の記念館に展示されている第五福竜丸などに、そのレンズを向けている。あえてダゲレオタイプで画像化することによって、過ぎ去り、忘れられていく出来事を、「マイクロ・モニュメント」として定着しようとする彼の試みは、見る者の心を強くを揺さぶるインスタレーションとして成立していた。ダゲレオタイプは、表面が鏡のように輝いているので、ある角度から目を凝らさないと画像がはっきりと見えない。その特性を逆手にとって、観客が近づくと照明が点灯するようにした仕掛けも、効果的に作用していたと思う。
今回、特に印象的だったのは新作の「明日の歴史」(2016~)である。広島と福島の14~17歳の少年・少女にカメラを向け、彼らへのインタビューとともにダゲレオタイプのポートレートを展示している。「顔の形や体の形」を、できるかぎりシャープに捉えるために、このシリーズの撮影では大光量のストロボをたくさん使って、一瞬の閃光で彼らの姿を浮かび上がらせるようにしたという。さらに東京、沖縄での撮影も予定されているということで、さらに厚みと強度を備えたシリーズとなっていくのではないだろうか。
2014年に制作されたB25爆撃機からカボチャを投下するというシニカルな映像作品《49パンプキンズ》も面白かった。写真・映像作家としての新井の、表現者としての大きな可能性の一端を垣間見ることができた。

2017/02/08(水)(飯沢耕太郎)

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サトウヒトミ「イグアナの息子」

会期:2017/02/03~2017/02/19

神保町画廊[東京都]

萩尾望都に『イグアナの娘』(1992)という漫画がある。自分がイグアナのような顔と思い込んでいる醜形恐怖症の娘と、母親との確執を描いた異色作だ。タイトルは似ているが、サトウヒトミの「イグアナの息子」はそれとは正反対といえそうな作品で、こちらは家族の一員となったイグアナを撮影し続けた、ユニークなペット写真のシリーズである。
夫婦と息子、娘の4人家族のマンションにイグアナがやって来たのは、「地元の夏の縁日のくじ引き」で、息子が景品のイグアナを引き当てたからだという。手のひらに乗るくらいの大きさだった黄緑色の爬虫類は、それから13年間で1.5メートルの大きさにまで成長する。その巨大化したイグアナを、家族が柔らかに受け容れていく同居生活ぶりが、シュールかつユーモラスなタッチで綴られていく。時折、ファッション写真的な演出が加わったりするのも効果的だ。あまり例を見ない、のびやかな「私写真」として成立しているのではないだろうか。イグアナは2015年に亡くなり、その日から3日間、イグアナと最も親密だった息子は「家に戻らなかった」のだという。むずかしいかもしれないが、サトウにはぜひ、家族の「その後」のあり方も撮り続けていってほしい。より身体性を強めたポートレートなども、いいテーマになりそうだ。
なお、すでに日本カメラ社から写真集『イグアナと家族とひだまりと』(2016)が刊行されているが、今回の展示はそれとは別バージョンになっている。写真を分割して小さなフレームに入れて並べたり、自作の油彩画と写真の合成作品があったりと、展示構成にも工夫が凝らされていた。

2017/02/08(水)(飯沢耕太郎)

第14回写真「1_WALL」グランプリ受賞者個展 佐藤麻優子展 ようかいよくまみれ

会期:2017/01/31~2017/02/17

ガーディアン・ガーデン[東京都]

2016年の第14回写真「1_WALL」展でグランプリを受賞した佐藤麻優子の受賞者個展である。受賞のときから、その一見ノンシャランな作品のあり方には賛否両論があり、個展としてきちんと成立するかどうかという危惧もあったのだが、結果的にはとても面白い展示になった。彼女の本領発揮というべきだろうか。のびやかな構想力と脱力感が共存するとともに、被写体となる人たちとの絶妙な距離の取り方が魅力的だ。
展示の全体は、「ただただ」、「まだ若い身体です」、「もうない」、「夜用」、「その他」の5つのパートに分けられている。ただ、それぞれのパートの作品に、それほど大きな違いがあるわけではない。彼女と同世代の女性の友人たちが、ゆるゆると、思いつきとしか見えないパフォーマンスを繰り広げている場面をフィルムカメラで撮影した写真が、淡々と並んでいる。基調となっているのは、「焦り、不安、無気力感」(「ただただ」)、「満たされなさ、悲しさ、寂しさ」(「まだ若い身体です」)といった、どちらかといえばネガティブな感情なのだが、それもそれほどシビアな切実感を伴うものではない。それでも全体を通してみると、2017年現在の東京の、どこか足元から崩れてしまいそうな予感を秘めた閉塞感、不安定感が、きちんと(むしろ批評的な視点で)写り込んでいる。23歳の「若い身体」をアンテナにして、全方位で末期資本主義の「よくまみれ」の世界のあり方を写真に取り込もうとする意欲が伝わる気持のいい展示だった。意外とこのあたりに、次世代の写真表現の芽生えがあるのかもしれない。

2017/02/02(木)(飯沢耕太郎)

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呉在雄 / Oh Jaewoong「Bougé: 持続の瞬間」

会期:2017/01/24~2017/02/05

TOTEM POLE PHOTO GALLERY[東京都]

呉在雄は1975年、韓国・ソウル生まれ。現在、東京工芸大学大学院芸術研究科メディアアート専攻に在籍しており、今回の個展からTOTEM POLE PHOTO GALLERYのメンバーの一人として活動するようになった。今回展示された「持続の瞬間」は5年前から撮り続けているシリーズで、井の頭公園や小金井公園の樹木に6×6判のカメラを向け、揺れ騒ぐ樹々の枝をフレームにおさめてシャッターを切っている。60分の1秒ほどのシャッタースピードなので、長時間露光というほどではないのだが、風の強い日だと枝は相当に揺れ動いて、ブレが生じてくる。その不定形のフォルムと、枝と枝との間の空白の部分との関係に神経が行き届いていて、じっと見つめていると画面に吸い込まれていくような感覚を味わうことができた。
呉がこのような作品を撮り始めたきっかけは、留学先の日本での生活に疎外感や孤独感を感じることが多く、そんなときに公園に出かけて、樹を眺めていることが多かったからだという。風に揺れる枝に自分の思いを託しつつ、シャッターを切っていたということだろう。韓国の現代写真家たちの作品を見ていると、長時間にわたって風景に対峙し、対話することで、純化された、瞑想的とさえいえそうな境地に達しているものがかなりたくさんあることに気がつく。日本でも何度か展示されたことのある、 炳雨(ベー・ビョンウ)の「松(ソナム)」シリーズなどもその一例である。呉のこのシリーズも、そんな作品に成長していく可能性があるのではないだろうか。

2017/01/31(火)(飯沢耕太郎)