artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

山本悍右展

会期:2017/01/13~2017/02/18

タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]

山本悍右は(1914~1987)は戦前から戦後にかけて名古屋で活動した写真家・アーティスト。詩人として出発し、1939年に坂田稔、下郷羊雄らと「ナゴヤ・フォトアバンガルド」を結成して、旺盛な創作意欲でシュルレアリスムに影響された「前衛写真」を発表していった。戦後も北園克衛が主宰する『VOU』の同人となって、詩や作品を発表するなどの活動を続けたが、生前はほとんど評価されることがなかった。
ところが、1990年代から急速な見直しが進み、国内外の美術館やギャラリーで個展が開催されるようになり、シュルレアリスムと写真との関係を語るうえで、欠かせない作家の一人と認められるようになってきている。今回のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムの個展では、代表作28点あまりが展示されていた。しかも、大部分がヴィンテージ・プリントである。これだけの規模と内容の展示が商業ギャラリーで開催されるという状況そのものが、山本悍右の作品の国際的な評価の高まりを示すものといえるだろう。
山本にとって、写真はあくまでも造形作品を制作するための手段であり、現実世界を再現・記録するよりは、モンタージュやコラージュの材料を得るために活用するべきものであった。その、ある意味ではドライで自由な写真に対するアプローチが、作品の隅々にまで貫かれているのが、むしろ小気味好く目に飛び込んでくる。今回見たなかでは、《写真に関するスリリングな遊び》(1956)、《メタモルフォーゼ》(1978)などの写真とオブジェとを組み合わせた作品や、《街に雨が降る ぼくの部屋は 破片でいっぱいだ》(1956)、《空気のうすいぼくの部屋》(同)のような、パフォーマンスをシークエンスとして構成した作品に新鮮な印象を受けた。彼の作品世界には、まださまざまな可能性が潜んでいそうな気がする。日本では、東京ステーションギャラリーでの「シュルレアリスト山本悍右」展(2001)以来、大規模な展覧会が開催されていないので、そろそろ大きな会場での展示も見てみたいものだ。
なお同時期に、タカ・イシイギャラリー東京でも、山本悍右の作品2点を含む「日本のシュルレアリスム写真」展が開催された(2017年1月14日~2月4日)。山本に加えて中山岩太、安井仲治、椎原治、岡上淑子と並ぶラインナップはかなり強力で、「日本のシュルレアリスム写真」の広がりと豊かさを実感することができた。

2017/01/21(土)(飯沢耕太郎)

石川直樹「この星の光の地図を写す」

会期:2016/12/17~2017/02/26

水戸芸術館現代美術ギャラリー[茨城県]

石川直樹の写真について、大きな誤解をしていたことに気づいた。かつて五大陸最高峰登頂の最年少記録を持っていたという“冒険家”としての経歴、人類学的なフィールドワークを基点として「この星の光の地図」を描き出していくという壮大な意図に裏づけられた彼の写真は、精密な描写と被写体への客観的な距離を前提とした「男性原理」的な写真であるべきだという思い込みが僕にはあった。だが、そうではなく、彼の写真家としてのあり方は「女性原理」に基づくものだったのだ。
「女性原理」的な世界へのアプローチは、「異化、分類」ではなく「同化、受容」を基本とする。被写体との感情的な共振を大事にし、視覚的というより身体的、触覚的だ。だから、画面がブレようが、傾こうが、被写体がフレームからはみ出そうが意に介さない。シャープなピント、緻密な画面構成をめざす「男性原理」的な写真とは対照的なアプローチといえる。これまで、石川の作品のクオリティの低さについて、いつも不満と苛立ちを覚えていたのだが、彼が「女性原理」的な写真家であるとすれば辻褄が合う。
とはいえ、今回、水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催された、初期から近作まで450点あまりの作品が並ぶ「初の大規模展」を見て感じたのは、やはり物足りなさだった。もしも「女性原理」的な写真にこだわるのなら、なぜ身体化しやすい小型カメラではなく、扱いにくい6×7判のアナログ・カラーフィルムのカメラをわざわざ使うのだろうか。さらに展示を見ると、「女性原理」的な写真だけでなく、「男性原理」的なアプローチの写真もまた不用意に混じりあっている。複数の写真が壁面に並ぶ時に、展示が「とっちらかって」見えるのはそのためだろう。そもそも「この星の光の地図」を描き出すという、厳密さを要求される作業が、感情的、感覚的なスナップショットだけで成り立つとはとても思えない。
ということは、石川に必要なのは「女性原理」と「男性原理」を融合・統合した、いわば両性具有的な写真のあり方をめざすことではないだろうか。その意味では、会場の最後のパートに置かれた「TIMELINE」(2016)の写真群が、もっとも彼らしい仕事であるともいえる。「福島の中高生とともにミュージカルをつくっていく」というイベントの記録なのだが、その内容と、石川の衒いのない撮影ぶりがしっくりと融けあって、いい雰囲気を醸し出していた。この作品は、写真家・石川直樹のひとつの方向性を示すものだと思う。
ただ、このような被写体との親密な触れ合いを基調とする写真撮影が、いつでも可能であるとは思えない。冷静でロジカルな判断力が必要とされる「男性原理」的な写真が求められる場面も多々あるはずだ。展示を見て、そのあたりに折り合いを付けつつ、新たな写真家像をどのように打ち立てていくのかを、きちんと問い直すべき時期に来ているのではないかと思った。

(2017年2月21日修正)
(2017年2月28日修正)

2017/01/17(火)(飯沢耕太郎)

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赤鹿麻耶「あかしかまやのオープンスタジオ」

会期:2016/12/01~2017/01/11

ビジュアルアーツギャラリー[大阪府]

赤鹿麻耶は2015年に大阪と東京で開催した「ぴょんぴょんプロジェクト」をきっかけにして、作品と会場とを一体化して、観客が自由に鑑賞できるような展示のスタイルを模索している。今回は、大阪・桜橋のビジュアルアーツ専門学校大阪のギャラリーを「オープンスタジオ」として開放し、期間中に制作した写真作品やオブジェを加えて「約一カ月間、すこしずつ変化してゆく展覧会」を開催した。
最終日になんとか間に合って、展示を見ることができたのだが、会場にはプリンターやモニターが持ち込まれ、展示作品は天井、壁面、床一面に増殖していた。いつも通り、ややエキセントリックな周囲の人物たちのパフォーマンスを記録した写真が多いのだが、連続的に撮影した写真をそのまま並べていくことで、インスタレーションにアクセントがついている。ただ、事前の予想を超えた破天荒な展示だったかといえば、そうでもない。専門学校に付設したギャラリーという制約もあったのかもしれないが、もっと展示という概念自体をひっくり返すような過激さ、過剰さが欲しかった。コンセプトそのものはとても面白いので、場所を変えて何度かトライできるといいと思う。
会場の床に紙が置かれ、その上に写真の束がまとめてあった。そこに記されていた言葉が興味深い。「存在」、「始まり・起源・入り口」、「さそい・いざない」、「うたがい」、「実験」、「コトバ・夢・ねむり」、「発見」、「植物・共存」、「感動・リアル・生・出口」、「感触・予感」。彼女なりに、自分の作品をいくつかのカテゴリーに分類しようという試みなのだが、これらの言葉に沿って写真を再組織していけば、新たな方向性が見えてくるはずだ。まだやりかけの作業のようだが、ぜひ最後まで続けていってほしい。

2017/01/11(水)(飯沢耕太郎)

宇田川直寛「Assembly」

会期:2017/01/05~2017/01/23

QUIET NOISE arts and break[東京都]

1981年、神奈川県生まれの宇田川直寛は、このところ注目すべき作品を発表している写真作家である。2016年から横田大輔、北川浩司とともにSpewというユニットを組み、ZINEを刊行したり、その場でプリントを出力して展示・販売したりする活動を積極的に展開してきた。
今回はユニットとしてではなく彼の単独の個展で、東京・池ノ上のカフェ・ギャラリーに、木材、ガラス、ボール紙などのインスタレーションを組み上げ、その間にプリントを張り巡らせていた。宇田川の写真のほとんどは、彼自身が即興的につくり上げたモノの配置を即物的に記録したものである。とりたててなにかの意図を持ってつくっているわけではなく、身近にある道具、パッケージ、電線、木片、紙類などを、テープで貼り付けたり、重ね合わせたりしてオブジェ化する。その組み合わせ方に、独特の「詩学」を感じることができる。でき上がったオブジェは、写真に撮影すれば廃棄してしまうようだ。つまり、彼にとっては、モノどうしを直感的に組み合わせていくサンプリングのプロセスそのものに意味があるのであり、写真はあくまでもそれを記録する手段にすぎない。とはいえ、モノの質感や色味の再現に細やかに配慮した写真そのものにも、不思議な魅力がある。
とてもユニークな作品世界が生み出されつつあるのだが、展示はまだ試行錯誤の段階にある。写真とインスタレーションとの関係を、もう少し注意深く、緊密に練り上げていく必要がありそうだ。それよりも、会場で販売していた少部数限定のZINEのほうが面白かった。『7Days Aru/Iru koto』(2016)、『arm/ cave』(同)、そして今回の展示に合わせて刊行された『assembly』。巧みな編集・レイアウトで紙上に再構築された作品世界が、ヴィヴィッドに目に飛び込んでくる。

2017/01/07(土)(飯沢耕太郎)

小山泰介個展「Generated X」

会期:2017/01/06~2017/02/26

G/P gallery[東京都]

小山泰介の作品は、このところより抽象化の度合いを強めている。今回のG/P galleryでの個展には、近作の《PICO》(2015)、《LIGHT FIELD》(2015)、《VESSEL-XYZXY》(2016)、《NONAGON PHOTON(LML15)》(2015)の4作品が展示されていた。どれもフラットベッドスキャナー、ハンドスキャナー、デジタルハンディ顕微鏡、インクジェットプリンターなどで画像の変換を繰り返しつつ出力して作り込んだ作品である。
例えば、メインの会場で展示されていた《PICO》は、「複数のデジタルデバイスを用いて写真プリントとデジタルデータ双方にアプローチすることによって、デジタル環境において無限に抽出可能となった色やテクスチャーなどの情報から新たなイメージを生成することを試みた」ものだ。具体的には旧作の《RAINBOW FORM》のイメージから、単色の部分のピクセルを1500倍に拡大し、長さ6メートルのロール紙にプリントして天井から吊り下げている。ほとんど巨大なカラーチャートという趣で、これまでの小山の作品と比較しても、その抽象度はほぼ極限近くにまで達していた。デジタル環境を再利用した「イメージ生成」の試みには、小山に限らずいろいろなアプローチが見られるが、まずはここまで徹底してやりきったことを評価するべきだろう。
ただ、その画像の表面に「デジタル現像ソフトの粒子効果」によるノイズめいた視覚効果が施されているのはどうかと思う。写真作品としてのアイデンティティーを保つためのアリバイづくりに見えかねないからだ。また、このような手法優先の作品にありがちなのだが、仕掛けがあからさま過ぎて、見続ける意欲を減退させてしまう。《RAINBOW FORM》や《NONAGON PHOTON》のような、象徴レベルに作用する映像の喚起力が失われてしまうと、概念操作のみが肥大化した薄味の作品になってしまうということだ。むしろ、同時に展示されていた、同作品の画像を、モニター上にスライドショーとしてアトランダムに映し出す《PICO-INFINITY》のほうに可能性を感じた。

2017/01/07(土)(飯沢耕太郎)