artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
本城直季「東京」
会期:2016/02/12~2016/03/28
キヤノンギャラリーS[東京都]
本城直季は2006年頃からヘリコプターからの空撮で東京を撮影しはじめる。主に「空気が澄んで遠くまで見通せる」正月の3カ日を選んで撮影を続けたという。それら、使い慣れた4×5インチサイズの大判カメラで撮影された写真群に、高画素のCanon EOS5Dsを使った近作を加えたのが、今回のキヤノンギャラリーSでの展示である。
デジタル一眼レフカメラでの撮影は、本城に大きな解放感をもたらしたようだ。フィルムホルダーを取り替えてセットし直さなければならない大判カメラでは、1回の飛行で撮影できるのは、せいぜい30~40カットほどだ。デジタルカメラなら撮影枚数の制限はなくなる。さらに、ちゃんと写っているのかと心配することなく、安心してのびのびとシャッターを切ることができる。そのことによって、「東京をスナップする」という感覚が強まってきた。
さらに、今回の展示で本城は大きな決断をした。画面の一部にのみピントを合わせて、あとはぼかすことで、ミニチュアのジオラマのような視覚的効果を生じさせる従来の手法の作品と、画面全体にピントが合っている作品とを並置しているのだ。結果的に、つねにうごめきつつ増殖していく巨大都市「東京」の変貌のプロセスを、多面的に定着することができたのではないかと思う。また今回の展示は、あえて東京タワーのようなランドマーク的な建造物を外した作品で構成している。「どこまでも果てしなく続く密集した建造物の景色」に限定することで、「東京」という都市の基本的なエレメントが、くっきりとあぶり出されてきた。120×150センチという大判プリントによる細密描写も含めて、「デジタル化」が彼の作品世界をどう変えていくかが楽しみになってきた。
2016/02/13(土)(飯沢耕太郎)
青木陽「Inverted Spectrum」
会期:2016/02/09~2016/02/26
ガーディアン・ガーデン[東京都]
青木陽の写真の仕事には以前から注目している。2013年に東川町国際写真フェスティバルの一環として開催された「赤レンガ公開ポートフォリオオーディション」でグランプリを受賞し、翌14年に東京・東銀座のArt Gallery M84で展示された「火と土塊」のシリーズでは、濃密なグレートーンのセレニウム調色のプリントに徹底してこだわり、印画紙上に別次元の現実を構築する。ところが第12回写真「1_WALL」展グランプリ受賞者個展として開催された「Inverted Spectrum」では、まったく異なるアプローチを試みていた。
青木が今回の写真制作を通じて見出そうとしているのは、「自分自身の置かれた状況を含む現実の中で発生する出来事の意味」である。1990年代から2000年代にかけて、女性写真家を含む若い世代が、物語性を欠いたごく私的な日常の出来事を、あたかもそのまま撒き散らすような写真を提示し、それらが広く受け入れられた時期があった。写真新世紀や写真「1_WALL」展の前身である写真「ひとつぼ」展などの審査をしていると、たしかにこの種の「日々の泡」のような写真群を大量に目にすることができた。青木の今回の試みは、かつては感覚的、無自覚的におこなわれていたプライヴェートな出来事の写真化を、論理的、自覚的に再検討しようとするものといえる。
会場に展示されているのは「ホームの扉」、「電車のシート」、「コップ」、「台所のタイル」といった「ごく身近な人々、生活の一部、時々の目先の出来事」などの断片的な画像である。だが、青木の手にかかると、それらに奇妙なバイアスがかかっているように見えてくる。手が届くようで届かない、ありそうであり得ない事物や事象──あたかもカフカの小説の中に描写されているオブジェや風景のようでもある。曖昧でありながら明晰でもあるこれらの写真群は、もしかすると「私写真」の伝統を受け継ぎつつ再構築する、新たな写真表現の可能性を孕んでいるのかもしれない。青木が次に何を見せてくれかが楽しみだ。その行方を注視していきたい。
2016/02/10(水)(飯沢耕太郎)
高橋恭司「夜の深み」
会期:2016/01/22~2016/02/27
nap gallery[東京都]
高橋恭司は、1990年代に雑誌、広告等でカルト的な人気を博した写真家である。『THE MAD BLOOM OF LIFE』(用美社、1994)、『Takahashi Kyoji』(光琳社出版、1996)、『Life goes on』(同、1997)といった写真集では、放心と疾走感とがない交ぜになった、独特の映像の文体を確立していた。ところが、2000年代になると心身の不調が写真にあらわれてくるようになり、長い停滞期に入り込む。彼はどうやら、時代の悪意や閉塞感を鋭敏に感じとり、取り込んでしまうアンテナの持ち主だったようだ。2009年頃から活動を再開し、『流麗』、『煙影』、『境間』(いずれもリトルモア)といった写真集を発表するが、表現意識の空転が無惨に露呈するだけだった。
今回のnap galleryでの個展は、商業ギャラリーではひさびさの発表になる。どんな作品なのか半信半疑で見に行ったのだが、新たな方向へ踏み出していこうという意欲が、しっかりと感じられる展示だったことに安心した。「夜の深み」をテーマとする写真群が並ぶ壁の反対側に、裸電球が吊るされ、その下に楕円型の鏡が置かれている。鏡の反射は、向かい側の壁を区切るように投影されており、その光によって写真群が照らし出されていた。ややトリッキーなインスタレーションだが、仕掛けに無理がなく、夜の雨に滲むイルミネーションや、闇に沈み込む「眠る人」などのイメージも、たしかな説得力を備えていた。まだ断言するには早いが、「復活」を強く印象づける展示だったと思う。
次は、以前のように伸びやかなイメージが連なる写真集をぜひ見てみたい。焦らずにゆったりと仕事を続けてほしいものだ。
2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)
金子國義写真展
会期:2016/01/29~2016/02/21
2015年3月に逝去した金子國義は、日本を代表する画家、イラストレーターとして、素晴らしい作品を発表し続けてきた。その金子が、一時期写真にかなりのめり込んでいたことは、それほど知られていないかもしれない。1980~90年代にかけて多数の写真作品を制作し、写真集『Vamp』(新潮社、1994)、『お遊戯 Les Jeux』(同、1997)などを刊行している。今回のAKIO NAGASAWA Galleryでの個展には、お気に入りの男女モデルに、自作の絵画作品そっくりのメーキャップを施し、パリなどにロケして撮影した代表作約70点が展示されていた。
小道具のセッティングやモデルのポージングは、絵と見まがうほど凝りに凝ったものだが、それでも彼自身、写真の限界を感じていたのではないかと思う。どんなに気を遣っても、写真にはさまざまな夾雑物が写り込んでくるし、最終的な仕上がりも絵画ほど理想化して表現するのはむずかしいからだ。だが、金子の写真を見ていると、そのコントロールがうまくいかないことを、逆に戸惑いつつも愉しんでいたようも思えてくる。彼の絵につきまとう、痛々しいほどにこわばった緊張感が、写真にはほとんど感じられず、むしろリラックスした雰囲気になっているのだ。残念なことに、金子の「写真時代」はそれほど長くは続かなかった。デジタル化以降にも写真を続けていれば、また違った可能性が見えてきたのではないだろうか。
なお、東京・神田神保町の小宮山書店でも、同時期に「金子國義ポラロイド展」(1月29日~2月28日)が開催された。
2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)
村越としや「沈黙の中身はすべて言葉だった」
会期:2016/01/09~2016/02/13
タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]
村越としやは2006年頃から故郷の福島県を撮りはじめ、東日本大震災以後もその仕事を継続している。中判~大判カメラで、あまり特徴のない風景を、細部まで丁寧に目を凝らしながら撮影するスタイルに変わりはないが、その作品にはどうしても「震災の影」を感じてしまう。それは写真を見る観客が、福島県須賀川市出身という彼のキャリアに過剰反応してしまうということだけでなく、彼自身もあらためて撮ることの意味を問い続けなければならなかったということのあらわれといえるだろう。村越は震災後、「被災地としての福島を撮ることを試した」のだが、結局うまくいかず、「目の前にあるどんなことでも、どんなものでも自分の目で見て写真に撮って考えること」を課すようになったという。その覚悟と緊張感が、写真に自ずとあらわれてきているのではないだろうか。
今回のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムの個展では、大判のパノラマサイズ(イメージサイズは60×180センチ)に引伸された作品、7点が展示された。その横長の風景作品を見ていると、画像の強度がより増してきているように感じる。樹のあいだから見える海、ひび割れた岩の後ろの茫漠とした空間、湿り気が立ち上がってくる水面──画面構成はむしろ単純化しているが、タブローとしての完成度が格段に上がってきているのだ。ただしこのような絵画的な美意識の浸透は、「どんなものでも自分の目で見て写真に撮って」という撮影時のリアリティを弱めることにもつながりかねない。そのあたりの隘路をどう切り拓いていくかが、次の課題として見えてきている。
2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)