artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

マルク・リブー「Alaska」

会期:2015/01/16~2015/02/15

シャネル・ネクサス・ホール[東京都]

のちに写真家グループ、マグナムの会長をつとめることになるマルク・リブー(1923年、フランス・リヨン生まれ)は、1950年代には旅から旅への移動の日々を送っていた。1955~56年にかけては、中東、アフガニスタンを経てインドに滞在、56年には以後40年以上にわたって撮影することになる中国を初めて訪れる。そして1958年には、『パリ・マッチ』誌の特派員として、ジャーナリストのクリスチャン・ベルジョノーとともに、アラスカ・フェアバンクスからメキシコ・アカプルコへと北米の太平洋岸を2ヶ月にわたって自動車で南下する旅に出た。
今回、東京・銀座のシャネル・ネクサス・ホールで展示されたのは、その長期撮影旅行の最初の時期に訪れたアラスカで撮影された51点である。それらの写真には、零下20度を下回るアラスカの大地にはじめて足跡を記したことと、これからいよいよ新たな写真のプロジェクトをスタートするのだという気持ちが混じり合った高揚感が、はっきりと刻みつけられているように感じる。同世代のロバート・フランクなどとも共通する、弾むような勢いがあるスナップショットなのだが、同時にリブーはマグナムに所属するフォト・ジャーナリストらしく、冷静な眼差しで、近代文明に呑み込まれつつあるエスキモーの人たちの姿も捉えている。そこには映画館、コーヒーショップ、「1時間の会話代4ドルでホステスと夜を過ごすことが出来るバー」などができていて、荒廃と悲哀の気配が色濃く漂いはじめているのだ。「視ることの情熱」とともに、被写体からやや距離を取って観察し、的確に画面におさめていくリブーの写真のスタイルが、既にしっかりと確立されているのがわかる。
この「Alaska」のシリーズは、『パリ・マッチ』誌に一部掲載された後、リブーの主要な写真集にも収録されることなく、長く忘れ去られていた。本展に限らず、このところ1950年譜代のフォト・ジャーナリストの仕事を再評価する機運が高まりつつあるのはとてもいいことだと思う。

2015/01/17(土)(飯沢耕太郎)

神藏美子『たまきはる』

発行所:リトルモア

発行日:2015年2月8日

まさに「私小説/私写真」。神藏美子の前作『たまもの』(筑摩書房、2002年)は現在の夫「末井さん」と前夫の「坪ちゃん」との不思議な「三角関係」を描ききった作品だが、それから12年かけてようやく続編というべき『たまきはる』が刊行された。それだけの時間を費やしたということは、神藏が「私小説/私写真」の魔物に魅入られてしまったということだろうか。「あとがき」によれば「『たまきはる』に向かうことが、苦しくて苦しくて、逃れられない牢獄のように感じて、何年も過ごしていた」ということだが、「私」と向き合うことは、その毒を全身に浴び続けることでもあるのが、写真からもテキストからも伝わってきた。
とはいえ、『たまきはる』は「読ませる」写真集としてしっかりとでき上がっていた。何よりも夫・末井昭をはじめとして、両親、イエスの方舟の千石剛賢、作家の田中小実昌、アートディレクターの野田凪、ロックバンド、銀杏BOYZの「ミネタくん」、障害者プロレスの「がっちゃん」といった、生と死の間を漂う登場人物たちの悲哀と輝きが、決して押し付けがましくなく描かれている。特に、学生時代に撮影したという寺山修司のポートレートは驚きだった。「こんな写真を撮らせていたのか」というショックがある。写真も文章も、時間軸を無視して行きつ戻りつするのだが、そこにむしろ生活と経験に裏打ちされたリアリティがあるように感じた。あと何年かかるのかはわからないが、ぜひ撮り続け、書き続けて次作をまとめてほしいものだ。
なお、写真集にあわせてNADiff Galleryで「たまきはる──父の死」展が開催された(2014年12月12日~2015年1月30日)。こちらは、映画の録音技師だった父親の死の前後の写真を中心に構成している。

2015/01/15(木)(飯沢耕太郎)

守田衣利写真展「Close your eyes, make a wish.」

会期:2015/01/14~2015/01/27

銀座ニコンサロン[東京都]

守田衣利はフェリス女学院大学卒業後、アメリカ・ニューヨークのICP(International Center of Photography)で写真を学んだ。1998年に第7回キヤノン写真新世紀で優秀賞(ホンマタカシ選)を受賞し、2005年には写真集『ホームドラマ』(新風舎)を刊行している。現在はカリフォルニア州サンディエゴに在住しており、渡米して19年になるそうだが、今回銀座ニコンサロンで展示された「Close your eyes, make a wish.」には、その経験の蓄積がしっかりと形をとっているように感じた。
守田は2000年にアメリカ人と結婚し、2005年に娘が生まれる。その間に一家はハワイ・マウイ島、東京、熊本、上海、サンタモニカと移動し、守田自身は流産や死産を経験した。今回のシリーズはその間に家族、友人、親戚らにカメラを向けたもので、基本的には前作『ホームドラマ』の延長上にある。中判デジタルカメラの緻密な描写力と画像の情報量の多さを活かした40点の作品を眺めていると、何気なく過ぎ去っていく日々の営みに、小さな、だが取り返しのつかない無数の「ドラマ」が埋め込まれていることに気がつく。しかもそれらは、みるみるうちに色褪せ、消え失せてしまうので、写真で記録しておく以外には保ち続けるのがむずかしいものだ。守田の写真撮影の行為が、そんな記憶を大切にキープしておくために、あたかも毎日の祈りのように続けられていることがよく伝わってきた。
これらの写真をベースにしながら、守田はサンディエゴ周辺の中流家庭の子供たちを、夢と現実の間に宙づりになっているような感触で捉えた『In This Beautiful Bubble』シリーズの撮影も続けている。会場に置いてあったポートフォリオ・ブックを見ると、こちらもほぼ完成しつつあるようだ。写真家として、充実した仕事を次々に発表していく時期にさしかかっているということだろう。

2015/01/14(水)(飯沢耕太郎)

島尾伸三『じくじく』

発行所:USIOMADA

発行日:2015年2月1日

2014年9月に開催された個展「Lesions/じくじく」の時に予告されていた同名の写真集がようやく刊行された。展覧会では『野生時代』に2007年から連載していたシリーズの、ごく一部が展示されていたのだが、今回の写真集で、一筋縄では捉えきれないその全体がはじめて見えてきた。
今さらながら、強く興味を喚起されるのは、島尾の写真とそこに付された言葉(テキスト)との関係である。島尾の父が、作家の島尾敏雄であることはよく知られているが、軟体動物のように伸び縮みする「です・ます」調で綴られる彼の文体は、父のそれとも明らかに違っている。そこで語られるのは身辺雑事としかいいようがない出来事の集積であり、しかも常に彼自身の感情や生理が、まさに「じくじく」と絡みついている。たとえば、身近にある時計を撮影した「時計」のパートのテキストには「頭を左右に振ると首がミシミシいいます」「耳元で血管が収縮しているらしいジンジンという音」「聞こえるはずのない手足の血管が、プクプクという音を立てながらピクピク動いていたり」といった表現が頻出する。
だが、そのような低く、薄く伸び広がっていくような文章を読み、その横のほんのりと微光に照らし出されているような写真(テキストと写真にはあまり直接的な関係はない)を眺めていると、次第次第に島尾の描写に引き込まれ、包み込まれていくように感じてくる。その、半透明の糸にぐるぐる巻きにされて、繭か蛹に化してしまうような感触には、どこかうっとりとさせられる気持ちのよさがあるのだ。「雲」「審判の日」「墓参」「駅舎」「死者への旅」「声」「時計」「街気」「ネコの死」「温泉」「線路の輝き」「敵意」「顔」「悪魔の家」「祈り」「空虚の街」「電灯」。全17章を辿り終えたとき、上質の短編集を読み終えたような気がしてきた。

2015/01/12(月)(飯沢耕太郎)

石原友明展「透明人間から抜け落ちた髪の透明さ」

会期:2014/11/29~2015/01/18

MEM[東京都]

デジタル化の進行により「写真」と「写真ならざるもの」との境界が溶解しつつある。石原友明の新作展に展示された6点の作品は、白いジェッソの下地を塗ったキャンバスに、重なり合った曲線が描かれたドローイングに見える。ところが、それらは「作家自身の毛髪を集めてスキャニングしたものをベクタ形式のデータに変換(数値化)して、平面作品として構成したもの、つまりセルフポートレート」なのだという。たしかにそれらをよく見れば、データ化された髪の毛の画像を微妙にずらして「特殊なインク」でプリントしたものであることがわかる。ただし、これを「写真」と見るにはかなりの違和感がある。カメラやレンズを媒介することなく、「スキャニング」によって直接転写された画像だからだ。だが、明らかに手描きのドローイングでもない。このような宙づりのイメージが提示されると、観客としては戸惑いと居心地の悪さを感じざるを得ない。
だが、石原がかつて発表した小説「美術館で、盲人と、透明人間とが、出会ったと、せよ」(1993年)で、髪の毛についてユニークな見解を打ち出していたことを知ると、一見素っ気ない画面が違って見えてくる。石原の記述では、透明人間になった自分から髪の毛が抜けて床に落ちると「徐々に透明では無くなって」いく。さらに「死んで、もはや自分の一部ではなくなってしまった髪の毛を見つめると、なぜかそれこそが自分自身の生きたからだを眼前するかのような反転した感覚」が生じてくるというのだ。この感覚は、たしかに身に覚えがあるもので、抜け落ちた髪の毛は、不気味であるとともにどこか生々しいものだ。石原の今回の作品は、その「反転した感覚」をスキャニングした画像データの転写という手法で、再構成しようとするものだろう。そのことを踏まえて作品を見直すと、抽象的なパターンの画面が、にわかに血なまぐさく思えてきた。

2015/01/09(金)(飯沢耕太郎)