2019年09月15日号
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artscapeレビュー

石原友明展「透明人間から抜け落ちた髪の透明さ」

2015年02月15日号

会期:2014/11/29~2015/01/18

MEM[東京都]

デジタル化の進行により「写真」と「写真ならざるもの」との境界が溶解しつつある。石原友明の新作展に展示された6点の作品は、白いジェッソの下地を塗ったキャンバスに、重なり合った曲線が描かれたドローイングに見える。ところが、それらは「作家自身の毛髪を集めてスキャニングしたものをベクタ形式のデータに変換(数値化)して、平面作品として構成したもの、つまりセルフポートレート」なのだという。たしかにそれらをよく見れば、データ化された髪の毛の画像を微妙にずらして「特殊なインク」でプリントしたものであることがわかる。ただし、これを「写真」と見るにはかなりの違和感がある。カメラやレンズを媒介することなく、「スキャニング」によって直接転写された画像だからだ。だが、明らかに手描きのドローイングでもない。このような宙づりのイメージが提示されると、観客としては戸惑いと居心地の悪さを感じざるを得ない。
だが、石原がかつて発表した小説「美術館で、盲人と、透明人間とが、出会ったと、せよ」(1993年)で、髪の毛についてユニークな見解を打ち出していたことを知ると、一見素っ気ない画面が違って見えてくる。石原の記述では、透明人間になった自分から髪の毛が抜けて床に落ちると「徐々に透明では無くなって」いく。さらに「死んで、もはや自分の一部ではなくなってしまった髪の毛を見つめると、なぜかそれこそが自分自身の生きたからだを眼前するかのような反転した感覚」が生じてくるというのだ。この感覚は、たしかに身に覚えがあるもので、抜け落ちた髪の毛は、不気味であるとともにどこか生々しいものだ。石原の今回の作品は、その「反転した感覚」をスキャニングした画像データの転写という手法で、再構成しようとするものだろう。そのことを踏まえて作品を見直すと、抽象的なパターンの画面が、にわかに血なまぐさく思えてきた。

2015/01/09(金)(飯沢耕太郎)

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