artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

岡田敦「MOTHER」

会期:2014/11/08~2014/11/30

Bギャラリー[東京都]

岡田敦の新宿・Bギャラリーでの写真展を見て、写真作品の教育的な意味ということについて考えた。今回の展示作品は、2008年に撮影されたもので、一人の女性の出産の場面を克明に追い続けている。赤ん坊が妊婦の産道を通って、生まれてくる過程は、普通はなかなか見ることができないものだ。血と羊水にまみれて産声をあげる生々しいその姿に、思わず目をそむける人もいるだろう。だがアーティストの中には、人間の誕生と死の場面を、タブーとして覆い隠しておくことに疑問を持つ者もいる。岡田もその一人であり、今回の写真展と柏鱸舎からの同名の写真集の刊行は、果敢なチャレンジといえる。
特に若い世代の観客にとって、このような場面を目にすることは、大事な“学び”の機会になるのではないだろうか。実際に、岡田は早稲田大学で開催された講演会で、このシリーズを学生たちに見せたのだという。その時の反応の一部が、写真展のリーフレットに再録してあった。それらを読むと、学生たちが出産の場面を「自分が生きている世界に、現実に、本当に起こっているのはこういうことなんだなと感じた」、「生を通して死を考えてしまいました」などと、真剣に、ポジティブに受けとめていることがよくわかる。それはまさに写真の教育的効果というべきではないだろうか。
展覧会の会場構成について、やや疑問が残ったことがある。スペースの関係で、写真集に収録した写真を全部見せるのはむずかしいので、画像をモニターでスライドショーの形で流していた。そのことが、プリントのインパクトを弱めてしまっているように感じた。さらに、おそらく同じ女性モデルの写真と思われる、写真集に未収録のヌード写真が何点か展示されていた。それらが「MOTHER」シリーズとどのように関わっているのかが、すっきりと見えてこない。今回は展示も単純に出産の場面だけに絞った方がよかったのではないだろうか。

2014/11/11(火)(飯沢耕太郎)

インベカヲリ★「始まりに向けての青」

会期:2014/10/29~2014/11/10

ABG(AMERICA-BASHI GALLERY)[東京都]

2013年刊行の「やっぱ月帰るわ、私。」(赤々舎)で、目覚ましい成果を披露したインベカヲリ★が、新作13点を発表した。といっても、身近な女性モデルたちがそれぞれの思いを吐露するようなパフォーマンスを展開し、インベがそれを記録していくという作品のスタイルは前作をそのまま踏襲している。展覧会のタイトルが示すように、今回は次の「始まりに向けて」の助走という意味合いが強いのではないだろうか。
今回、彼女の作品を見てあらためて感じたのは、被写体となる女性たちのバックグラウンド、そして彼女たちがなぜそのようなパフォーマンスをしているのかが、写真を見ているだけではなかなか伝わりにくいということだ。1点1点の作品には、タイトルがついているのだが、ややひねりを効かせたものが多く、やはりそのあたりクリアーには見えてこない。たとえば、今回の展示作品の中に「詩集からはじまる」というタイトルがついた、ゴミが一面にちらばっている部屋の中でポーズをとる少女の写真がある。そのタイトルの背景には、詩人だった祖父が祖母に詩集を送ったことから、バラバラになっていた一家が再会したという物語が隠されているようだ。
つまり、それぞれの写真に思いがけないストーリーが付随しているわけで、むしろそれらを明るみに出していった方がいいのではないかとも思った。写真とテキスト(むしろ小説に近い)をうまく組み合わせていくと、何か次の展開が見えてくるのではないだろうか。

2014/11/10(月)(飯沢耕太郎)

尾形一郎/尾形優「中華洋楼 Eclectic Chinese House」

会期:2014/11/05~2014/11/22

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

建築家でもある尾形一郎、尾形優の写真展示には、いつも工夫が凝らされている。今回ZEN FOTO GALLERYで発表されたシリーズのテーマは中国広東省の穀倉地帯に忽然と出現した、何とも奇妙な中洋折衷の建築群(洋楼)である。その互いに似通ってはいるが微妙に違うフォルムが増殖していく、映画セットのような人工性を強調するため、作品を大きさが異なるフレームに入れて床に並べる形で展示した。つまり、かなり大きな840×1050ミリのフレームから、その厚み分(40ミリ)ずつ小さくなっていって、最後は240×350ミリの小さなフレームになるのだが、それらが一つの箱に入れ子状におさまっていて、一点一点取りだして並べることができるようになっているのだ。(以下の動画を参照)

それだけではなく、今回は石灰を水で練った漆喰を塗布したシートに顔料を吹き付ける、フレスコ画の技法を用いてプリントしているのだという。その結果として、元の建物の風化したコンクリートの質感が実に丁寧に再現されていた。
今回の展示は、先に本欄で紹介した彼らの新著『私たちの「東京の家」』(羽鳥書店)の刊行記念展でもある。『私たちの「東京の家」』には「中華洋楼」だけではなく、メキシコの「ウルトラ・バロック」の教会、ナミビアの砂に埋もれかけたドイツ移民たちの住宅、ギリシャの白い箱形の鳩小屋などを撮影した写真とテキストもおさめられている。ということは、もしそれらの写真群の展示が実現したならば、今回と同様に相当に凝った仕掛けのインスタレーションになることは間違いないだろう。それはぜひ見てみたい。そろそろ美術館クラスの大きな会場での展示を考えてもいいのではないだろうか。

2014/11/08(土)(飯沢耕太郎)

Nerhol ATLAS

会期:2014/10/16~2014/11/20

IMA gallery[東京都]

2007年から活動しているNerholは、1980年生まれの田中善久と81年生まれの飯田竜太のアートユニット。彼らのポートレート作品は、出版物では見たことがあるが、実物は今回の展示で初めて見た。既に彼らの手法──被写体に200回シャッターを切って撮影した写真のプリントを、カッターで少しずつずらして切って貼り合わせ、厚みのある立体物を作る──については知識があるわけで、それを踏まえつつ作品がどう見えてくるかに興味があった。
結論からいえば、手法がどうしても最初に目についてくるこの種の作品の例に漏れず、その核心になかなか入り込めないもどかしさを感じた。人間の”顔”は、いうまでもなくとても心そそられるテーマであり、多くのアーティストたちがその謎解きに取り組んできた。Nerholの試みも、むろんその一つなのだが、2012~13年に開催された各展覧会に出品した作品を再構成し、「ATLAS」と題する書物の形で提示した今回の展示を見ても、カットアウトの繊細な手さばきと、”顔”の歪みのオプティカルな視覚的効果の面白さ以上のものは感じとれなかったのだ。
被写体に選ばれているのが、若い世代の日本人、外国人の男女だけという所に、“顔”につきまとう異様さ、異常性のファクターをできるだけ押さえて、むしろ平静な日常の“顔”を分析的に見直していこうという志向性を見ることができる。その結果として、彼らの「ATLAS」は、平板で退屈な印象を与えるものとなった。それこそが現代の“顔”なのだという反論が予想できるが、Nerholに限らず、このところ平均化、標準化の状況にすんなりおさまってしまうような作品が、多すぎる気もしないではない。人間の“顔”というのはこの程度のものなのだろうかと、無い物ねだりをしてみたくなる。

2014/11/07(金)(飯沢耕太郎)

山本渉「欲望の形──器の濃き影」

会期:2014/10/31~2014/12/07

NADiff Gallery[東京都]

山本渉の「欲望の形──器の濃き影」のシリーズは、ぜひ写真集の形で見てみたいと思っていたのだが、今回のNADiff Galleryでの展示にあわせて、小冊子ではあるがそれが実現した。見れば見るほど、なかなか味わい深いシリーズだと思う。
被写体になっているのは男性の自慰用の器具で、「オナホール」という身も蓋もない名前で呼ばれている。山本はその内部に石膏を流し込んで型取りし、黒バックのモノクロームで撮影した。結果として、そこにあらわれてきたのは、何とも奇妙なフォルムを持つ物体だった。あるものは植物的な(ドイツのカール・ブロスフェルトの『芸術の原型』を思わせる)、あるものはねじ釘状のメカニックな形態をとり、中にはアニメのキャラクターのフィギュアを象ったものまであるという。まさに「欲望の形」そのものだが、普通は触覚によってしか味わうことができないその形状を、ネガをポジに逆転するような発想で見事に視覚化した所に、山本の卓抜なアイディアが活きていると思う。
展示は小ぶりなフレーム入りのプリント(25・4×20・3cm)が14点並んでいるだけなので、いささか物足りない。もう少し数が増えれば、タイポロジー的な比較も可能になるし、写真の大きさも「等身大」にこだわることはなかったのではないだろうか。「欲望の形」というテーマも、「オナホール」だけに限定するのはもったいない気がする。もっといろいろな対象物に広げていけるのではないだろうか。

2014/11/07(金)(飯沢耕太郎)