artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

倉谷拓朴「Last Portrait Project」

会期:2014/06/28~2014/07/21

川崎市市民ミュージアム 1階 逍遥展示空間[神奈川県]

倉谷拓朴は2003年に東京綜合写真専門学校卒業後、横浜・黄金町にアートスペースmujikoboを開設したり、越後妻有アートトリエンナーレで「Last Portrait Project」や「名ヶ山写真館」といった企画を立ち上げたりするなど、意欲的な活動を行なってきた。今回川崎市市民ミュージアムで開催されたのは、2006年からさまざまな場所で展開されてきた、遺影写真の撮影・展示のプロジェクトである。
葬儀の席や仏壇などに掲げられる故人のポートレート(遺影写真)は、死者の記憶を共有し、後世に伝えるために重要な役目を果たしてきた。ただ、アルバムなどに貼られていた写真を複写して使うこともあり、クオリティ的には問題が多い。倉谷は、あえて生前に思いを込めてポートレートを撮影してもらうことで、遺影写真の新たな形式を模索しようとしている。これまで撮影された「Last Portrait」は、既に1000枚以上に達しているという。
倉谷はその撮影のために独自のマニュアルを作成した。カメラのレンズを見て静かに目を閉じ、気持ちが落ち着いた所で目を開ける。その瞬間にシャッターを切るというものである。目をつぶることで内省的な気分が生じ、その人物の「原型」とでもいうべき存在のあり方が滲み出てくるということだろう。たしかに、会場に展示されていた作品には、長く遺していくべき「Last Portrait」にふさわしい、威厳のある表情や身振りが写り込んでいるように思える。また、今回はモデルを募集し、7月6日、20日、21日の3回にわたって、実際に8×10インチの大判カメラでポートレートを撮影するというイベントも行なわれた(毎回10人)。このプロジェクトは、これから先も厚みを増しつつ、続いていくのだろう。それが最終的にどんな形をとっていくのかが楽しみだ。

2014/07/08(火)(飯沢耕太郎)

林典子『キルギスの誘拐結婚』

発行所:日経ナショナルジオグラフィック社

発行日:2014年06月16日

東日本大震災以降、フォトジャーナリズムの世界にも新しい風が吹きはじめているように思う。スイスの出版社から『RESET─BEYOND FUKUSHIMA 福島の彼方に』(Lars Müller Publishers)を刊行した小原一真、チェルノブイリ、北朝鮮、タイ、チュニジアなどを含む2011年の行動記録を写真文集『2011』(VNC)にまとめた菱田雄介らとともに、林典子もその担い手の一人である。彼らに共通しているのは、海外メディアのネットワークを幅広く活用していく行動力に加えて、ある出来事のクライマックスを短時間で撮影して済ませるのではなく、「その後」を粘り強く、何度も現地を訪れてフォローしていることだろう。そのことによって、一つの解釈におさまることのない、柔らかな広がりを持つ視点が確保されているのではないかと思う。
林はアメリカの大学に留学中の2006年に、西アフリカのガンビアで、地元の新聞社の記者たちの同行取材をしたのをきっかけにして、フリーの写真家への道をめざすようになる。その後、カンボジアでのHIV患者、パキスタンでの顔に硫酸をかけられて大火傷を負った女性たちの撮影・取材を経て、2012年7月から中央アジア、キルギスで「誘拐結婚」の撮影を開始した。友人たちと共謀して、目をつけた女性を無理やり自分の家に連れ込み、結婚を迫るという「誘拐結婚」は、キルギスの伝統的な慣習と思われがちだが、暴力的な要素が強まったのは、旧ソ連の統治時代以降のことだという。
林は、「誘拐結婚」を企てていた男性と偶然遭遇し、そのことによって現場を密着取材することができた。その緊迫した場面をとらえた写真群は、むろん素晴らしい出来栄えだが、むしろさまざまな「誘拐結婚」のさまざま形(幸せに暮らしている老夫婦もいる)を、細やかに紹介することに配慮している。あくまでも女性の視点に立ち、被写体となる人たちとの個人的な関係を起点としていく撮影のやり方は、フォトジャーナリズムの未来と可能性をさし示すものといえる。

2014/07/03(木)(飯沢耕太郎)

北井一夫「道」

会期:2014/07/02~2014/07/26

禪フォトギャラリー[東京都]

『日本カメラ』に2005~13年にかけて連載されていた「ライカで散歩」のシリーズから、「道」の写真をピックアップした展示である。中心になっているのは、東日本大震災の後の2011年5月から、岩手、宮城、福島などの沿岸部に10回ほど出かけて撮影したもので、普通の道だけではなく、積み上げられた瓦礫の横に、あたかも「けもの道」のように誰かが踏み固めてできた道なども写している。津波によってすべてが押し流された後にも、道は残る、あるいは新たに道ができていく。そのことが、北井の中にあったもう一つの道のイメージを引き出してきた。それは、彼の原記憶というべき旧満州からの引き揚げの時に見たはずの眺めで(赤ん坊だった彼が、実際には覚えているはずはないのだが)、そのことを確認するために中国での撮影を試みた。それが今回の展示のもう一つの柱である「大連発鞍山」の写真群である。

北井が母の背に結わえられて引き揚げてきた時に使ったという、父親の帯の写真なども含む、この「大連発鞍山」の写真が加わることで、何かと何かを結びつけ、繋いでいく「道」の役割がより明確になった。東北の道は中国へと続いていたわけだ。だが、最初からこんな風に構成しようと考えていたわけではなく、写真を選んでプリントしているうちに全体の構想が固まってきたのだという。まさに、道を歩きながら考えていくようなこの作品の成立のあり方は、自然体で澱みがないだけではなく、強い説得力を備えていると思う。

2014/07/02(水)(飯沢耕太郎)

津田直「On the Mountain Path」

会期:2014/06/27~2014/08/23

Gallery 916[東京都]

津田直の今回の個展に展示されたのは、「NOAH」、「REBORN (Scene3)」,「Puhu nin Amukaw」の3シリーズ、42点。「NOAH」はスイス・ヴァレー州の山中に張り巡らされた水路と、それを保全、管理する人々を追う。「REBORN (Scene3)」はここ数年通い詰めているブータンで、氷河が溶けてできたU字峡谷を、馬11頭を連ねて行く旅の途上の眺めである。新作の「Puhu nin Amukaw」では、1991年のピナトゥポ火山の大爆発で、火山灰に覆われた地域を撮影している。そこに最初に育つのが野生のバナナで、「Puhu nin Amukaw」というのは現地のアエタ族の言葉で「バナナの心」という意味だという。3シリーズに直接的な関連はないが、タイトルが示すように「山道」を辿るフィールドワークの産物というのが共通している。例によって、的確な写真の選択と配置によって、見る者を「眼差しの旅」へと誘っていく。

ちょっと気になったのは、津田の表現の落ち着き払った安定感だ。それはむろん、写真家=フィールドワーカーとしての自分の仕事に揺るぎない確信を抱いているということなのだが、破綻のない展示構成にはやや物足りないものも感じた。一年の大部分を旅の時間に委ねるという彼の仕事のやり方は、たしかに目覚ましいものではあるが、そろそろそれらを繋ぎとめていく、強く、太い原理を提示していく時期に来ているのではないだろうか。写真と言語の両方の領域で、津田にはその力が充分に備わっているはずだ。

なお、同時期に東京・六本木のタカ・イシイ・ギャラリー・モダンでは「REBORN(Scene2)」展が開催された。ブータンのシリーズのプラチナ・プリント・ヴァージョン(モノクローム)だが、あまり必然性は感じられなかった。

2014/07/02(水)(飯沢耕太郎)

岸幸太「もの、せまる」

会期:2014/06/13~2014/07/06

photographers' gallery[東京都]

岸幸太の今回の展示は、大阪・西成地区で採集した「もの」を大伸ばしした5点のモノクロームプリント。バナナの皮、訳の分からない金具と小銭、段ボール箱、「南部鉄器 文鎮」と記されたパッケージなどが、地面に落ちている様をクローズアップで撮影している。どうということのない「もの」たちの来歴が、じわじわと滲み出てくるように感じる。隣接するKULA PHOTO GALLERYでは、同時期に撮影された大量の「もの」の画像を、スライドショーで上映していた。
だが、メインの展示以上に面白かったのは、会場に置かれていた『GAREKI Heart Mother』と名づけられたポートフォリオ・ブックの方だった。岸は2013年3月から9月にかけて5回ほど、福島県楢葉町、浪江町、南相馬市の海岸に出かけ、そこに落ちていた瓦礫を拾い集めて、奇妙なオブジェを作り上げて撮影した。木切れ、網、布、プラスチック製品、ぬいぐるみなどが、危なっかしいバランスを保って積み上げられている。『GAREKI Heart Mother』というネーミングは、いうまでもなくピンク・フロイドの「原子心母」(Atom Heart Mother)から来ている。これも原発事故の現場に近い場所にふさわしいものだ。
ある場所で見出された「もの」を、その場で作品化して、撮影するというサイトスペシフィックな行為は、批評性を含み込むだけではなく、何が出てくるのかわからない面白さがある。岸が次に同じ場所に行ってみると、以前作ったオブジェが半ば崩壊していることが多かった。その状態のまま、あるいは作り直して撮影する場合もあったという。実は2014年3月10日~20日に、実際にオブジェを再現したインスタレーションをphotographers' galleryで展示したこともあった。だが、それはやや意味合いが違ってくる気がする。この作品においては、いつの間にかでき上がっていては消えていくという、「はかなさ」がむしろ重要なのではないだろうか。

2014/06/25(水)(飯沢耕太郎)