artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
内藤礼/畠山直哉「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」
会期:2014/04/04~2014/05/31
GALLERY KOYANAGI[東京都]
内藤礼が2013年に広島県立美術館で展示した「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」は、彼女が初めて「原爆」というテーマに取り組んだ作品である。その展示の様子を畠山直哉が撮影した。アーティスト同士の、心そそられるコラボレーションと言える。
内藤の作品は、弧を描いて吊り下げられた灯りの下にひっそりと置かれていた。広島平和記念資料館が所蔵する17個の「被爆したガラス瓶」の横に、17人の「ひと」がたたずむ。原爆の熱で溶解したガラス瓶も、木を人形のようにカービングしてアクリル絵の具で彩色した「ひと」の姿もとても小さい。その祈りを込めて丁寧につくり込んだ小さな造形が、いかにも内藤の作品らしく、愛らしいけれども、ぴんと張りつめた佇まいだ。ほかに透明なガラス容器に、生命力を暗示するかのような黄色い花を挿したオブジェも並べてあった。
畠山の撮影の仕方も、内藤の作品の繊細さに合わせるように、ごく控えめなものだ。全体の姿を捉えた写真のほかに、1点、あるいは2点のオブジェをクローズアップで撮影したカットがあるのだが、観客との無言の対話を引き出すようなアングルが注意深く選ばれている。ガラス瓶の鉱物的な質感を、どちらかと言えば有機的な柔らかい感触に置き換えているのがとても効果的だと思う。確か以前にも何度か、内藤のインスタレーションを畠山が撮影することがあったと記憶しているのだが、ぜひそれらをまとめた「写真集」も見てみたい。
2014/04/09(水)(飯沢耕太郎)
張照堂「身体と風景 BODY AND SCENES 1962-1985」
会期:2014/04/02~2014/04/26
禪フォトギャラリー[東京都]
張照堂(シャン・シャオタン 1943~)は、台湾だけでなくアジアを代表する写真家のひとりと言える。15歳で兄の二眼レフカメラを借りて撮影を開始し、1965年に高校時代からの写真の師であった鄭桑渓とともに開催した「現代攝影雙人展」は、台湾写真界を震撼させた。首のない人物像(セルフポートレート)、ピンぼけとハイコントラストの画像、白塗りの人物を配した演劇的な場面──実存的な問いかけと閉塞的な社会状況に対する鋭い批判を含み込んだ、彼の挑発的な写真群は、穏当なサロン写真が中心だった台湾ではほとんど見ることがなかった種類のものだったからだ。
張はその後、テレビ局に勤めてドキュメンタリー番組を制作しながら、写真家としても実験作、問題作を次々に発表していく。今回の禪フォトギャラリーの個展では、1960年代~80年代の代表作17点が展示されるとともに、折りに触れて撮影していた断片的なヴィデオ映像を再編集した「人生路上」が上映された。写真を通じて人間存在の根源、個と社会との関係を問い直す張の営みは、確かに独力で成し遂げられたものだが、アメリカのウィリアム・クライン、オランダのエド・ファン・デル・エルスケン、また日本のVIVOの写真家たち(東松照明、細江英公、川田喜久治ら)の作品との共通性を感じる。また1970年以降の、よりドキュメンタリーとしての意識が強まった「社会記憶」のシリーズは、ジョセフ・クーデルカがチェコスロバキア亡命後に撮影した「エグザイルズ」を思い起こさせる。これもまた、同時代の優れた写真家たちが、見えない絆で結びついていることを示す事例と言えるだろう。
なお同時期にギャラリー冬青では、張の初期作品を集成した「少年心影 Images of Youth(1959-1961)」展(4月4日~26日)が、PLACE Mでは近作による「その前&その後 Before & After」展(4月7日~20日)が開催された。特にPLACE Mで展示された「夢遊──遠行前」と「台湾──核災後」の2作品は注目に値する。デジカメやiPhoneでの撮影に果敢に挑戦し、反原発運動に積極的に加担していこうとする姿勢は、彼が70歳を超えてなおも反骨精神の塊なのをよく示している。
2014/04/05(土)(飯沢耕太郎)
橋本照嵩「瞽女」
会期:2014/03/14~2014/04/12
ツァイト・フォト・サロン[東京都]
若い世代にとって「瞽女(ごぜ)」はすでに死語に近い言葉だろう。中世以来、三味線を弾きながら歌をうたい、家々を回って門付をしながら旅を続ける盲目の女性たちがいた。明治以降の近代化によって、ほとんど廃れていたのだが、戦後も新潟県の高田や長岡に細々とその伝統芸を守り続ける「瞽女」たちが残っていた。ところが、高度経済成長が一段落すると、「瞽女」の存在はある種の郷愁と畏敬を持って語られ、描かれるようになっていく。
だが、橋本照嵩が1970~74年に撮影し、『アサヒグラフ』誌上での発表などを経て1974年に写真集『瞽女』にまとめた写真群は、画家の齋藤真一の油彩画や水上勉の『はなれ瞽女おりん』(1975)など、いわゆる「瞽女」ブームを生み出した作品とは一線を画するものではないかと思う。3年以上の歳月を、時には「男手引き」として瞽女たちを先導しながら歩き続け、撮り続けた写真群は、雪国を放浪する彼女たちの生の厳しさを余すところなく伝えてくれるからだ。
今回のツァイト・フォト・サロンでの展示は、1970年代のヴィンテージ・プリント36点によるもので、モノクローム印画のざらついた粒子と、白黒のコントラストが、時代の気分をよく反映している。ロマンティシズムのかけらもないそれらのプリントを見ながら思い出したのは、ほぼ同時期に撮影されたジョセフ・クーデルカの「ジプシーズ」だった。両者ともかなり広角気味のレンズを使っていることもその理由のひとつなのだが、チェコスロバキアと日本で同時発生的に同質の表現が形をとっていったことが、とても興味深い。
2014/04/03(木)(飯沢耕太郎)
武田陽介「Stay Gold」
会期:2014/03/22~2014/04/19
タカ・イシイギャラリー[東京都]
単なるセンスのよさというだけではなく、スケール感と未知なる可能性を併せ持った若手写真家が登場してきた。東京・清澄白河のタカ・イシイギャラリーだけでなく、タカ・イシイギャラリーモダン(3月26日〜4月19日)、空蓮房(3月26日〜4月25日)、TRAUMARIS|SPACE(3月26日〜4月27日)でもほぼ同時期に個展が開催されたということからも、1982年愛知県生まれの武田への期待度の大きさがわかる。
「代表作14点」が展示されたタカ・イシイギャラリーの「Stay Gold」展と、SUPER LABOから刊行された同名の写真集を見る限り、武田には特定のスタイル、テーマというようなものはない。デジタルカメラを太陽に向けて撮影して光の滲みを捉えた「デジタル・フレアー」のシリーズが、作品のサイズの大きさからいっても目につくが、プリント用紙の地色(白)を強調して電線を撮影した抽象的な作品、金環日食と金星太陽面通過の「天体写真」、シロクマの剥製のような「曖昧な状況」にカメラを向けたスナップショットなどもある。とりとめないと言えばそれまでだが、彼にとっての現実世界のあり方を、さまざまな方向に触手を伸ばしてトータルに捉えようとすることは決して間違ってはいない。日本では久しく現われてこなかった「全体写真家」となる可能性を秘めているとも言える。
ただこれから先、彼の作品世界が、多くの人々に夢と希望を与えていくような強度を持ちうるかどうかと言えば、もう少し様子を見なければわからないだろう。現時点での彼の持ち味と言える品のよさ、お行儀のよさをかなぐり捨て、もう少し感情や欲望をストレートに打ち出していってもいいのではないだろうか。ヴォルフガング・ティルマンスの「コンコルド」のように、「これが本当に好きなんだ!」と手放しで納得できるような写真を見せてほしいものだ。
Yosuke Takeda, "144540", 2014, Light jet print
© Yosuke Takeda / Courtesy of Taka Ishii Gallery, Tokyo
2014/04/03(木)(飯沢耕太郎)
シャルル・フレジェ「WILDER MANN」
会期:2014/03/15~2014/04/13
MEM[東京都]
「WILDER MANN(ヴィルダーマン)」はドイツ語で、英語では「WILD MAN(ワイルドマン)」、フランス語では「HOMME SAUVAGE(オムソバージュ)」と称する。冬から春にかけて、ヨーロッパ各地の村では死と復活(再生)をテーマとする民間行事が行なわれるが、そこに登場してくる山羊、熊、鹿などの動物を模した仮面、衣裳を身に着けた者たちが「WILDER MANN」なのだ。フランスの写真家、シャルル・フレジェは、2010年頃からオーストリア、イタリア、フランス、ルーマニアなどの、主に山岳地帯にある村々を訪ね、それら「獣人」たちのポートレートを撮影していった。本展は、その成果をまとめた写真集『WILDER MANN──欧州の獣人 仮装する原始の名残』(青幻舎)の刊行を機に開催されたもので、同シリーズから23点の写真が展示された。
「WILDER MANN」の姿はどことなく懐かしい。東北地方や沖縄の民間行事や宗教儀礼に登場する「カミ」や「オニ」たちにそっくりの仮装をしている場合が多いからだ。新国立美術館で開催中の「イメージの力──国立民族学博物館コレクションにさぐる」展を見たときも感じたのだが、文化と自然との境界領域に出現してくる存在を形象化するときの想像力は、世界中どんな場所でも共通しているということだろう。半分動物で半分人間という「WILDER MANN」は、その意味で普遍的なイメージであり、それらがまだヨーロッパでこれだけの生命力を保ち続けているということが、僕にとっては大きな驚きだった。
フレジェはあえて素朴な「記念写真」のスタイルで撮影することで、「WILDER MANN」たちが村の日常的な生活空間に溶け込んでいる様子を示している。その構えたところのないカメラワークが、逆にリアリティを生んでいると思う。
2014/04/01(火)(飯沢耕太郎)