artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

上田義彦「M. Sea」

会期:2014/01/21~2014/03/08

Gallery 916[東京都]

上田義彦の「Materia」シリーズも、森、川と続いて今回は海をテーマとしている。ピントを外した大画面の写真で「命の大元、Materia」を捉えるというもくろみは今回も貫かれているが、これまで以上に徹底したアプローチを見ることができた。10点の作品の画面の大部分は漆黒で、そこにほの白い飛沫と化した波と、岩のシルエットが微かに浮かび上がる。前にも指摘したことがあるが、上田のこのシリーズは被写体をMateria=物質として提示するあり方はむしろ希薄で、どちらかと言えば絵画性が強いように見えてしまう。だが、その方向性は、今回の作品で極限近くまで突き詰められている。19世紀~20世紀初頭のピクトリアリズムを志向する作品を巨大化した印象で、逆にその反時代的な姿勢が興味深かった。一点だけ、冬の日本海の荒海と岩礁を、ごく普通に撮影・プリントした写真が展示してあったが、その意図がよくつかめなかった。このままだと、他の作品の成り立ちを解説しているようにしか見えないからだ。
会場に併設するGallery 916 smallでは、同時に上田の新作「M. Venus」も展示されていた(5点)。こちらは「Materiaシリーズを撮り続ける中で私の網膜に時々出て来る遠い記憶の中の光景」である「森の中の女性」のイメージを再現した作品である。雪が降り積もる森の中に、赤いボートが置かれ、そこに金髪の裸体の女性の姿がぼんやりと浮かび上がる。その軽やかで官能的なイメージの飛翔が「M. Sea」とは対照的で、とても好ましいものに思えた。

2014/01/31(金)(飯沢耕太郎)

森山大道「終わらない旅 北/南」

会期:2014/01/23~2014/03/23

沖縄県立博物館・美術館 企画ギャラリー1・2[沖縄県]

沖縄県那覇市の沖縄県立博物館・美術館で開催された森山大道展は、まず総出品点数922点という数に度肝を抜かれた。もっとも、そのうち400点あまりは2002年刊行の写真集『新宿』(月曜社)の印刷原稿のプリントで、それらは4期に分けて展示された。それでも600点以上の作品が常時展示されるというのは、これまで開催された森山の写真展では最大規模だ。2012~13年のテート・モダン(イギリス・ロンドン)でもウィリアム・クラインとの二人展に見るように、彼の写真の影響力は海外にも広く浸透しつつある。その自信が隅々にまでみなぎった展示と言えるだろう。
展示は「起点」「犬の記憶」「破壊と創造」「光を求めて」「終わらない旅」の5部構成。名作がずらりと並ぶ前半部分も圧巻だが、今回の見所は最終章の「終わりのない旅」である。このパートは、展覧会のタイトルが示すように「北/南」、すなわち北海道と沖縄の写真で構成されている。北海道は写真表現の極限まで突き進んだ『写真よさようなら』(写真評論社、1972)刊行後の虚脱感を埋め合わせようと道内を彷徨して撮影した写真群、沖縄は1974年に「ワークショップ写真学校」のイベントのため東松照明、荒木経惟らと初めて沖縄を訪れた時に撮影した路上スナップが展示されている。それに加えて、どちらも最近撮影されたデジタル・カラー作品も並置してあった。つまり、「北/南」「モのクローム/カラー」という対立軸を設定することで、森山の作品世界を立体的に浮かび上がらせようというもくろみで、それはとてもうまくいっているのではないだろうか。森山大道の現在を見通すには、必見の展覧会と言えそうだ。

2014/01/30(木)(飯沢耕太郎)

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フォーラム 福島における写真の力

会期:2014/01/25

キッチンガーデンビル2階ゆいの庭[福島県]

東日本大震災の被災地でも、福島県は他の地域とはやや異なった状況にある。地震や津波の被害を受けた場所なら、復興に向けて着実に歩みを進めることが可能だ。だが、福島第一原子力発電所の大事故の後遺症は、癒されるどころかより深刻化している。除染、汚染水などの問題は解決の目処がまったくつかず、住人が帰ることのできない空白の地域がそのまま放置されているのだ。2012年に立ち上がった「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」は、福島県をアートを通じて再生させていこうという動きだが、その一環として写真家、映像作家、華道家らによって展開されてきたのが、福島写真美術館プロジェクト「福島を撮る・録る」である。その活動報告会が福島駅近くの会場で開催された。
まず福島県伊達市で育ち、2013年に「目に見えない」放射能汚染を可視化しようとする「Cesium」シリーズを発表した瀬戸正人と筆者による「クロストーク」があり、その後で「福島を撮る・録る」に参加したアーティストたちが活動の成果を報告した。「福島の自然と自分との距離」をテーマに撮影を続ける赤坂友昭(写真家)、縄文土器に現地で採った花をいける片桐功敦(華道家)、自分の足元を撮影した写真を繋ぎあわせて、津波で流出した家の土台を再構築する安田佐智種(美術家、ニューヨーク在住)、飯舘村の「田植え踊り」伝承しようとしている小学生たちを映像で記録した小野良昌(写真家、映像作家)、そして仮設住宅や幼稚園で写真撮影のワークショップを開催した今井紀彰(写真家)、吉野修(写真家、筑波大学准教授)、近田明奈(コーディネーター)による事業は、どれも彼らのユニークな視点を地域住人たちとの細やかな交流を通じて形にしていったものだ。
このような活動は、2~3年で終わってしまってはまったく意味がない。むしろ震災を契機に、福島を写真・現代美術の重要な拠点のひとつとして育て上げていくべきではないだろうか。

2014/01/25(土)(飯沢耕太郎)

ヴォルフガング・ティルマンス「Affinity」

会期:2014/01/18~2014/03/15

WAKO WORKS OF ART[東京都]

ヴォルフガング・ティルマンスが、1990年代以来、写真表現の最前線を切り拓いてきた作家であることは言うまでもない。彼の周囲の現実世界のすべてを等価に見渡し、撮影してプリントした、大小の写真を壁に撒き散らすように展示していく彼のスタイルは、世界中の写真家たちに影響を与えてきた。東京・六本木のWAKO WORKS OF ARTで開催された新作展を見て、その彼がさらに先へ進もうとしていることを明確に感じとることができた。ティルマンスはやはりただ者ではない。彼のスタイルは固定されたものではなく、時代とともに、そして彼自身のライフ・スタイルの変化にともなって、フレキシブルに変容しつつあるのだ。
2012年に刊行された2冊の写真集『FESPA Digital: FRUIT LOGISTICA』と『Neue Welt』に、すでにその変貌の兆候がはっきりと刻みつけられていた。ティルマンスは、これらの写真を撮影するためにデジタルカメラを使用し、プリントもデジタルのインクジェット・プリンターで行なうようになった。その結果として、写真の撮り方、選択、レイアウトもまた、デジタル的な表層性、多層性をより強く意識させるようになってきている。清水穣が「『デスクトップ・タイプ』レイアウト」と呼ぶ、この「プリントアウトされた写真がテーブルの上で重なり合っているような、いくつものウィンドーを開いたデスクトップの画面のような」レイアウトは、今回の壁面の展示でも多面的に展開されている。銀塩=アナログの時代にはなかった新たな視覚的経験を、貪欲に形にしていくティルマンスの創作のスピードに追いつくのはなかなか難しいが、せめて彼の写真集や写真展を「スタンダード」として見る視点を、日本の若い写真家たちも持つべきではないだろうか。

2014/01/22(水)(飯沢耕太郎)

今道子「RECENT WORKS」

会期:2014/01/08~2014/03/01

フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]

10年あまりの沈黙の時期を経て、2011年に銀座・巷房での個展で復活を遂げてからの今道子の作品世界は、以前とはやや違った雰囲気を醸し出している。彼女のトレードマークというべき魚、鶏、野菜、果物等の「食べ物」を素材に、奇妙にリアルな手触りを備えたオブジェをつくり上げて撮影するスタイルに変化はない。だが、以前の作品に見られた、自らの特異な生理感覚を前面に押し出し、やや神経質に思えるほどにマニエリスム的な画面構成に執着する傾向は、少しずつ薄れてきているのではないだろうか。
今回のフォト・ギャラリー・インターナショナル(P.G.I)での個展に出品された「RECENT WORKS」(主に2013年に撮影)を見ると、どこかゆったりとした、のびやかな空気感が漂っているのを感じる。彼女の精神的な余裕、あるいは写真作家として長年培ってきた自信が、作品にほのぼのとしたユーモアをもたらしているのかもしれない。「白うさぎと目」のような作品は、不気味であるとともに実に愛らしくて、思わず笑ってしまうほどだ。といっても、決して手を抜いているわけではなく「骨のワンピース」のような大作では、エアブラシで絵の具を吹き付けて背景の布にタケノコの形を浮かび上がらせるといった工夫も凝らしている。
これらの新作も、そろそろ展覧会や写真集にまとめる時期に来ているのではないだろうか。1980年代以来の作品を、まとめて見ることができるような機会をぜひ実現してほしい。どこかの美術館に、ぜひ手を挙げていただきたいものだ。

2014/01/21(火)(飯沢耕太郎)