artscapeレビュー
建築に関するレビュー/プレビュー
徳島市と神山町の建築
[徳島県]
徳島市の中心部では、いくつかの建築をまわったが、あまり知られていない近代の《三河家住宅》(1928)が抜群に面白い。ドイツに留学した医者が、現地で同郷の木内豊次郎と知り合い、帰国後につくった家である。鉄筋コンクリート造の住宅としてかなり早い事例だが、古典主義の独特な解釈、表現主義風のモチーフ、ガーゴイルなどさまざまな要素を組み合わせ、しかも日本ではめずらしいグロッタ風のでかい岩屋まで付いて、きわめて個性的な造形だった。同市では、他にも列柱とアーチを反復する《旧第一勧業銀行徳島支店》(1929)、安藤忠雄らしい《WITHビル》(1985)、西山卯三によるやや大味の《あわぎんホール(徳島県郷土文化会館)》(1971)などがある。また川辺の空間が整備されており、鈴木禎次による《国際東船場113ビル》(1932)のリノベーションもうまく接続していた。見るべき現代建築は少ないように思われたが、むしろ市内から自動車で約40分ほどの距離にある山間部の神山町に2010年代から新しいタイプのプロジェクトが次々と登場している。
以前、名古屋で中華を食べていたら、後の席にいるサラリーマンが話題にしていたのが聞こえてきた。そのくらい、すでに神山町の試みは有名だろう。アーティストのレジデンスを契機に街づくりが動きだし、IT系の企業のサテライト・オフィスが設置され、都会からの新規の移住者も増えている。長屋の一角を改修した《ブルーベアオフィス神山》(2010)、元裁縫工場の《神山バレー・サテライトオフィス・コンプレックス》(2012)、民家を改造した《えんがわオフィス》(2013)、宿泊施設の《WEEK神山》(2015)など、若手のバスアーキテクツ(後にBUSと改名)が設計に関わり、彼らの活動は第15回 ヴェネチア・ビエンナーレ 国際建築展(2016)の日本館でも紹介された。BUS以外の建築もあり、例えば、神山町のあす環境デザイン共同企業体による《神山町大埜地の集合住宅》(2021)は、移住者の受け入れを行なう。なお、地産の食材を使うレストランのかま屋(2017)は、しだれ桜でも知られる神山町の花見のシーズンだったとはいえ、事前予約がなければ入店できないほど混んでいたが、確かにランチは美味かった。
2022/04/03(日)(五十嵐太郎)
鳴門市の増田友也建築群
[徳島県]
昨年開催された京都大学総合博物館の「増田友也の建築世界─アーカイブズにみる思索の軌跡」展で、徳島県の鳴門市に彼の作品が集中していることを初めて知って、訪れた。せいぜい数件を見学できればいいと思っていたが、保存運動に携わる現地の建築家、福田頼人と谷紀明による案内のおかげで、効率的にまわり、なんと現存する18作品すべてに立ち寄った。もっとも、いくつかの学校や幼稚園が廃校となっていたこともあり、外観のみ、もしくは窓から室内をのぞくといったケースがほとんどだったからこそ、これだけの数を稼ぐことができた。内部空間にも入ることができたのは、たまたまイベントをやっていた《島田小学校・幼稚園》(1981)と、校庭がいちご狩り農園とカフェに転用された《北灘西小学校》(1977)などである。ともあれ、ファサードだけ見映えを整える近年の安普請の建築と違い、いずれも立体的な造形として、密度の高いモダニズムの建築を実現し、豊かな空間の体験がつくられていたことには感心させられた。正直、増田は京都大学の難しい建築哲学の人という印象だったが、子どもにやさしい空間であるというギャップにも驚いた。
学校は各地に点在しているが、建築が相互に対話する《勤労青少年ホーム》(1975)、《老人福祉センター》(1977)、《文化会館》(1982)、あるいはブリッジでつながれた《鳴門市庁舎》(1963)と《共済会館》(1973)は、都心において有機的に関連する建築群となっていた。残念ながら、後者と連結していた《鳴門市民会館》(1961)は、近年解体されたが(跡地に内藤廣による建築が完成する予定)、まさに群として都市建築が構想されたことは、デザインが単体になりがちな日本において貴重な事例だろう。鳴門市では、小学校と幼稚園がセットで建設されるケースが多いことも興味深い。開口、ブリーズ・ソレイユ、トップライトなど、増田のデザインには、ル・コルビュジエの影響を指摘できるが、都市建築的な展開は、四国のチャンディガールというべきプロジェクトである。おそらく、開発の圧力が少ない地方都市ゆえに、まだ19作品のうち18作品も残っている状況も特筆すべきだ。鳴門市では、越後妻有や瀬戸内のような芸術祭はないが、廃校を宿泊施設に変えるなど、リノベーションによって活用されることが望まれる。
関連レビュー
増田友也の世界─アーカイブズにみる思索の軌跡|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2021年12月15日号)
2022/04/02(土)(五十嵐太郎)
吉阪隆正展 ひげから地球へ、パノラみる
会期:2022/03/19~2022/06/19
東京都現代美術館[東京都]
ル・コルビュジエには日本人の弟子が3人いたとされる。前川國男、坂倉準三、そして吉阪隆正だ。3人のうち一番年下の吉阪は、前川や坂倉と比べるとそれほど著名な方ではない。正直、私も名前くらいしか知らない程度であった。本展はそんな吉阪の活動全般に触れる「公立美術館では初の展覧会」だ。しかしタイトルが非常にユニークで親しみ深く、「ひげから地球へ、パノラみる」である。確かに吉阪のポートレートを見ると、妙に長い顎ひげが目を引く。これを自身の表象かつ等身大スケールとして捉えていたという解説が面白く、言わばひげも吉阪にとって「モデュロール」の一環だったのか! と思うと微笑ましくなった。
さらに本展を観ていくうちに、建築を中心としながら民俗調査、教育、登山、探検・紀行、都市計画など、領域横断的な活動に精力的に取り組んできた生き様に好感が持てた。自身の体験をとても大切にし、それを根幹にして表現してきた人なのではないかと思う。逆に言えば「頭でっかち」な態度や、「机上の空論」を打つことを絶対にしなかった人ではないか。何しろ幼少期に家族と共にスイスで暮らし、青年期にフランスに留学し、さらに壮年期にはアフリカ大陸横断や北米大陸横断、2年間のアルゼンチン赴任を成し遂げるなど、吉阪の並々ならぬ経歴や行動力には驚く。20世紀初頭〜半ばの時代背景を考えればなおさらだ。このように自らの足で地球を駆け巡った体験が、俯瞰的にものを「パノラみる」姿勢や、地球規模でものを考える力へと帰着したのだろう。これは多様性やSDGsが問われる現代においても重要な視点で、巡り巡って、吉阪に時代が追いついたと言えるだろう。
本展にはさまざまな見どころがあったが、特筆すべきは吉阪の活動拠点だった《吉阪自邸》の断面図がなんと1/1サイズで壁面に描かれていたことだ。併せて吉阪自身の等身大パネルも添えられていた。ル・コルビュジエが掲げた近代建築の五原則のひとつ「ピロティ」を実践し、「大地は万人のものだ」という思想のもと、当時、1階の庭部分を周囲の人々に開放したという試みにもやはり好感が持てる。吉阪は真の意味でのコスモポリタンだったのだ。改めて、吉阪隆正という人間味あふれる建築家に興味を抱いた。
公式サイト:https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/takamasa-yosizaka/
2022/03/23(水)(杉江あこ)
石巻の震災遺構
[宮城県]
石巻工房のショールームでもあるが、宿泊も可能な《石巻ホームベース》(2020)にて、トラフ建築設計事務所がデザインした部屋で一泊した(ここはデッキの方が部屋より広い)。共有部の広い吹き抜けはカフェを併設しており、気持ちが良い空間である。近郊では、コンビニを教会(!)にリノベーションした《石巻オアシス教会》(2016)を発見したが、これはめずらしい事例だろう。続いて、《マルホンまきあーとテラス》(2021)を再訪した。これは復興建築としても画期的なデザインだが、藤本壮介の国内の代表作になるだろう。昨年の訪問時はまだオープン前だった博物館の見学が、今回の目的である(ちなみに、公式HPの表記は、いまも「準備中」という誤解を招くのが気になった。実際は博物館のネット用のコンテンツが準備中という意味なのだが)。宮城県美術館などで文化財レスキューが行なわれた後、石巻に戻ってきた高橋英吉の彫刻群や、アナログ的な時層地図の展示の仕かけが印象に残った。
昨年はコロナ禍で入れなかった、《みやぎ東日本大震災津波伝承館》(2021)をようやく見学することができた。建築は津波の高さや被災の時刻をデザインに組み込んだものだが、プログラムとの齟齬、後から別のコンテンツが割り込んだこと、あれだけの大災害なのに絶対的に面積が少ない、全体的に内容が薄い、明るすぎて導入の映像が見えにくいなど、やはり展示については問題が多い。ボランティアの案内が貴重な話をしてくれるのが、せめてもの救いだった。向かいの門脇小学校も、震災遺構として整備が終わっていた(4月から一般公開)。震災遺構・大川小学校とその伝承館(デザインはAL建築設計事務所らが担当)は、実際に裁判も行なわれたためか、はっきりと子どもの犠牲者が出たことに対し、責任を認めている展示であり、このような例はほかであまり見たことがない。ここも遺構内には立ち入れないが、さまざまな角度から見学は可能であり、実物の存在は重みをもつ。なお、「記憶の街」の模型は、なぜか道路向かいの小さい民間施設で収蔵・展示していた。
市内に戻って、勝邦義氏の案内で、石巻のキマワリ荘を訪問した。1階はかんのさゆりの写真展が開催され、忍者屋敷のような階段を上ると、mado-beyaで中﨑透らの三人展、その奥にサウンド・インスタレーションがある。すなわち、小さな民家に複数のギャラリーが同居するスペースだが、Reborn-Art Festivalの副産物らしい。その隣もユニークな電気屋であり、自動車などのメカのイラストレーター佐藤元信のドローイングを展示していた。
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10年目を終える今、災害伝承展示のあり方を考える|山内宏泰:キュレーターズノート(2022年03月01日号)
東日本大震災復興祈念公園は誰のためのものか?|山内宏泰:キュレーターズノート(2020年10月15日号)
2022/03/15(火)(五十嵐太郎)
陸前高田の震災遺構と復興遺構
[岩手県]
1年半ぶりに陸前高田市を訪れた。前回は《高田松原津波復興祈念公園 国営追悼・祈念施設》がフルオープンしておらず、内藤廣が設計した《東日本大震災津波伝承館》(2019)と《道の駅高田松原》(2019)、海へと向かう《祈りの軸》(2019)を含む、中心部のみが公開されていたため、今回は初めて全体のエリアを歩いた。特筆すべきは、震災遺構となった旧道の駅であるタピック45、ユースホステル、奇跡の一本松などを間近に見ることができるようになったこと。特にタピック45は、伝承館─道の駅から続く《復興の軸》(2019)を受け止める重要な場所である。公園内では、土砂を運び、かさ上げの復興工事を支えた巨大なベルトコンベアーのコンクリートの基礎も、いくつか点在する。ただし、なぜかあまり現地で説明はないため、これも震災遺構だと勘違いされるかもしれない。ちなみに、これの位置づけとしては「復興遺構」となる。またガラスが破れ、室内は津波がぶち抜いたものの、構造体は残った5階建ての旧下宿定住促進住宅も、震災遺構として整備された。地形は完全に変わってしまったが、いくつかの建築が残ることによって、11年前の3月末に現地で目撃した被災直後の風景を思い出すことができた。もっとも、安全のため、いずれの震災遺構も内部に入ることはできず、外からの見学のみである。
前回はコロナ禍のため、子育て支援施設のエリアが閉鎖されていた、隈研吾の《陸前高田アムウェイハウス まちの縁側》(2020)も再訪した。その隣には内藤廣の設計による《陸前高田市立博物館》が完成しており、やはり速いスピードで街が変化している。ただし、オープンは今秋らしい。道路を挟んで向かいの商業施設のエリアでは、かさ上げのために、いったん解体した、《みんなの家》(2012)の再建プロジェクトも開始していた。第13回ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展(2012)の日本館の展示では、金獅子賞を獲得したもっとも有名なみんなの家である。興味深いのは、陸前高田市において建築めぐりスタンプラリーが始まっていたこと。なるほど、復興を通じて、数々の有名建築家が作品を手がけている。釜石市でも、こうした復興建築を新しい街の財産として、今後どのように紹介するか考えていたが、ここでも同じような試みがなされていた。
関連レビュー
大船渡、陸前高田、気仙沼をまわる|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2020年09月15日号)
2022/03/14(月)(五十嵐太郎)