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建築に関するレビュー/プレビュー

気仙沼、南三陸、女川をまわる

気仙沼では、トレーラーハウスを活用した飲食店街《みしおね横丁》が登場していた。ここは銭湯、イスラム教の礼拝所、インドネシア料理店なども入り、想像以上にプログラムはヴァラエティに富む。地元で働く外国人を意識したものだという。また女川では駅の横にカラフルなトレーラーハウスが並ぶ《ホテル・エルファロ》(2017)で宿泊した。これは津波で旅館を流された女将たちが始めたものだが、室内はとても快適である。ともあれ、建築よりも時間をかけずに設置できるトレーラーハウスの出番があるのは、被災地ゆえの状況だろう。


《みしおね横丁》の礼拝所


《ホテル・エルファロ》

毎回、気仙沼では《リアス・アーク美術館》に立ち寄っていたが(同館にて学芸員の山内宏泰からうかがった2011年3月11日当日の話は、個人的にあいちトリエンナーレ2013のコンセプトにもつながった)、今回は時間の関係で飛ばし、《シャークミュージアム》(2014、リニューアルオープン)を初めて訪れた。本来はサメに特化した展示施設だが、ここも被災しており、導入部にメッセージ・テーブルがある「絆」ゾーンや、映像や写真による「震災の記憶」ゾーンが設けられていたからだ。すなわち、新規につくられた施設でなくとも、既存の施設も震災の後、プログラムが書き換えられているのだ。


《シャークミュージアム》内の「絆」ゾーン

さて、続く南三陸のエリアは、隈研吾の建築だらけだった。まず、《ハマーレ歌津》(2017)と《さんさん商店街》(2017)は、いずれも被災地における仮設的な木造店舗群である。そして有名な震災遺構となった《旧防災対策庁舎》は、かさ上げによって現在の地表面からだいぶ下になったが、これをとりまく壮大なランドスケープや伝承施設が、隈によって整備されていた。すでに《旧防災対策庁舎》の前には、古墳のような丘がそびえたっている。2021年のオープン予定らしい。


隈研吾《ハマーレ歌津》


隈研吾《さんさん商店街》


震災遺構となった《旧防災対策庁舎》


南三陸のもうひとつの震災遺構《旧ホテル観洋》、建物の左上にある青いサインで、当時の津波の高さが示されている

夜に到着した女川は、坂茂が設計した駅舎から、まっすぐ海に向かって軸線が走り、東利恵が手がけた《シーパルピア女川》の商店街がそれを挟む。坂は、女川の避難所になった体育館におけるパーティション、野球場に設置されたコンテナを三層に積んだ仮設住宅、そして復興の要となる駅を担当しており、これは被災後から同じ建築家がひとつの街にずっと関わった、希有な例だろう。


坂茂《女川駅駅舎》

2020/08/13(木)(五十嵐太郎)

大船渡、陸前高田、気仙沼をまわる

[岩手県、宮城県]

BRTの大船渡駅に隣接する《おおふなぽーと(大船渡市防災観光交流センター)》(2018)は、2階に震災関係の写真展示はあったが、わずかなものだった。また外部の大階段から屋上の広場に登ると、そこが街の復興の様子を眺めることができる展望デッキにもなっている。これは非常時において、津波避難にも使えるわけだが、こうした空間の形式は、被災地における復興建築のプロトタイプになりえるだろう。


《おおふなぽーと(大船渡市防災観光交流センター)》の屋上広場に続く階段からの眺望

陸前高田に入ると、前回は建設現場を見学したSALHAUSの《陸前高田市立高田東中学校》(2016)が完成した姿を確認してから、盛り土された被災エリアに向かった。巨大な駐車場に面して、いずれも新しいショッピング・センター、図書館、ホール、飲食店などが並び、もはや過去の風景を想起させる要素は何もない。完全に別世界だった。隈研吾の《陸前高田アムウェイハウス まちの縁側》(2020)は木造であり、やはり外周部のスロープを登ると、屋根の上から展望できる。また伊東豊雄による宇都宮のパヴィリオンが移設され、《交流施設 ほんまるの家》(2017)として活躍していた。


SALHAUS《陸前高田市立高田東中学校》


隈研吾《陸前高田アムウェイハウス まちの縁側》


伊東豊雄《交流施設 ほんまるの家》

最大の目玉は、内藤廣による《東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)》を含む《高田松原津波復興祈念公園 国営追悼・祈念施設》(2019)だろう。ランドスケープや震災遺構はまだ整備されていたが、一帯がすべて完成すれば、間違いなく彼の代表作になるはずだ。建築と公園の強い中心軸はややクラシックであり、丹下健三の《広島平和記念資料館》と比較したくなるが、一方で土木的なスケールのランドスケープや、防潮堤を効果的に組み込むデザインなどは現代的だ。また道の駅を併設しているのも、今風である。


内藤廣、《東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)》


《いわてTSUNAMIメモリアル》の正面玄関に向かう通路

今回、津波伝承館など、311の記憶に関する施設をいくつかまわったが、予算や規模にばらつきがあり、内容やクオリティもばらばらだった。中国の四川地震の記念館はどれも同じ内容と形式だったり、ニューヨークの《911メモリアル》は記録への執念を感じたが、そうしたしつこさがなく、統一感のなさが逆に日本らしいのかもしれない。ただ、やはり震災遺構を空間ごと残したものは、圧倒的な体験と情報密度をもつ。とくに津波の被害を受けた《旧向洋高校校舎》をまるごと残し、その内外を歩くことができる気仙沼市の《東日本大震災遺構・伝承館》(2019)は印象的だった。


《旧向洋高校校舎》突っ込んだ自動車が3階に残る《東日本大震災遺構・伝承館》

2020/08/12(水)(五十嵐太郎)

釜石市、住田町、大船渡をまわる

[岩手県]

おそらく釜石市は建築家の復興プロジェクトがもっとも多いエリアだろう。前日に訪れた鵜住居のほか、都市部ではヨコミゾマコトによる《釜石市民ホールTETTO》(2017)、千葉学の復興住宅群、これに隣接する平田晃久の《かまいしこども園》(2015)などがあり、南下すると、小さい湾に面した唐丹地区に乾久美子の《唐丹小学校・中学校》(2018)がある。釜石市の復興ディレクターに伊東豊雄や小野田泰明らが入っていることが大きいだろう。


ヨコミゾマコト《釜石市民ホールTETTO》


千葉学の復興住宅群



平田晃久《かまいしこども園》


乾久美子《唐丹小学校・中学校》

大屋根をもつ広場が印象的な《TETTO》(鉄の都とイタリア語の屋根の意味をかけたネーミング)をのぞくと、シーラカンス、千葉、平田、乾らの建築は、いずれも新築だが、集落のような空間のイメージを志向している。なるべく、大きなワンヴォリュームとはせず、分棟とし、風景になじませながら、配置していく。東北の地域性を意識した復興建築のパターンといえる。なお、移動する途中で、平田地区の仮設住宅と、山本理顕の《みんなの家》を思い出し、再訪したところ、もちろんもう使われてはおらず、建築はまだ残されていたが、解体工事に着手するようだった。


平田地区の仮設住宅


山本理顕《みんなの家》

住田町は、2011年3月末、盛岡から岩手の被災地をまわったとき、最初に訪れたところである。当時、いち早く木造の仮設住宅に着工するというので立ち寄ったが、震災後に登場した2つの注目すべき公共施設も、やはり林業の町として、木造を売りだしていた。前田建設工業の《住田町役場》(2014)と、SALHAUS による《大船渡消防署住田分署》(2018)である。前者はトラス梁とラチス耐力壁、後者はCLTを使いつつ、耐震壁をとらない、貫式木造ラーメンの構造をもつ。それぞれ異なる設計思想だが、いずれも木造で大型の建築をつくれることを示す、ショーケースとしての意味ももつ。



前田建設工業《住田町役場》

2020/08/11(火)(五十嵐太郎)

田老町、大槌町、鵜住居をまわる

[岩手県]

2日目は大移動した。盛岡から田老町へ、それから南下し、大槌町、鵜住居などを経由し、釜石に入った。田老町は巨大な防潮堤を建設したにもかかわらず、それが乗り越えられ、大打撃を受けたエリアである。《道の駅たろう》の交流施設では、かつての街の様子を示した大きな模型が展示されていた。これは神戸大学の槻橋修が企画し、全国の大学が協力して作成したものだが、あちこちの街で引き取られている。1階と2階の鉄骨がむきだしになった《たろう観光ホテル》(1986)は、有名な震災遺構である。見学のためのエレベーターが付設されていたが、特に印象に残ったのは駐車場にあった地殻変動を示すパネルだった。震災によって大地が動いた痕跡である。2011年に訪問したとき、防潮堤の近くにもかかわらず、流失せずに残っていた漁業協同組合は、現在、普通に使われていた。痛々しい傷の跡がないので、初めて見る人は、これが津波前の建築だとは気づかないだろう。ただし、よく観察すると、玄関の上に「津波浸水深ここまで」の掲示はついていた。


《道の駅たろう》の交流施設にある、かつての街の様子を示した模型


《たろう観光ホテル》の駐車場にある、地殻変動を示したパネル


田老町の漁業協同組合

震災直後は焼け跡が多く、戦場のようだった大槌町も、役場は結局保存されず、新興住宅ばかりになった。ここでは乾久美子による小さい《東日本大震災津波物故者納骨堂》(2017)や、松永安光の木を活用した《大槌町文化交流センター「おしゃっち」》(2018)など、建築家も入っている。興味深いのは、後者のそばにある《御社地公園》だ。すり鉢のように掘り下げられているのだが、実際は逆であり、一帯に盛り土をしたため、地盤のレベルが上がっており、むしろここがかつての地表面の高さだったことを示している。


左:《東日本大震災津波物故者納骨堂》 右:《大槌町文化交流センター「おしゃっち」》


《御社地公園》

鵜住居は、シーラカンスによる《釜石立釜石東中学校・鵜住居小学校・幼稚園》(2017)と《うのすまいトモス(いのちをつなぐ未来館・交流館)》(2018-2019)、梓設計の《釜石鵜住居復興スタジアム》(2018)など、建築のプロジェクトが集中していた。なお、《いのちをつなぐ未来館》(2018)は、うまく機能しなかった防災センター(解体ずみ)と防災教育の成果で生きのびることができた子供たちのことを伝えている。


高台に移転した《釜石立釜石東中学校・小学校》


《うのすまいトモス(いのちをつなぐ未来館・交流館)》


《釜石鵜住居復興スタジアム》

(2021年7月9日修正)

2020/08/10(月) (五十嵐太郎)

盛岡の建築群をまわる

[岩手県]

毎年、8月の中旬は海外を旅行しているのだが、今年はそれができなくなった。1月にニューヨークに出かけてから、もう半年以上も渡航していないのは、個人的にはおそらく学部生の頃以来ではないだろうか。逆に今年はこまめに機会を見つけて、これまでなかなか行く機会がなかったエリアも含めながら、日本の地方をまわることにした。そんなわけで8月中旬は、久しぶりにまとめて被災地周辺の東北エリアに足を運んだ。岩手県のエリアは、4年ぶりになる。

仙台から盛岡に入り、初日はいわゆる被災地ではないが、市内と《オガール紫波》を見学した。後者は、地方の駅前開発プロジェクトの成功例としてよく知られている。特筆すべきは、公民連携の仕組みもさることながら、デザイナーがきちんと入っていること。佐藤直樹、ランドスケープの長谷川浩己、そして建築家の松永安光と竹内昌義である。バレーボール専用の体育館と宿泊所、図書館と連結する情報交流館や店舗、マルシェ、広場、エネルギーステーションなど、ユニークなプログラムが実現しており、修士設計などの課題ならばともかく、本当にこういう空間が実際に成立していることに驚かされた。おそらく、大都市の巨大資本が入るプロジェクトだと、リスクを恐れ、逆にそれほど実験的なプログラムとならず、大手のゼネコンや設計組織が入り、よくあるような開発になるだろう。とすれば、地方だからこそ、思い切ったまちづくりに踏み切ることができたのではないか。



《オガール紫波》の広場


《オガール紫波》の図書館


《オガール紫波》の建築模型

盛岡に戻り、谷口吉郎による《原敬記念館》(1958)や、菊竹清訓の図書館をリノベーションした《もりおか歴史文化館》(2011)(内部は空間の特徴があまり残されていないが)をまわり、最後にNoMaDoSの《仕事場≒街~東北の通りオフィス~》(2020)を訪問した。これは東北大の建築出身のOB、OGらが中心となり結成した特殊な事務所が手がけたものである。彼らは東京と盛岡に拠点を置き、「終わらない自由研究」をうたう。盛岡の作品は、細長いコンクリート造の既存躯体の内側に、木造の部屋や階段を挿入したリノベーションである。土地の値段が高い東京と違い、空間に余裕があることから、フレキシブルな活用が可能なシェアオフィスとなっていた。



《原敬記念館》


《もりおか歴史文化館》


NoMaDoSの《仕事場≒街~東北の通りオフィス~》内観

2020/08/09(日) (五十嵐太郎)