artscapeレビュー

建築に関するレビュー/プレビュー

熊本城見学通路、熊本市現代美術館、熊本草葉町教会、オモケンパーク

[熊本県]

熊本に日帰りで出かけ、日本設計が手がけた《熊本城見学通路》を「見学」した。2016年の震災で熊本城が被害を受けたことから、現在、内部に入ることができない。そこで修復中の城を外から見学するための通路である。建築のメディアなどでは、カッコいい俯瞰や見上げの写真が紹介されているが、実際、現地を訪れると、当然ながら、そのような見え方を追体験することはできない。だから、ダメというわけではない。なにしろ、これは城を見るための構築物であり、それ自体が目立ってはまずいだろう。あくまでも脇役に徹しなければいけない。


日本設計が手がけた《熊本城見学通路》


2016年の震災で崩れた熊本城の石垣

もっとも、思いがけず楽しめたのは、空中を散歩するような体験だった。熊本城自体は、すでに明治時代に焼失しており、再建されたものである。むしろ、文化財として重要なのは、城壁やまだ地面の下に眠っているかもしれない遺構だ。したがって、杭を打つなどの工事はできず、コンクリートの置き基礎としたり、通路がカーブする部分ではリングガーダー構造を採用するなど、通路を支えるデザインも工夫されている。


空中を散歩するような《熊本城見学通路》


通路のカーブにはリングガーダー構造が採用されている

商業施設の上部に入る《熊本市現代美術館》は、企画展が開催されていないタイミングに加え、コロナ禍ということもあり、内部はとても静かだった。初めて訪れた木島安史による《日本基督教団 熊本草葉町教会》はコンクリートの箱に対し、正面のファサードに巨大な金色の十字架が立つ。内部に入ることはできなかったが、独特の色使いやオブジェ的なディテールは、プレチニックを想起させた。


《熊本市現代美術館》


木島安史《日本基督教団 熊本草葉町教会》

その後、震災で空き地になった商店街の一角に挿入された、矢橋徹による《オモケンパーク》に立ち寄り、カフェで過ごした。アーケード街に面し、両側は目一杯までビルが立っているのに対し、ここはぽっかりと穴が開きつつも、存在感のある小さな構築物をぽつんと置く。店舗の背後の庭やルーフバルコニーなど、屋外の空間も楽しむことができる。こうした開放的かつ余裕のある空間の使い方は、東京の都心では不可能であり、地方都市ならではかもしれない。ここでは、マルシェや坂口恭平らのイヴェントなども行なわれるという。


矢橋徹《オモケンパーク》

2020/09/17(木)(五十嵐太郎)

ウポポイ(民族共生象徴空間)、国立アイヌ民族博物館

ウポポイ(民族共生象徴空間)、国立アイヌ民族博物館[北海道]

札幌を電車で出発し、途中で久しぶりに苫小牧に寄って、《苫小牧市美術博物館》の「生誕100年|ロボットと芸術~越境するヒューマノイド」展(カレル・チャペックが戯曲『R.U.R』で「ロボット」という言葉を初めて使ったのが1920年だった)を見てから、白老駅で降り、ウポポイ(民族共生象徴空間)を報恩した。ダイレクトに特急で行けば、札幌から1時間ちょっとの距離感である。


《苫小牧市美術博物館》外観

寄り道をしたため、昼過ぎに到着したが、午前中からいるべきだった。なぜなら、屈曲したいざないの回廊を経てから入るエリア内の公園には、体験交流ホール、体験学習館、チセ(家屋)を再現した伝統的コタン(ただし、一部の棟の大きさは、誤解を招くのでは? と疑問に思った)など、いくつかの施設があり、上演や実演など、様々なイヴェントを行なっているからだ。そして笑顔の親切なスタッフもあちこちにいて、テーマパーク的な空間でもある。


ウポポイの体験交流ホール


伝統的コタン

ポロト湖のほとりにある建築とランドスケープは気持ちがいい。久米設計による《国立アイヌ民族博物館》は、風景にあわせて少しうねっており、1階はショップや展示に導入するシアターとし、2階に常設と企画の展示空間を持ち上げている。また2階のパノラミックロビーからは、見事に切りとられた湖と公園の眺めが得られる。


《国立アイヌ民族博物館》


《国立アイヌ民族博物館》からポロト湖を望む

さて、常設の基本展示室は、中心部は円にそってガラスケースの什器を並べ、大きなテーマ群を紹介し、外周はさらに細かい内容を紹介する、こなれた展示のデザインだった。もっとも、この博物館の最大の特徴でもある「アイヌの視点」から紹介する切り口、すなわち「私たち」を主語とする語り口で説明している部分は、目新しさを感じつつも、やはり美術家の小田原のどかが指摘したような疑問を抱かないわけにはいかなかった。


基本展示室の展示風景


チセの建設展示

例えば、アイヌが受けた苦難の歴史は一体誰が行なったものなのか、という点がぼかされている。むろん、こうした問題は、日本における戦争関係の展示施設にも通じるものだ。まるで自然災害のように悲惨な記憶が語られる一方、なぜ戦争が起き、どうしてこのように事態が悪化したのかという責任の主体がいつも曖昧である。また企画の特別展示室は、途中から、ただ書籍を並べたり、映像と団体の紹介だけになっており、オープニングとしてはやや寂しい内容だった。


公式サイト:https://ainu-upopoy.jp/

関連記事

国立アイヌ民族博物館 2020 ──開館を目前に控えて|立石信一:キュレーターズノート(2020年04月15日号)

2020/09/06(日)(五十嵐太郎)

装飾をひもとく~日本橋の建築・再発見~

会期:2020/09/02~2021/02/21

高島屋史料館TOKYO 4階展示室[東京都]

本来、ここはレビューを書く場なのだが、例外的に筆者が監修した展覧会について記したい。コロナ禍のため、高島屋での関連レクチャーが中止となり、展示の意図を説明する機会がないからだ。

もともとは4月末にスタートの予定であり、実は監修を依頼されたのが2月初めだったことから、ほとんど準備期間がなかった。そこで資料を収集するタイプの展示ではなく、すでにあるものを活用できるものは何かと考え、高島屋の建築と日本橋の環境を徹底的に利用することを考えた。そして以前から、高島屋の細部装飾がおもしろいと思っていたので、打ち合わせの際、じっくりと外観と館内を見てまわり、これならいけそうだと確信し、狭い会場だけど、立地を最大限生かすことにした。すなわち、会場の外に出るとオリジナルの建築群がいっぱいあるわけで、それを観察するための展示と位置づけたのである。


「装飾をひもとく」展、会場風景

ここから必然的に「日本橋建築MAP」を配布することをすぐに決め、エリアはシンプルに中央通り沿いとし、表面に位置関係と近現代建築の概要を(グラフィックは菊池奈々が担当)、裏面に装飾の解説(イラストの作画は周エイキ)を入れることにした。なお、会場の建築模型は、すでに解体され、街には存在しない《旧帝国製麻ビル》だけであり、それ以外の写真で紹介された建築はすべて、街を歩けば実物を見ることができる。建築展は、美術展と違い、実物を展示できないというジレンマを抱えているが、この形式ならば、鑑賞者のストレスにならないだろう。


会場で配布した「日本橋建築MAP」のスタディ(表裏)


《旧帝国製麻ビル》模型

イントロダクションでは、日本橋の界隈は古典主義系の近代建築がよく保存されていることから、東京オリンピック2020(延期になってしまったが)にひっかけて、いずれもギリシャから始まり、日本にもたらされたものという説明を加えた。展示の全体構成は、以下の通り。第1章「様式の受容」は、《日本銀行》と《三井本館》を軸に、古典主義とは何かを細部から紹介する(菅野裕子担当)。ちなみにこのパートでは、《日本銀行》とダブリンの《アイルランド国立図書館》の類似が初めて指摘されたという意味でも興味深い。第2章「和風の融合」と第3章「現代への継承」では、前者で《高島屋》、《三越》、《日本橋》、後者で《高島屋新館》、《スターツ日本橋ビル》、《日本橋御幸ビル》、《コレド室町》の開発などを分析する(五十嵐担当)。そして第4章は、時間軸をさかのぼり、百貨店内の仮設建築として、1950年代に高島屋で開催された建築・生活系の展覧会(当時、丹下健三や清家清も会場設計をした)を紹介し、 坂倉準三がデザインした「巴里1955年:芸術の綜合への提案─ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン三人展」(1955)の会場模型を東北大の五十嵐研で制作した(百貨店の展覧会を研究している菊地尊也担当)。


第1章「様式の受容」より


奥の壁は第3章「現代への継承」。手前は第4章の過去の展覧会の冊子


高島屋の過去の展覧会会場デザイン


かつて高島屋で開催された「巴里1955年:芸術の綜合への提案─ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン三人展」の会場模型

さて、これが本当の狙いなのだが、以前から筆者は、近代建築の展覧会やガイドブックが、しばしば「~様式」という説明で終わり、むしろ建築家の人間的エピソードが多めだったので、そうではない見せ方ができるのでは、と考えていた。つまり、モノそのものに語らせる展示ができるのではないか、と。実際、様式のラベルをはることで思考停止してしまうというか、世間に流通している説明も誤用が多く認められる。そこで十分な数の写真を使いながら、様式の向こう側にある細部を、本場の建築と比較しながら、高い解像度で観察し、装飾から考えること。美術史ならば、「ディスクリプション」という作品記述にあたるものだが、近代建築ではあまりそれが十分になされていないと思ったのが、本展を企画した意図である。

とはいえ、ここまで極端に細部と装飾にフォーカスしてどうなるかと思っていたのだが、フタを開けてみると、むしろそれを面白がる人が多いことが判明した。来場者は想像以上に多く、受付で図録を販売していないのかと質問する人も少なくない。昨年、筆者が監修した「インポッシブル・アーキテクチャー」展も当初、こんなマニアックな企画は一部の建築ファンしか見ないと思っていたら、SFやアニメ、ユートピア文学なども好む、意外に幅広い受容層があったことと共通する現象なのかもしれない。


公式サイト:https://www.takashimaya.co.jp/shiryokan/tokyo/

2020/09/02(水)(五十嵐太郎)

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武生、鯖江、三国、《恐竜博物館》、長浜をまわる

[福井県]

法事のため、2カ月連続で福井に出かけることになった。先月は三方にある内藤廣の《年縞博物館》を見学したが、今回はまず武生と鯖江の近代建築群をまわることにした。前者は初めての訪問だったが、アール・ヌーヴォー風の意匠が入る《武生市公会堂記念館》、アーケードに面した《旧大井百貨店》、《旧井上歯科医院》など、興味深い建築が多い。もっと時間をかけて再度訪れたい地方都市である。地方では今でも古い写真館がよく残っているが、鯖江の《恵美写真館》の創立は明治末にさかのぼり、国の有形文化財に指定されていた。なるほど、和洋折衷の建築として、きわめてユニークな細部があちこちに散りばめられている。


《武生市公会堂記念館》


《旧大井百貨店》


《恵美写真館》

三国の《みくに龍翔館》は、お雇い外国人の技師エッセルが手がけた5階建て八角形の小学校を1981年に再現し、郷土資料館として用いた建築だ。ただ展示には、一番知りたいかつての木造小学校の情報がないのは、残念である。ちなみに、エッセルの五男が有名な画家エッシャーだったことから、三国はトリックアートのコンペを実施しており、最上階に展示されていた入選作品はおもしろかった。


《みくに龍翔館》

さて、ずっと訪れる機会がなかった黒川紀章の《福井県立恐竜博物館》をついに見学した。内藤廣が設計したえちぜん鉄道の福井駅から電車とバスを乗り継ぎ、約1時間。遠くからも恐竜の卵のような銀色のヴォリュームが目立ち、さらに黒川のサインというべきガラスの円錐形も付随する。ただし、館に近づくと形態は見えなくなり、内部に入ると、むしろ過去にさかのぼるかのように、エスカレーターによって一気に地下の空間へと導く。なるほど、これだけ多くの恐竜の骨が展示された施設は見たことがない。子供連れの家族が遠くからやってくるのも、うなずける。また一部の恐竜はアニマトロニクスによって動き、『ジュラシック・パーク』さながらのエンターテインメント的な要素も備えていた。


内藤廣《えちぜん鉄道福井駅》


黒川紀章《福井県立恐竜博物館》の外観。銀色のヴォリュームとガラスの円錐形は建物から離れないと確認できない


《福井県立恐竜博物館》の内部


地下空間へと続く《福井県立恐竜博物館》のエスカレーター

福井からの帰りには、久しぶりに長浜に立ち寄り、近代建築の街を散策した。そのひとつの旧銀行をリノベートした《海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館》では思いがけず、再度恐竜や古代の生物群を見ることになった。ここでは会社の歴史や造形師を紹介しつつ、アニメや漫画のキャラクター以外にも、森羅万象のさまざまなモノをフィギュア化した作品が展示されている。ほどんとメタ・ミュージアムとでもいうべき多彩さだった。


《海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館》の入口


《龍遊館》に展示されていた古生物のフィギュア

関連レビュー

福井県年縞博物館、若狭三方縄文博物館|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2020年08月01日号)

2020/08/28(金)(五十嵐太郎)

女川町、石巻、野蒜をまわる

[宮城県]

夜が明けて、午前に女川町を散策すると、かさ上げに加え、道路や街区も変わり、以前の街の痕跡がまったくない。311の被災地で、もっとも激しい建築の破壊が起きたのは女川町であり、鉄筋コンクリートのビルが津波で引っこ抜かれた風景を目撃した者としては、完全に別の街に生まれ変わったことがよくわかる。個人的にはもっと多くの震災遺構を残すべきではないかと思っていたが、結局、ひとつだけ選ばれたのは、転倒した《旧女川交番》(2020)だ。遺跡のように、現在の地盤から低い位置に壊れた交番は存在するが、ピカピカになったまわりの街とのギャップは激しい。また植物で覆われており、『天空の城ラピュタ』で描かれた廃墟を想起させる。


植物で覆われてきた《旧女川交番》

石巻では、《震災伝承スペース つなぐ館》《東日本大震災メモリアル 南浜つなぐ館》(2015)を訪れた。前者はARのアプリをダウンロードすることによって、来場者が街中でも津波の高さを確認したり、被災の情報を得られるシステムを導入している。後者は、被災直後から注目されていた、コンビニに設置された「がんばろう石巻」の看板を置く。ただし、そのコンビニの地盤はもう足の下であり、しかも看板は2代目であり、その場所も移動している。したがって、場所やモノとしてのオーセンティシティはもうない。だが、それでもこの看板が残されたのは、シンボルとしての求心力が強かったのだろう。なお、住宅地だった南浜のエリアは《津波復興祈念公園》として整備中だった。また焼け跡が痛々しかった《門脇小学校》は、震災遺構として残される。


《震災伝承スペース つなぐ館》の展示風景


《南浜つなぐ館》の屋外に展示されている「がんばろう石巻」の看板(2代目)


南浜で整備中の《津波復興祈念公園》


焼け跡が痛々しい《門脇小学校》

《東松島市震災復興伝承館》(2017)は、旧野蒜駅である。建築そのものはあまり被害を受けておらず、内部に被災前後を比較できる写真などの展示空間を設け、プラットフォームの向こうに追悼の広場がつくられた。もちろん、レールは途切れ、もう電車は走らない。新しい野蒜駅は高台に登場し、その周辺に復興住宅や移転した《宮野森小学校》(2016、設計はシーラカンスK&H)がある。これも木造であり、傾斜した屋根をもつ分棟の形式をとり、全体としては集落のイメージを感じさせるものだった。地域コミュニティの核にするというコンセプトも、空間のあり方から伝わってくる。だが、セキュリティがうるさい大都市の小学校では、逆にこれは難しいかもしれない。


旧野蒜駅が《東松島市震災復興伝承館》になっている


シーラカンスK&H《宮野森小学校》

2020/08/14(金)(五十嵐太郎)