artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

築山有城 個展「シャイニング・ウィザード」

会期:2012/09/07~2012/10/06

TEZUKAYAMA GALLERY[大阪府]

ギャラリーに入ると、展示室の中央にでんと構える大木の切り株が待ち受けていた。しかし、作品の裏に回ると驚きが。実はこの作品は建築用の角材を円弧の形に繋ぎ合せたもので、表面を元の木そっくりに彫刻して大木らしく見せていたのである。ほかの作品も、人工漆が乾燥する際に収縮する性質を利用して複雑な模様を描き出すなど、素材の材質を生かしたものが多い。作家が脳裏に描いたイメージを具現化するのではなく、素材の性質を利用して造形をつくり出すのが、築山有城という作家の興味深い特質である。

2012/09/07(金)(小吹隆文)

南宇都宮石蔵秘宝祭

会期:2012/09/01~2012/09/16

悠日[栃木県]

今をときめく女性アーティストたちによる芸術祭。宇都宮市内の石蔵を改築した会場に、20人のアーティストが作品を展示した。いずれも、「女性性」から出発しながらも、その言葉の内側にとどまることなく、外側に突き抜けた作品ばかりで、非常に見応えがあった。
企画者でもある増田ぴろよは、回転ベッドのインスタレーションを発表したが、表面の布には男性器をモチーフにした図柄がプリントされていた。笠原美希の黒い人体像も上半身が男性器と化したメタモルフォーズだったが、両者の作品には(これまでの女性作家がたびたび表現してきた)男性器への無意識の恐怖というより、むしろそれにたいする造型的な好奇心が強く感じられた。事実、みずからの欲望を率直に開陳する傾向は、たとえば俳優の綾野剛への愛憎を綴った少年アヤや、テレビ番組を偏愛するがゆえに録画行為にひたすら没頭するフルカワノリコなど、この展覧会に参加した美術家たちに共通する大きな特徴と言えるだろう。
これを共通項としたうえで、さらにもう一歩踏み込んでいたのが、山田はるかと久恒亜由美。山田は「華妖.vijyu」という4人組のヴィジュアル系バンドが唄う《愛の水中歌》のプロモーションビデオを発表したが、映像のクオリティに加えて、4人のバンドメンバーにみずから扮するというアイデアと、それぞれ異なるキャラクターを演じ分けたパフォーマンスの技術がすばらしい(現在はYOUTUBEでも視聴可能)。久恒の作品は、会場である宇都宮市内の公衆トイレにあらかじめ携帯番号を書き込み、着信と会話の記録を会場内のトイレでリアルタイムに公表するという、ある種の観客参加型作品。みずからの女性性を戦術的な手段としながら未知なる観客を自分の作品に巻き込んでいく発想が抜群にすぐれていた。ネット時代の只中で、コミュニケーションの水準をあえて公衆トイレという「ハッテンバ」にシフトダウンさせる回帰傾向もおもしろい。
山田と久恒に通底しているのは、みずからの女性性を巧みに使いこなす高度な戦略性である。そのたくましい知性は、情動的な女性アーティストとコンセプチュアルな男性アーティストという陳腐な二項対立を置き去りにするほど、鋭い。両者の作品には、そのいずれもの特質も内蔵されているからだ。

2012/09/06(木)(福住廉)

近代洋画の開拓者 高橋由一 展

会期:2012/09/07~2012/10/21

京都国立近代美術館[京都府]

高橋由一の作品のなかで、私が一番好きなのは豆腐の絵だ。最初は実物ではなく雑誌の画像で知ったのだが、その際の驚きはいまでも鮮明に覚えている。「なんだこの変てこりんな絵は」「油絵で豆腐を書いてどうするんだ」。正直に告白すると、当時の私は彼の作品をキワモノ扱いしていたのだ。その後何年かが経ち、香川県の金刀比羅宮で実物の《豆腐》を見ることができた。由一独特のごつごつした質感表現で描かれた豆腐には並々ならぬ存在感があり、彼が目指していたリアルと現代のわれわれのリアルには触覚と視覚ほどの違いがあることにやっと気付いた次第だ。本展では、《鮭》や《花魁》などの代表作はもちろん、道路改修を記念した画帖や油絵以前に幕府の開成所で描いていた動植物の図譜が見られたことが収穫だった。また、記者発表時に学芸員が話した「由一は侍だったので、絵で藩や国に仕えようとしたのではないか」との指摘も作品理解に役立った。本展により、私のなかの高橋由一像が、ほんの少しだが明瞭になったように思う。

2012/09/06(木)(小吹隆文)

田村尚子『ソローニュの森』

発行所:医学書院

発行日:2012年8月1日

タイトルの「ソローニュの森」というのはパリから車で2時間あまりの場所にあり、そこにはラ・ボルド精神科病院がある。その道の専門家には有名な病院のようで、思想家のフェリックス・ガタリが精神科医として勤務していたことでも知られている。田村尚子は、2005年にこの病院の院長であるジャン・ウリと京都で出会ったのをきっかけにして、ラ・ボルドを自由に撮影することを許された。今回まとまったのは、その後の6回にわたったという滞在の記録である。
精神病者の写真というと、ある種のステロタイプな画像がすぐに頭に浮かぶ。だが、田村の写真は、患者たちの歪み、ねじれ、悲惨さなどを強調したそれらの写真とは、まったく一線を画するものだ。たしかに一見して「普通ではない」人たちの姿も写っているのだが、そのたたずまいは柔らかく、穏やかな雰囲気に包み込まれている。それはいうまでもなく、ラ・ボルドが他の精神病院とは違って、患者と病院のスタッフとの、そして外部の世界との境界線をなるべくなくすような、開放性の高いシステムを導入しているからだろう。田村はその空間を「もう一つの国」として受け容れ、パリに戻った時に逆に「社会の檻の中に戻ってしまった」と感じるようになる。
とはいえ、ラ・ボルドに日本人の女性がカメラを持って入り込み、撮影することは、田村にとっても患者たちにとっても、相当に負荷のかかることだったようだ。「カメラは凶器にもなる」ことに田村は思い悩み、一度はラ・ボルドから「脱走」するに至る。だが、もう一度戻ってきて、患者たちの前で自作の写真の「上映会」を行なうことで、ようやくその存在を認めてもらうことができるようになった。一見穏やかな写真群の裏に潜む、心の震え、感情の揺らぎ。それらもまた彼女の写真は鋭敏に写しとっているように見える。
本書は医学書院の「シリーズ ケアをひらく」の一冊として刊行された。同シリーズでは写真集は初めてである。だが、「医療と生活の境界を大胆に横断し、日常を再定義する」という「シリーズ ケアをひらく」の企画趣旨にふさわしい本といえるのではないだろうか。祖父江慎+小川あずさ(cozfish)による装丁・造本が素晴らしい。薄紙を重ね、折り畳んでいくような繊細なレイアウトが、すっと目に馴染んでいく。

2012/09/05(水)(飯沢耕太郎)

林ナツミ『本日の浮遊』

発行所:青幻舎

発行日:2012年6月1日

大ヒットの予感がする写真集だ。林ナツミは2011年1月1日から自分のブログ「よわよわカメラウーマン日記」(http://yowayowacamera.com/)に「本日の浮遊」シリーズをアップしはじめた。そこでは彼女自身がさまざまな場所で飛び上がり、空中を漂っているような瞬間を撮影した写真を見ることができる。最初の頃は、セルフタイマーを使っていたが、タイミングをとるのがむずかしく(最大で300回以上も飛び上がるのだそうだ)、彼女のパートナーで「バルテュス絵画への考察」シリーズで知られる写真家の原久路がシャッターを切るようになった。
このシリーズの魅力は、まずは意表をついた場面設定だろう。彼女の家の周辺や公園など日常的な場面もあるが、駅の改札口やホーム、レストランの中、バスルームなど、思いがけない場所でもジャンプしている。台湾で撮影したシリーズもあるし、最近はステレオカメラで撮影して、立体感を出すために2枚の写真を並べることもある。だがそれよりも、空中を漂っている彼女の姿がいつでも凛としていて美しく、見ていて解放感があるのが人気の秘密だと思う。鳥のように空を自由に飛ぶというのは、人間の見果てぬ夢だったわけだが、それがこのシリーズのなかで完璧に実現しているように感じるのだ。
誰でも疑問に思うのは、林がこの作品を制作するときに、コンピュータによる合成を使っているかどうかだろう。明るさやコントラストを調整する場合はあるが、基本的には画像の合成はしていない。つまり、彼女は100%自分の体を張って「浮遊」しているわけで、そのことが画像から生々しい恍惚と不安と緊張とが伝わってくる理由であることは間違いない。当初は1日1枚の「日記」の形式でアップしていた「本日の浮遊」は、あまりにも手間がかかり過ぎるのでペースが落ちて、現在はまだ6月までしか進んでいない(写真集では3月31日まで)。このシリーズが1年分たまったとき、どんな眺めが見えてくるのかがとても楽しみだ。

2012/09/05(水)(飯沢耕太郎)