artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
伊藤之一「隠れ里へ」

会期:2012/01/04~2012/01/15
RING CUBE[東京都]
伊藤之一は2000年に博報堂から独立して事務所を構えて以来、広告関係の仕事をするとともに独自の作家活動を展開してきた。その成果は2003年以来『入り口』『ヘソ』『テツオ』『電車カメラ』『雨が、アスファルト』といった写真集にまとめられている。写真集が送られてくるたびに、その明快なコンセプトと画像のセンスのよさに注目していたのだが、どうも写真家としての“芯”の部分がうまくつかめないもどかしさがあった。それが今回の個展を見て、さらにそこに掲げられていた『日本カメラ』編集長、前田利昭の「なにかを準備する写真家」という素晴らしい文章を読んで、少しずつ見えてきたように思う。
「隠れ里へ」というタイトルは、白洲正子のエッセイ「かくれ里」(1971年)を踏まえたものだという。白洲がそこで取りあげている琵琶湖沿岸の東近江地方を、伊藤も撮影している。だが、特に説明的な撮り方ではなく、水、雪、樹木、花々光などをスクエアな画面に断片的に切り取っていくやり方をとる。そのことによって、湖北・東近江という特定の地域に限定されることがない、人里の近くにひっそりと息づいている「隠れ里」の手触りや空気感がしっかりと写り込んでくる。前田が書いているのは,今回の写真群がこれまでの伊藤の作品の軽やかな試行とは違って、「なにか“屈託”のようなもの」を浮かび上がらせ、「“写真の不自由さ”と対峙している感じ」を与えるということだ。これは重要な指摘だと思う。「“写真の不自由さ”」に身を震わせ、もがくことで、写真家としての壁を乗り超えることができるのではないだろうか。少なくとも、ここにはコンセプトを自分の手で無化して(無視ではなく)いこうとする強い意志を感じることができる。
2012/01/04(水)(飯沢耕太郎)
大森克己「すべては初めて起こる」

会期:2011/12/15~2012/01/29
ポーラミュージアム アネックス[東京都]
大森克己の「すべては初めて起こる」は注目すべき写真シリーズだ。「3・11」以後、さまざまな写真家たちの仕事が発表されてきたのだが、そのほとんどはドキュメンタリーの範疇に入る仕事だった。本作品も広義のドキュメンタリーと言えなくはないが、そこには大森の写真家としての表現の意志がかなり強くあらわれてきている。震災という大きな出来事をどう受けとめ、投げ返していくのか。写真に限らずすべての表現ジャンルで問われるべきことだが、その優れた解答のひとつと言えるだろう。
大森は震災直後から自宅の周辺の桜を撮り始める。彼にはすでに桜をテーマにした『Cherry Blossoms』(リトルモア、2007)という写真集があり、ごく自然な身体的反応だったのではないかと思う。次に彼は福島県に向かうことにする。これまた直感的な反応であり「放射能、撮らなきゃって」思ったのだという。ところが、その時点で思いがけない要素が付け加えられた。「East LAのメキシカン・マーケット」で購入したのだという2個の「ピンクの半透明の球体」が、カメラのレンズの前にぶら下げられたのだ。
彼がなぜそんなトリッキーな仕掛けを凝らしたのか、普段の大森の仕事を知っているわれわれにとっては意外としか言いようがない。おそらく、彼自身にもよくわからないのではないかと思う。とにかく大森は「そうしたい」、「そうせざるを得ない」と心に決め、福島の地で桜や津波の跡の光景に向けてシャッターを切った。結果として、写真の画面(すべて縦位置)には奇妙なピンク色の光のフレアーが写り込むことになった。どこに出現するのか予測がつかない、その薄く丸いフレアーを透かして、向うの景色がぼんやりと見えている。
「震災後の桜」という主題は決して珍しいものではない。むしろステロタイプな被写体と言えなくもない。実際、「3・11」以後に撮影された多くの写真に、桜が写っているのを目にしてきた。だが、「ピンクの半透明の球体」のフレアー効果がそこに加わることで、風景が多層化し、「震災後の桜」という意味づけに単純に回収されることのない奥行きが生じてきている。そのことで、このシリーズは大森克己が見た「震災後の桜」としての固有性を獲得していると思う。なお、会場限定で同名の大判写真集(MATCH & Company)も発売された。1万5,000円という値段に見合った堅牢な造本の(でも、重くてとても扱いづらい)ポートフォリオ型の写真集だ。
2012/01/04(水)(飯沢耕太郎)
都築響一「暗夜小路」

会期:2011/11/25~2012/01/09
ナディッフギャラリー[東京都]
「上野~浅草アンダーグラウンド・クルーズ」とサブタイトルに謳う「暗夜行路」ならぬ「暗夜小路(こうじ)」。女装図書館にフンドシ飲み屋、イミテーションゴールドの被せ金歯やキラキラの宝石歯など裏世界が満載だが、圧巻はホンモノそっくりのダッチワイフ。いや最近はこのテのリアルな人形をラブドールと呼び、安価な風船状のダッチワイフと区別するらしい。シリコン樹脂製のナイスバディは触るとウヒョヒョーッ、もっちり感があってたまらんですわ。ただ冷たいのが残念だが(夏はサイコーかも)。下はどうなっちょるかのぞいてみたら、オケケの奥にあるあるオナホールが。指つっこんでみたらちゃんと濡れちょるばい。こりゃケッコー使い勝手がありそうだと感心しつつ素知らぬ顔で階上の本屋にいったら、監視カメラでしっかり見られていた。ラブドール、いまウィキペディアで調べてみたら、シリコン製は高価で一体60万円前後するという。笑ったのは、股間のシリコンは裂けやすいのでムリヤリ広げないようにとか、処分に困ってゴミ集積所や空き地に捨てたら死体遺棄と間違われたとか、自分が死んだら一緒に棺桶に入れてほしいという人もいるらしいが、シリコンと金属でできているので火葬場で焼くことは禁じられてるとか……。人間と似て非なるものゆえに奥が深い。
2012/01/04(水)(村田真)
杉本博司──はじまりの記憶(試写)

会期:2012/03/31
渋谷シアター・イメージフォーラム[東京都]
手づくりの放電装置で印画紙の上に雷を発生させた放電写真、たしか鮭とブロッコリーがおかずの自作弁当、けっこうプリミティヴな手描きのアイディアスケッチ……。試写を見てから3週間後の現在、記憶に残っているのはこの3つぐらい。写真の可能性を限界まで追いつめ、近年は能や建築にまで触手を伸ばす希代のコスモポリタン杉本博司を撮ったドキュメンタリー映画にしては、やけに印象が薄い。それはおそらく、この映画に撮られていることはだいたい知っていたし、それをなんのてらいもなくストレートに撮っているので記憶に引っかからなかったからだろう。逆の見方をすると、記憶に残っているこの3つにはこれまで知らなかった杉本の素顔や、杉本らしくない意外な側面が映し出されているのかもしれない。たしかに仕事場に弁当持参というのは杉本らしくない意外な素顔だが、では放電装置とアイディアスケッチはどうだろう。たぶんこの3つに共通するのは「手づくり」ということではないかしら。杉本の作品や展覧会を見て驚くのは、一分のスキもなくきっちり完璧に仕上げられていて、まるで手の痕跡が感じられないこと。だからこの映画のように杉本の手づくり感を見せられると、わずかながらも心がざわめくのだ。おそらく杉本の完璧な仕上がりを支えているのは、こうした職人的な手づくりの積み重ねなのかもしれない。この映画自体も、よくも悪くも手づくり感にあふれている。
2012/0/13(月)(村田真)
女子美スタイル2011

会期:2012/02/10~2012/02/13
BankARTスタジオNYK[神奈川県]
女子美の卒業・修了制作選抜展。設営中にチラッとのぞき見したらちょっとおもしろそうだったんで、あらためて来てみたらそうでもなかった。チャラいというか。大先輩の松井冬子を見ならいなさい。
2012/0/13(月)(村田真)


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