artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

リャン・インフェイ「傷痕の下」

会期:2021/09/18~2021/10/17

SferaExhibition[京都府]

写真は、「出来事の真正な記録」としてのドキュメンタリーではなく、「イメージの捏造」によって、いかに告発の力を持ちうるのか。

昨年のKYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の公募企画でグランプリを受賞した、中国のフォトジャーナリスト、リャン・インフェイ。今年は同写真祭の公式プログラムに参加し、より練り上げられた展示を見せている。

リャンの「傷痕の下」は、性暴力を生き延びたサバイバーへのインタビューを元にした写真作品。教師や上司、業界の有力者など年齢も社会的立場も上位の男性から性被害を受けた時の恐怖、不快感、憎悪、屈辱感、誰にも言えない抑圧、長年苦しめるトラウマが、悪夢のようなイメージとして再構築される。首筋をなめる舌はナメクジに置換され、助けを呼べず硬直した身体は、ベッドに横たえられ、空中で口をパクパクさせる魚で表現される。女性たちの顔は隠され、身体は断片化され、「固有の顔貌と尊厳の剥奪」を示す。また、「人形」への置換は、抵抗や告発の言葉を発さず、意のままに扱える「所有物」とみなす加害者の視線の暴力性を可視化する。



リャン・インフェイ《Beneath the scars PartII, 4》(2018)


展示会場は、半透明の壁で仕切られた個室的なスペースに分割され、両義的な連想を誘う。それは性暴力の起こった密室であると同時に、プライバシーの安全が保障された、カウンセリングのための守られた空間でもある。



[© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2021]



[© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2021]


だが、いずれにせよ「外部からの遮断」「隠されるべきもの」という構造を外へと開くのが、「性被害について語る音声」の演劇的かつ秀逸な仕掛けだ。被害者の肉声ではなく、インタビューを再構成したテクストを朗読する声が写真とともに聴こえてくる。その声が複数性を持つことに留意したい。女性の声だけでなく、男性が読む声も混ざることは、「女性対男性」という単純な二項対立の図式を撹乱し、分断や敵対ではなく、体験の共有を志向する。同時にその仕掛けは、「性暴力の被害者は女性」という思い込みを解除し、「(性自認も含め)男性も被害者になりうる」ことを示す。性暴力は「一方のジェンダーに関する問題」ではなく、「あらゆるジェンダーにとっての問題」であることを音響的に示すのだ。

加えて、朗読する声には、年代差や関西弁のイントネーションなど、さまざまな差異が含まれる。少女や若い女性の声、中年女性の声といった年代差には、「10代、20代に受けた傷を後年になって語れるようになった」時間の経過を示す意図ももちろんある。だがより重要なのは、「被害者の代弁」を特定のひとりに集約させず、声を一方的に領有しない倫理的態度である。バトンを手渡すようにさまざまな声によって紡がれていく語りは、あるひとつの固有の体験と苦痛について語りつつ、その背後に無数の声が潜在することを可視化していく。

「出来事の決定的瞬間に立ち会えない」写真の事後性という宿命の克服に加え、写真と語りの力によって「体験を想像的に分かち合うこと」へと回路を開く、秀逸な展示だった。


KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 公式サイト:https://www.kyotographie.jp/

2021/09/19(日)(高嶋慈)

石巻《マルホンまきあーとテラス》、アニメージュとジブリ展、《みやぎ東日本大震災津波伝承館》

会期:2021/06/19~2021/09/12

マルホンまきあーとテラス[宮城県]

今年、石巻にオープンした藤本壮介の設計による《マルホンまきあーとテラス》を訪れた。大小の家型が並ぶ、印象的なシルエットの内部に、博物館や大小のホールを備えた複合施設であり、実物は想像していたよりも大きい。とりわけ、壮観なのは、諸室の手前にどーんと展開する、街のストリートのような共有空間である。そのスケール感は、ヨーロッパの現代建築をほうふつさせるだろう。一方で什器、サイン、照明など、小さいスケールの遊びが共存しているのも興味深い。これは被災地における復興建築だが、新しいタイプの公共空間を提示している。



《マルホンまきあーとテラス》



《マルホンまきあーとテラス》



《マルホンまきあーとテラス》



《マルホンまきあーとテラス》



《マルホンまきあーとテラス》


同館における博物館のエリアはまだ整備中だったが、「アニメージュとジブリ展」の企画展は、平日にもかかわらず、さすがの大盛況だった。その内容は、1978年に徳間書店が創刊した月間の専門雑誌の内容を軸としながら、アニメの歴史をたどるものだが、「宇宙戦艦ヤマト」(劇場版、1977)でブームに火がつき、「機動戦士ガンダム」(1979年放映開始)を通じて、作品の内容だけでなく、制作者の側にも注目するようになり、やがて若手を発掘して、宮崎駿の連載「風の谷のナウシカ」や押井守のビデオアニメ「天使のたまご」(1985)、あるいは文庫など、メディアミックスによって独自の作品を世に送るまでを扱う。日本の現代建築が雑誌に育てられたように、日本におけるアニメの進化にとっても「アニメージュ」が重要な役割を果たしたことがうかがえる。もちろん、工夫を凝らした付録、表紙、関連するイベントなど、SNSがない時代におけるアニメのコミュニティやコミュニケーション史としても興味深い。

石巻では、南浜の津波復興祈念公園も立ち寄った。去年の夏はまだ造成中だったが、いまはきれいな公園である。《みやぎ東日本大震災津波伝承館》(2021)は、あいにくコロナ禍で閉館中だったが、円形のガラス建築なので、外からのぞくと、明らかに展示のヴォリュームが少ない。新聞報道によれば、当初、このプログラムは予定されておらず、途中で割り込んだことによって展示がおかしくなったという。ニューヨークの《9/11 MEMORIAL & MUSEUM》は、よくぞここまで徹底的に調べ、収集したという執念を、中国の《四川大地震博物館》(2009)は良くも悪くも国の強いイデオロギーを感じたが、最大級の災害なのに、南相馬の原子力災害伝承館など、日本の施設は中途半端さが気になる。



《石巻南浜津波復興祈念公園》



《みやぎ東日本大震災津波伝承館》


★──「石巻の津波伝承館、評判さんざん 監修者語る「盛大な失敗」の決定打」(朝日新聞、2021年9月6日付)https://www.asahi.com/articles/ASP9575SVP86UNHB00B.html


アニメージュとジブリ展 一冊の雑誌からジブリは始まった みやぎ石巻展

会期:2021年6月19日(土)~9月12日(日)
会場:マルホンまきあーとテラス
(宮城県石巻市開成1-8)
石巻マンガロード:https://www.mangaroad.jp/?page_id=3472

2021/09/08(水)(五十嵐太郎)

塔本シスコ展 シスコ・パラダイス かかずにはいられない! 人生絵日記

会期:2021/09/04~2021/11/07

世田谷美術館[東京都]

名古屋の「グランマ・モーゼス展」の記憶がまだ頭の隅にこびりついたまま、日本のグランマともいうべき塔本シスコを見に行く。塔本は1913年、熊本県の農家に生まれる。親がサンフランシスコ行きの夢に託してシスコと命名。本名なのだ。11歳で奉公に出され、20歳で結婚したが、46歳で夫が事故死。53歳から息子の画材を借りて絵を描き始め、91歳で亡くなるまで後半生を制作に捧げたという。あれ? 農家に生まれたのも、奉公に出されたのも、夫に先立たれてから絵を描き始めたのも、90歳を過ぎてからも描き続けたのも、モーゼスばあさんと同じじゃん。女性は夫がいなくなると創作意欲が湧くもんなんだろうか。いや、たぶん彼女たちは夫が健在なころから創作意欲はあったけど、それを発揮する時間的余裕および世間的寛容さがなく、さらに自主規制も働いたんじゃないかと想像する。なんかいきなりジェンダー問題に突き当たってしまった。

その作品は、やはり彼女自身の日常生活やこれまでの体験に基づき、想像を交えて描いたものが多い。しかしグランマ・モーゼスみたいにワンパターンではなく、風景もあれば人物や花の絵もあり、描き方もより奔放で色彩も派手で、特に花の絵は装飾的で、ときに天地左右の区別がつかない作品もある。その意味ではいわゆる素朴派というより、アウトサイダーアートに近いかもしれない。驚くのは作品の量で、出品されているだけでもセラミックや人形なども含めて200点以上。うち100号あるいはそれ以上の大作が30点を超し、公募展のように一部は2段がけに展示している。内容もバラエティに富んでいるだけに、まるでひとり団体展だ。

これだけの絵が描けたのは、息子が画家だったことが大きい。そもそも絵を描くきっかけが、息子の留守中にキャンバスの絵具を削ぎ落として油絵を描いたのが始まりだというから、息子が絵の道に進まなければグランマ・シスコは誕生しなかったか、もっとひそやかな日曜画家で終わっていたかもしれない。そう考えるとずいぶん恵まれていたと思う。とはいえ、作品的にもキャリア的にも遜色がないのに、作品が飛ぶように売れ、国民的画家にまで上りつめたグランマ・モーゼスとの差はなんだろう。それはもう国力および国民性の違いとしかいいようがない。やはり親の夢を追ってサンフランシスコに移住すべきだったか。

2021/09/07(火)(村田真)

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林勇気「15グラムの記憶」

会期:2021/09/03~2021/09/26

eN arts[京都府]

「川の流れ」「水と氷」「流体と固体」「水の採取と濾過」といったメタファーを用いて、 記憶やデジタルデータの保存形式、さらにその複数の形態や循環・流動的なあり方について語る、緻密に構築された映像インスタレーション。

林勇気は、自身で撮影したり、インターネット上で収集した膨大な画像を切り貼りしたアニメーション作品で知られる。近年はメディア論的な自己言及性を強め、動画のデジタルデータをピクセルの数値に還元する、プロジェクターの物理的存在に言及する、「データの保存形式の複数性」に焦点を当てるなど、映像メディアの成立条件やアーカイブについて多角的に問うている。

本展では、「祖父の遺品から見つかった、2002年発売のソニー製のデジタルカメラ『Digital Mavica』とその記録媒体のフロッピーディスク」が物語の起点となる。展示は3つのパートで構成され、導入部では、「フロッピーディスクに祖父が遺した川の写真」のスライドショーを背景に、「遺品整理の経緯や祖父の思い出」が「孫の私」によって語られる。約20年前に流通・使用されていたフロッピーディスクは現在のパソコンではデータ再生できないため、専用のドライブを取り寄せて中身を確認したこと。当時のデータ容量では、1枚当たり、640×480ピクセルの画像を10枚しか保存できなかったこと。「祖父」が近隣のいくつかの川で撮ったと思われる低解像度の画像が、淡々と映されていく。一人暮らしだった「祖父」の急死、現実感のない葬式、子どもの頃に「祖父」と写真の川を訪れた思い出。そして「私」は、写真に写った川を探す旅に出たことが語られる。



会場風景[© hayashi yuki, photo: Tomas Svab]


第2室では、パソコンに接続されたドライブやプリンターなどの機器と、現物のDigital Mavicaとフロッピーディスクが展示される。そして第3室では、「撮影地点が判明した川」を同一アングルで映した映像に、「祖父が別のフロッピーディスクに遺した撮影日誌」の朗読が重ねられる。だが、川の映像は、その上に散らばる「氷の塊」の画像によって虫食いのように一部が隠され、像が歪む。



会場風景[© hayashi yuki, photo: Tomas Svab]



林勇気「15グラムの記憶」より


この奇妙な「氷」は何だろうか。「祖父の日誌」には、「川の水を採取した」日付と時刻、地点が記録され、天気や体調とともに「製氷した氷を入れて飲んだ」「濾過装置を買い替えた」「水と氷の味が良くなった」などと綴られる。「祖父」は酒ではなく、「川で採取した水」に氷を入れて味わうのが趣味(?)だったようだ。だが、次第に疑問や違和感が頭をもたげてくる。「祖父が撮った川の写真」には満開の桜、緑茂る夏の木々、人々が憩う川岸の芝生、冬枯れの木立など季節の移ろいがあるが、「現在の川の映像」も「同一の季節」を映している。それは「祖父の日誌の朗読」に対応するという点では齟齬はないのだが、「私」は「休暇を利用して遺品整理をした」と語っていた。では、「私」は、その後1年間かけて「祖父の暮らした遠隔地」に通いながら、川のリサーチと撮影を継続したのだろうか。また、「証拠品」として展示されたフロッピーディスクに貼られたラベルは白紙のままであり、「祖父」の几帳面な性格からすると、撮影メモを書き込んでいるはずだ。「祖父の川の写真」は、林自身が撮影した写真の解像度を落とした捏造かもしれない。

どこまでがフィクションなのか。あるいは、すべてが林による創作なのか。だが重要なのは、事実/フィクションの境界画定ではなく、「時間の流れ」を象徴する川、「水と氷」の状態変化、「水の採取と濾過」といった豊富なメタファーを通して、記憶やデジタルデータについて自己言及的に語る秀逸な作法である。

例えば、ヒントのひとつは「私」のモノローグに埋め込まれている。「祖父の遺したショットグラスに氷を入れて水を飲みながら、フロッピーディスクの中身を見た」。川で水を採取する=川で撮影した画像が、データ=実体のない流体となり、記録媒体=保存容器=水を満たすグラスに容れられ、あるいは氷=固体として冷凍庫=記録媒体に保存され、解凍=データの再生や記憶の蘇りを待つこと。「そのままでは飲めない川の水を濾過して味わう」行為は、「そのままでは見られない時代遅れの記録媒体内のデータを、専用ドライブを取り寄せて読み込む」操作に対応し、水を飲む=データを再生するための「媒介」を示唆する。また、「祖父の川の写真」をパソコンの画面上で再生し、プリントアウトした写真を観客が持ち帰れる仕掛けも重要だ。「氷」として保存されたフロッピーディスクから「解凍」された誰かの記憶が、文字通りスクリーンを流れる「川」となり、再び手に取ってさわれる「固体」=プリントされた紙へと変容する、まさに「状態変化」「循環」を体験することになる。



会場風景[© hayashi yuki, photo: Tomas Svab]


林は、KYOTO STEAMに出品された前作《細胞とガラス》において、「動物の体内で培養したiPS細胞の臓器移植が可能となった近未来に、移植を受けたガラス職人の男性によるモノローグ」というフィクションの体裁をとって、「炎により自在に変形するガラスの可塑性」と「iPS細胞」を重ね合わせ、「外界を映し出す窓ガラス」の映像を通して「フレーム」「スクリーン」「(内/外、人間/動物の)境界」のメタファーを語っていた。本作はその手法を引き継いだ林の新たな展開であるとともに、デジタルデータの「起源」の曖昧性、「ファウンド・フォト」「ファウンド・フッテージ」ならぬ「ファウンド・データ」で物語を紡ぐ手法の可能性、そして「たとえ一切が捏造であっても、『祖父と私の物語』として信じさせる力はどこから来るのか」というメタフィクション論ともなっていた。


関連レビュー

KYOTO STEAM 2020国際アートコンペティション スタートアップ展|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年12月15日号)
林勇気「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年12月15日号)
林勇気「times」|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年12月15日号)

2021/09/04(土)(高嶋慈)

山城知佳子「リフレーミング」

会期:2021/08/17~2021/10/10

東京都写真美術館 地下1階展示室[東京都]

山城知佳子は2002年に沖縄県立芸術大学大学院造形芸術研究科環境造形専攻修了後、映像・写真作品を中心に精力的な発表を続けてきた。内外の美術館・ギャラリーでの企画展、アートフェアなどにも積極的に参加し、その評価を高めている。本展は、彼女の「ミッドキャリア個展として、その作品世界を総覧するはじめての本格的な機会」となるものであり、沖縄北部、伊江島、韓国・済州島で撮影され、「あいちトリエンナーレ2016」に出品された「土の人」(23分、2016)、新作の「リフレーミング」(33分、2021)の2つの映像作品を中心に、代表作が出品されていた。

山城の作品を特徴づけるのは、「沖縄」と「身体性」である。生まれ育った、沖縄の風土、歴史、記憶を映像にどう埋め込んでいくかは、彼女にとって最も重要な課題のひとつであり、初期から新作に至るまでその志向は一貫している。大事なのは、それを概念的にではなく、視覚、聴覚、触覚、さらには嗅覚や味覚さえも動員した全身的な身体感覚を通じて開示・伝達しようとしていることで、観客も頭ではなく「からだ」でそのメッセージを受け止めることを求められる。「土の人」や「リフレーミング」のような3面スクリーンを使った作品では、同時発生的に展開される出来事が、分裂したまま、映像と音声として観客に襲いかかることになる。最初はやや不安と戸惑いを覚えつつ、そこに巻き込まれていくのだが、そのうち、あらゆる刺激が一体化した渦の中に呑み込まれていくことを許容する瞬間が訪れる。その胎内回帰な一体感こそ、山城の映像作品の真骨頂というべきだろう。

もうひとつ重要な要素は、山城の作品から発する独特のユーモアだ。「リフレーミング」のような作品では、あちこちに、微笑から哄笑までさまざまな笑いの種が仕込まれていて、見終えた後で、いい泡盛をしこたま飲んだような酔い心地を感じた。「リフレーミング」の主要な登場人物は4人の男だが、彼らは「発端(ホッタン)」「探究(タンキュウ)」「模倣(モホウ)」「アワ」と名づけられている。このネーミングは、沖縄の男たちに対する、山城の辛辣なユーモアを込めた批評なのかもしれない。

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未来に向かって開かれた表現──山城知佳子《土の人》をめぐって|荒木夏実:artscapeレビュー(2016年09月15日号)

2021/09/04(土)(飯沢耕太郎)

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