artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

Walls & Bridges 世界にふれる、世界を生きる

会期:2021/07/22~2021/10/09

東京都美術館[東京都]

「イサム・ノグチ展」の傍でひっそりと開かれている小企画展。「Walls & Bridges」といっても別に壁や橋をモチーフにした作品の展覧会ではなく、障害としての「壁」を新しい世界へとつなげる「橋」に変えた表現者たちを紹介するものだ。

出品者は、老人ホームに入ってから絵を描き始めた東勝吉、ダム建設で水没する自分の村の日常を撮りためた増山たづ子、日本人の彫刻家に嫁ぎ、主婦業の合間に制作したイタリア生まれのシルヴィア・ミニオ=パルウエルロ・保田、ウィーンに亡命後、彫刻家になったチェコ出身のズビニェク・セカル、言葉も通じないニューヨークに亡命後、映画で日常の断片を撮り続けたリトアニア出身のジョナス・メカスの5人。名前を知っているのはジョナス・メカスくらい。いずれも20世紀前半生まれ、ということは過酷な戦争を生き延びた人たちであり(セカルとメカスは反ナチス運動に参加して強制収容所に送られた)、アカデミックなアートの世界で脚光を浴びたわけではなく、まったくアートとは無縁のアウトサイダーもいる。その作品、制作態度から、「アートとはなにか」「表現とはなにか」を考えさせもする。

たとえば、木こりを生業にしてきた東が故郷の風景を描き始めたのは83歳の時。それまで美術をたしなむことのなかった東の絵は、人はどのように物事を見るか、それをどのように作画するかというひとつのサンプルとしても興味深い。農家の主婦だった増山が60歳にして身の回りの情景を撮り始めたのは、故郷が水没の危機に迫られたから。以来30年近くにわたり撮られた写真は10万カット、アルバムは600冊にも及ぶ。そのまま捨てられてもおかしくない写真(記憶)たちの運命に思いを馳せざるをえない。将来を嘱望されたシルヴィアは彫刻家の保田春彦と結婚後、日本に移住したものの、彼女が制作できるのは家族が寝静まった夜半だった。限られた時間と空間と材料のなかで完成した作品は少ないが、むしろ日々の祈りのようなドローイングや小品こそ輝いているように感じる。

大量動員を狙った特別展だけでなく、こういう埋もれた表現者の再発見や再評価を促す企画展は貴重だ。とはいえ、無名の一人だけにスポットを当てることは興行的に難しく、いきおい何人か集めてグループ展にするしかないが、そうすると量的にも見せ方においても一人ひとりの個性や独自性が伝わりづらくなるというジレンマもある。今回のジョナス・メカスがそうで、映像ということを差し引いても、展示が淡白すぎて彼の特異性が伝わってこない。逆にズビニェク・セカルは、これまでまったく知らなかったこともあるが、小品のシンプルな展示にもかかわらず圧倒的な存在感を示していた。

2021/07/21(水)(村田真)

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三野新『クバへ/クバから』

発行所:三野新・いぬのせなか座写真/演劇プロジェクト制作実行委員会

発行日:2021/06/30

三野新(1987-、福岡生まれ)は、演劇と写真を結びつけるというユニークな活動を展開してきた「写真家」である。今回の新作『クバへ/クバから』では、小説、詩歌、デザインなど、多彩な方向性を持つ創作集団「いぬのせなか座」と組んで、「写真集制作」そのものを演劇として上演することを試みた。2018年8月からスタートしたプロジェクトは、途中、何回かの座談会、写真展などの開催を経て、最終的に「いぬのせなか座叢書4」として刊行された写真集『クバへ/クバから』にまとまった。

そのようにして形をとった「写真集」は、錯綜する写真、テキスト、イラストの複合体として編み上げられている。中心的なテーマ(被写体)は、沖縄をはじめとする南方地域に自生する植物クバ(ビロウ)である。クバは、日本の古代においても沖縄の創世神話においても神木=聖なる植物として崇められてきた。三野はそのクバの植生分布の北限が彼の生まれた福岡県であることを知り、自らの記憶や体験と、沖縄(奄美諸島を含む)の歴史文化とを重ね合わせつつ探求する、何度かの旅を企図する。その過程で「沖縄を、いま、東京から撮影する」ことの意味が、写真やテキストを通じて問い返されていくことになる。

「写真集制作」を通じて、沖縄をめぐる使い古された言説、イメージを「新たな配置、名付け、撮影行為のなかで攪拌させていく」という意図は、山本浩貴+h(いぬのせなか座)による装丁・レイアウトを含めてとてもうまく実現していた。ただ、演劇化のプロセスを経ることで、三野の「クバ」に寄せる初発的な動機もまた「攪拌」してしまったことも否定できない。創作行為のテンションとリアリティを保ちつつ、この方法論をさらにさまざまなかたちで展開することはできないのだろうか。『クバへ/クバから』の上演を、これで終わらせるのはややもったいないと思う。


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2021/07/21(水)(飯沢耕太郎)

徐勇展「THIS FACE」

会期:2021/07/16~2021/08/16

BankART KAIKO[神奈川県]

中国・上海出身の徐勇(Xu Yong、1954-)は、日本の読者にとって懐かしい名前ではある。日本の出版社から『胡同 北京の路地』(新潮社、1994)が出版されているからだ。だが徐勇は、北京の古い町並みと暮らしを撮影するドキュメンタリー写真家という枠組にはおさまりきらない、多面的な活動を展開してきた。1980年代にはコマーシャル写真の分野で成功をおさめ、そのテクニックを活かして演出的な手法で性的な問題を大胆に扱った「解決方案」(余娜との共作、2007)なども発表している。また、中国の現代美術の震源地となった北京郊外の「798芸術区」の創始者のひとりでもあった。

今回、横浜・馬車道のBankART KAIKOで開催された「THIS FACE」展に出品された作品も意欲的な写真シリーズである。会場にはひとりの女性の顔をクローズアップで撮影した513点の写真が並ぶ。彼女は髪を整え、イヤリングをつけ、口紅を引いて化粧するが、何枚かあとになると髪は乱れ、汗が滲み、疲労が色濃く漂うような顔つきになっていく。そのプロセスが何度か繰り返され、観客は彼女の顔の変化を近い距離で目撃することになる。実はモデルの女性は実在する「性工作者」の「紫U」で、これらの写真は2011年1月19日の朝10時から夜中の1時までの15時間に北京東環路のホテルの一室で撮影されたものだ。本展の元になった香港、文化中国出版刊行の写真集『這張臉』(2011)には、「紫U」によるその日の生々しい出来事を記した日記も収録されている。

 

スキャンダルを狙った、あざとい仕掛けという見方もできそうだが、中国のような政治が人々の生を縛り付けている国において、このような作品を発表することのむずかしさを考えると、徐勇の試みの過激さには驚くしかない。顔のみをクローズアップで捉えて、他の視覚的情報をカットするやり方も、観客の想像力に訴えるという点でうまくいっていた。性と政治とが分かちがたく結びついているという点では、日本も同じはずだが、このような作品はまず出てこない。中国のドキュメンタリー写真の厚みと底力を感じさせる展示だった。

2021/07/20(火)(飯沢耕太郎)

竜とそばかすの姫

[東京都]

『時をかける少女』(2006)公開以降、正確に3年ごとに新作を発表する細田守の『竜とそばかすの姫』(2021)は、これまでの系譜を継いだものだった。今回の仮想世界「U」は、ドタバタ大家族SF『サマーウォーズ』(2009)の仮想空間「OZ」と比べると、身体的な特徴を反映させたアバターに進化している。また声がテーマになっていることから、今回のアズ(アバター)/オリジン(本人)は、アニメにおけるキャラ/声優の関係と重なり、メタ的な作品のようにも思える。もっとも、劇中のすずは母を失ったトラウマから歌えなくなり、「U」の世界でだけ「ベル」として華麗に歌えるという設定なのだが。ちなみに、『バケモノの子』(2015)も二重世界の物語だったが、空に浮かぶ巨大な白鯨は今回も登場した。

一方でリアルな世界としては、『サマーウォーズ』や『おおかみこどもの雨と雪』(2012)と同様、自然が豊かな地方が舞台である。実際、細田監督が美しいと聞いて、高知の二淀川周辺をロケハンし、それをもとにして、ネットの世界とは対照的な風景というべき、すずが暮らす家や周辺の環境が描かれた。

また『未来のミライ』(2018)に登場する建築家の自邸の設計には、谷尻誠を起用したが、今回もイギリスの建築家エリック・ウォンに仮想空間のデザインを依頼した。平日は設計の実務を行ない、週末に映画のための仮想空間を構想したという。「OZ」では回転する同心円状の空間が印象的だったのに対し、「U」の世界では、「U」の文字をモチーフとしつつ、楽器のハープがイメージされた。そして弦の垂直線が連続するかのように、ビルが林立する風景を導く。

さて、『竜とそばかすの姫』は、細田が好きなディズニー版のミュージカル・アニメ『美女と野獣』的なプロットを経て、むしろ現実の世界のほうを変え、抑圧された少年少女を解放していく。インターネットが社会に対してネガティブな影響力を強める現状において、その暗黒面をとらえながらも、最終的にボジティブなメッセージを発信している。またこれまでの細田作品と同様、登場人物の成長物語でもある。なお、音楽をテーマにする映画は、音楽そのものがどれくらい説得力をもつかも重要な鍵となるが、すず/ベル役を担当したミュージシャンの中村佳穂は見事に期待に応え、ときどき感じられる脚本の欠陥を忘れさせるほど、圧巻だった。

映画『竜とそばかすの姫』公式サイト: https://ryu-to-sobakasu-no-hime.jp/

2021/07/18(日)(五十嵐太郎)

GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?

会期:2021/07/17~2021/10/17

東京都現代美術館[東京都]

都現美の巨大な企画展示室2フロアを使った大規模な個展。チラシによれば、「60年以上にわたる創造の全貌を目の当たりにすることができる集大成の展覧会」とあるが、60年代のポスターを飾ったコーナーはあるものの、出品作品の大半は80年代初頭のいわゆる「画家宣言」以降の絵画に占められている。それでも40年だ。そういえば10年くらい前にも横尾さんの個展を都現美でやったなあと思ったら、19年も前だった。あれは画家宣言20年目で、その倍の年月が過ぎたということだ。今回の出品点数は計603点。ならせば年平均15点、つまり月1点以上の計算になる。総作品数はその数倍はあるだろうけど、主要作品はほぼ網羅していると見ていい。とりあえず「質より量」だ。

作品はほぼ年代順に、「神話の森へ」から「多元宇宙論」「越境するグラフィック」「滝のインスタレーション」「Y字路にて」「原郷の森」まで13に分けられている。人気グラフィックデザイナーの横尾が画家へ転身したきっかけが、1980年にニューヨークで見たピカソの回顧展だったのは有名な話だが、初期の作品を見ると当時アートシーンを席巻していた新表現主義の影響が色濃い。というより新表現主義そのものだ。おそらく当時、アメリカのシュナーベルやイタリアの3Cあたりを見て「あ、これならオレにも描けそう」と思ったに違いない。その10年前だったらミニマルアートを見ても描きたいとは思わなかったはず。その意味で1980年代初頭に画家になるべくしてなったといえる。

もちろん新表現主義ベッタリというわけではなく、横尾ならではの工夫が随所に凝らされている。初期のころは、鏡の断片を画面に貼り付けたり(これは皿の破片を貼り付けたシュナーベルを思い出させるが)、絵の周囲をネオンで囲んだり、画面にキャンバス布を重ねたり、あれこれ試しているので見ていて飽きることがない。サービス精神が旺盛なのだ。

その後も、アンリ・ルソーや過去の自作イラストレーションをリメイクしたり、1万枚を超える滝の絵葉書を集めてインスタレーションとして見せたり、Y字路にこだわったり、プリミティブな筆づかいながらも一貫して奇想に富んだ絵を描き続けている。なかでも圧巻は最後の「原郷の森」だ。ここ1、2年の新作を集めたもので、デッサンは狂い、構図も破綻し、色彩も乱調をきわめているが、モネの最晩年のタッチを思わせる奔放なストロークは、もうだれにも止められない。もはや優劣とか善悪とかの価値観を超えて彼岸に達している。とうとうここまで来たか、ここまで見せるか。

2021/07/16(金)(村田真)

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