artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

秋山祐徳太子と東京都知事選挙

会期:2021/09/13~2021/10/09

ギャラリー58[東京都]

昨年暮れの回顧展でその一端を垣間見せた秋山祐徳太子の資料収集癖(正確には「ためこみ症」または「捨てられない病」)だが、その資料の山のなかでも質量ともに最高峰というべきなのが、東京都知事選のそれだ。今回は秋山が1975年と79年の2回にわたり立候補した都知事選の資料を壁面いっぱいに並べている。現在でも都知事選には泡沫候補がずらりとそろい、選挙公報や演説会をにぎわしてくれるが、秋山ほど都民を楽しませ、また本人も楽しんだ候補者はいなかったんではないだろうか。

秋山は当初、大日本愛国党の赤尾敏をはじめとする泡沫候補に興味を抱いていたが、「私は、いつかはこの美しき泡沫候補の一員に加わってみたい、との願望を抱いていたし、今回の選挙は二大有力候補による保革大激突の谷間に、政治による芸術行為の花を、あえかにでも一輪咲かして見せる唯一絶好のチャンスかも知れなかった」とのことで出馬にいたったという。この二大有力候補とは美濃部亮吉と石原慎太郎で、ここから「保革の谷間に咲く白百合」というキャッチコピーが生まれてくる。このとき秋山40歳、山高帽にヒゲのスタイルで選挙戦を戦ったが、結果は3,101票の5位に終わった(ちなみに美濃部と石原はそれぞれ200万票以上を獲得し、美濃部が当選)。しかし候補者16人中、美濃部、石原、松下正寿、赤尾敏に次ぐ5位だから、よく健闘したというべきか。少なくとも秋山の選挙活動を支持した(おもしろがった)都民が3千人以上いたのだ。

1979年の都知事選はなぜかパリで出馬宣言し、キャッチコピーも「都市の肥満を撃つ!」「都市を芸術する!」と先鋭化。ポスターも4年前に比べてニラミをきかせ、頭頂部もやや薄くなって貫禄を増したが、順位は7位に甘んじた。しかし得票は前回より千票余り上乗せした4,144票だからリッパなもの。このときは鈴木俊一が当選、以下、太田薫、麻生良方、赤尾敏……と続いた。

今回展示されているのは、この2回の選挙で使用したポスター、ポスター掲示場の地図、選挙運動の記録写真、選挙公報、候補者届、腕章(立候補者に配られる選挙運動の七つ道具のひとつ)、宣誓書(「この選挙における候補者となることができない者ではないことを誓います」などと記されている)、通称使用申請書(「秋山祐徳太子」の名で立つため)、候補者特殊乗車券(選挙期間中は国鉄、地下鉄、バスなど乗り放題の券)、立会演説会の案内書や注意書、新聞の切り抜き、赤尾敏から贈られた色紙とツーショット写真など、おびただしい量の資料だ。政治と芸術を結びつけるアーティストはヨーゼフ・ボイスをはじめたくさんいるが、選挙を芸術する人はあまりいないし、これだけの資料を残しているのは秋山祐徳太子くらいのものではないか。衆院選も近いことだし、まことにナイスなタイミングといえる。これはやはり都美館か都現美か、いずれにせよ東京都がパーマネント・コレクションすべきだろう。

2021/10/04(月)(村田真)

菅野由美子展

会期:2021/10/04~2021/10/30

ギャルリー東京ユマニテ[東京都]

菅野は15年ほど前から器を並べた静物画を描き続けているが、今回は少し趣を異にする。見た目はこれまでとほとんど変わらないが、違うのは器のヴァリエーションが増えたこと。これまでは自分の収集したお気に入りの器を並べて描いてきたが、今回は友人たちが愛用する器を描いたそうだ。本人いわく、「会いたい人にもなかなか会えない日々が続いたので、友人たちの器を描いてみたくなった」。といっても実物を見て描くのではなく、メールで愛用のカップの画像を送ってもらい、画面上に構成したのだという。

たとえば、案内状にも使われている《MUG_7》。複雑に入り組んだ棚が正方形の画面を大きく十文字に分けている。どこかエッシャーの位相空間を思わせるが、それは重要ではない。その棚の中央2列に計14個のマグカップを置き、右上と左下にティーポットを配する構図だ。これらのマグカップは友人たちから送られた画像を元にしたもの(ぼくの愛用していたマグカップもちゃっかり鎮座している)。実物ではなく画像を見て描くのは安易な気もするが、実はとても難しい。なぜなら、送られてくる画像の大半は斜め上から撮ったものだが、その角度は人それぞれ異なるし、光の方向も右から左から正面からとバラバラに違いない。それらを修正しつつひとつの画面に破綻なくまとめ上げなければならないからだ。

めんどくさそうな作業だし、そもそも他人の選んだ器を描くのだから気が進まないと思いきや、意外にも菅野は楽しかったという。なぜならこれらのカップを描いているとき、それぞれの所有者のことを思い、心のなかで会話したからだそうだ。それはおそらくカップだから可能だったのではないか。言葉を発するのも、カップから飲むのも同じ人の口だから。コロナ禍で人に会えないから友人たちのカップを描いたら、会話が成り立ってしまったという小さな奇跡。静物画が、ただの静物画ではなくなるかもしれない。

2021/10/04(月)(村田真)

中之条ビエンナーレ2021と原美術館ARC

[群馬県]

コロナ禍のため、スタートが遅れていた中之条ビエンナーレを、総合ディレクターの山重徹夫氏の案内により、伊参エリアの山間部を中心に、一足先に見学することができた。実は筆者にとって初めての訪問であり、聞いてはいたが、参加するアーティストのラインナップを含めて、確かにほかの芸術祭とだいぶ雰囲気が違う。必ずしも潤沢な予算ではなく、派手なアイコン的な作品はないが、長めの滞在制作がメインなので、やはり手をかけ、時間をかけた作品群は心を打つ。例えば、西島雄志による宙に浮かぶ鳳凰(旧五反田学校)や中村岳による屋外の大がかりな構築物(親都神社)のほか、鳥越義弘の室内インスタレーション(道の駅「雪山たけやま」)、古建築の瓦を再利用した三梨伸(やませ)、遺跡を制作する宮嵜浩(BOMBRAI WEST)(伊参スタジオ)、トモミトラベルのツアー(旧第三小学校)、CLEMOMOによる粘土群イサマムラ(旧伊参小学校)などが印象に残った。また今回はいつもより長期滞在組が少なかったり、海外組はオンラインの設営になったりしたとはいえ、「PARAPERCEPTION 知覚の向こうから」というコロナ禍を逆手にとったテーマを設定したことも興味深い。


西島雄志 作品展示風景



中村岳 作品展示風景



鳥越義弘 作品展示風景



三梨伸 作品展示風景



宮嵜浩 作品展示風景



旧第三小学校



旧伊参小学校


その後、2021年4月にリニューアルした原美術館ARCを青野和子館長の案内でまわった。ここは久しぶりの再訪だったが、山と自然に囲まれており、晴れた日にとても気持ちが良い建築である。増築された觀海庵へのアプローチから眺める風景も素晴らしい。また分棟型の展示室が、それぞれ外部と直接につながる開放的な空間は、磯崎新にはめずらしいデザインかもしれない。1988年の開館時から存在するピラミッド型屋根をもつギャラリーAは、現代アートの大型の作品も通用する空間である。磯崎新アトリエ出身の吉野弘の設計により、品川の原美術館から部屋ごと移設した奈良美智や森村泰昌のインスタレーションも、ギャラリーBやトイレの横などの新しい場所にぴたっと入っていた。ほかにも館の内外には、草間彌生、束芋、イ・ブル、オラファー・エリアソン、ジャン=ミシェル・オトニエル、鈴木康広などの作品が組み込まれ、常設で彼らの作品を楽しむことができる。また吹き抜けの開架式収蔵庫では、キリンアートアワード2003の展覧会で筆者が担当した名和晃平の初期作品と思いがけず再会した。


原美術館ARC



觀海庵へのアプローチ



ギャラリーA 奈良美智 展示風景


中之条ビエンナーレ2021

会期: 2021年10月15日(金)〜11月14日(日)
会場:群馬県中之条町 町内各所

2021/10/03(日)(五十嵐太郎)

新・今日の作家展2021 日常の輪郭/百瀬文

会期:2021/09/18~2021/10/10

横浜市民ギャラリー 展示室1[神奈川県]

「日常の輪郭」という一見穏やかな展覧会タイトルは、コロナ下で前景化した構造的な不均衡や国家権力による個人の身体の管理を想起せずにはおれない。本展は田代一倫と百瀬文の2人展だが、2フロアに分かれた展示構造は独立した個展の並置とも言え、本稿では百瀬にフォーカスして取り上げる。

百瀬の展示は、新作《Flos Pavonis》(2021)を中心に関連する過去作品を通して、「性と生殖の自己決定権のコントロールによって女性の身体を管理し、『生殖のための器官』に還元しようとする国家権力にどう抵抗し、連帯するか」を問いかける秀逸な構成だった。映像作品《Flos Pavonis》は、ポーランド人女性と「私」のメールの往復書簡のかたちを取り、2021年1月にコロナ下のポーランドで成立した人工妊娠中絶禁止法と抗議デモ、日本に残存する堕胎罪や「父親にあたる男性に中絶の拒否権が認められている」非対称性について語られる。タイトルの「Flos Pavonis」とは、ヨーロッパの植民地であったカリブ海地域に奴隷として連れてこられた黒人女性たちが、白人領主の性暴力による望まぬ妊娠に対する抵抗手段として用いた、中絶誘発作用を持つ植物の名である。この名を自身のブログに冠したポーランド人女性は、抗議デモへの参加ではなく、部屋にこもって「セックスフレンドとの避妊なしの性交」に明け暮れていると綴る。モノの媒介よりも体液を介する方がウイルス感染の危険性が高い世界では、それもまた「身体を管理する政治」への抵抗となる。そう応答する「私」は、「bitch」と「witch」の類似について語る。そして妊娠した彼女のために、日本では沖縄に生息する「Flos Pavonis」を取りに行って届けるからと告げる。「私の身体は私のものと自信を持って言えない世界なら、私が代わりにあなたの罪を引き受ける」「あなただけの魔女になるために」という台詞は、まさに「連帯」の強い意志を示すものだ。



百瀬文《Flos Pavonis》展示風景[撮影:加藤健]


また、過去作の《山羊を抱く/貧しき文法》(2016)は、フランス人画家が描いた、非白人によるヤギの獣姦の風刺画を百瀬が食紅で模写し、実際にヤギに見せて食べさせようとするプロセスの記録映像だ。ヤギに向かい合う百瀬が手に持つ綱は、「私たちも管理された家畜状態である」という紐帯を象徴的に示すが、その綱を手放すことはなく、拘束し続ける両義性を帯びてもいる。ヤギは最後まで模写の絵を食べてくれず、百瀬自身が紙を丸めて飲み込む衝動的なラストも含め、どう踏み出せばよいかわからない宙吊り感が残る。



百瀬文《山羊を抱く/貧しき文法》 2016年 シングルチャンネルビデオ 13分50秒


一方、《Born to Die》(2020)では、両端の開いたチューブ状のオブジェが映し出され、女性の吐息が発せられるのに合わせて開口部のライトが点灯する。3DCGによるクールな造形も相まって工業製品の部品のような無機質な印象だが、吐息は次第に荒く激しくなり、生々しい。この吐息には、インターネット上から抽出した、個人の出産ビデオとポルノ動画の音声が混ぜられている。文字通り「生殖のための器官」への匿名的で記号的な還元を提示することで、出産/ポルノの喘ぎという一見対極的なものが、「別の性や国家システムの一方的な支配下」に置かれている点では「区別不可能」な同質性にあることを暴き出す。



百瀬文《Born to Die》展示風景[撮影:加藤健]


この「穴」「トンネル状に貫通するチューブ」、そして《To See Her on the Mountain》(2013)でへそを石膏で型取って反転させた「山状の突起」といった形態、さらに「穴」から「突起」への変容や可塑性は、(本展出品作ではないが)遠藤麻衣との共作《Love Condition》(2020)につながる要素だ。《Love Condition》では、「理想の性器」について会話する二人が粘土を指でこね、突起の増殖やトンネル状の穴を貫通させ、新しい性器の形を可塑的で流動的なものとして開発していく。それは、「男性の欲望や射精中心主義的な快楽のための奉仕ではない」「生殖を唯一の正しい目的とする性規範や国家の人口計画のコントロール下にはない」地点から、「(女)性器」について語るというタブーを文字通り解きほぐし、「対話」を通して主体的に語り直そうとする点で、《Flos Pavonis》と対をなしている。



百瀬文 展示風景(手前《To See Her on the Mountain》、奥《Borrowing the Other Eye Gade》)[撮影:加藤健]


2021/10/03(日)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00058249.json s 10172425

ジャム・セッション 石橋財団コレクション×森村泰昌 M式「海の幸」─森村泰昌 ワタシガタリの神話

会期:2021/10/02~2022/01/10

アーティゾン美術館[東京都]

リニューアル・オープンしたアーティゾン美術館(旧・ブリジストン美術館)での、最初の写真作品を中心とした展覧会は、森村泰昌の大規模展だった。同美術館が所蔵する青木繁の「海の幸」(1904)を起点として、「M式」のジャム・セッションを繰り広げる本展は、まさに森村の面目躍如といえる好企画である。

森村はこのところ、日本の近代美術と自分自身のアーティストとしての軌跡を重ね合わせるような作品を発表してきた。本展も例外ではなく、彼の高校時代の美術部の海辺の合宿の記憶を辿りながら、青木の「海の幸」に描かれた「時間」のなかに分け入っていくという構成をとっている。「『私』を見つめる」「『海の幸』鑑賞」「『海の幸』研究」「M式『海の幸』変奏曲」「ワタシガタリの神話」の5部構成による展示は、緊密に練り上げられており、エンターテインメントとしての要素を取り込みつつも、日本人と日本近代美術史への鋭い批判も含んでいて、見応え充分だった。

注目すべきことは、コロナ禍という事情もあったようだが、いつもは「チーム」を組んで共同制作する森村が、衣装、メーキャップ、撮影、構成までをほぼひとりで行なったということである。だがそのことによって、画面作りの強度が高まり、いくつかのテーマに集中していく制作のプロセスが、より緊張感を孕んで浮かび上がってきた。「海の幸」を元にした10点の連作のスケッチ、資料、記録映像(監視カメラを使用)などをふんだんに提示し、いわば「舞台裏」をも同時に公開することで、観客を森村の作品世界に巻き込んでいくという意図が見事に成功していた。

それにしても、最後のパートで上映されていた、森村が青木繁本人に扮して、大阪弁で語りかける映像作品《ワタシガタリの神話》の完成度の高さは、凄みさえ感じさせる。国立国際美術館で2016年に開催された「森村泰昌:自画像の美術史 『私』と『わたし』が出会うとき」で上映された映像作品《「私」と「わたし」が出会うとき─自画像のシンポシオン─》を見た時にも驚嘆したのだが、森村の脚色、演出、演技のレベルは、とんでもない高さにまで上り詰めようとしている。

関連レビュー

森村泰昌「自画像の美術史 「私」と「わたし」が出会うとき」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年06月15日号)

2021/10/03(日)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00058641.json s 10172325