artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

鬼海弘雄「東京ポートレイト」

会期:2011/08/13~2011/10/02

東京都写真美術館 地下1階展示室[東京都]

鬼海弘雄の作品を見ていると、語呂合わせではないがいつも「魔」と「間」を感じる。1970年代から撮り続けられている「浅草のポートレイト」のどの一枚でもいい。写真の前に立って、そこに写っている人物の姿をじっと眺めていると、あたかも「魔」に見入られたような気分になってくる。目を離すことができなくなり、ここにいるのは何者なのか、なぜこんな姿でこの場所に出現しているのか、写真家はなぜ彼の前を行き交う無数の通行人からこの人物を選んだのか、この人はどこから来てどこに行こうとしているのか等々、次々に問いが湧き上がり、知らぬうちに長い時間が過ぎてしまうことになる。ふと我に返ってあたりを見回すと、自分の近くでやはり写真に見入っている観客の姿が目に入ってくる。その姿が、どう見ても鬼海が撮影した「浅草のポートレイト」の登場人物そのものなのでびっくりしてしまう。世間からはずれた、異形の人物たちを撮影しているようで、このシリーズはわれわれ一人ひとりのなかに潜む、普遍的とさえ言えそうな「人間」の存在の原型をあぶり出しているのではないだろうか。
今回の「東京ポートレイト」展で発表されたもうひとつのシリーズである「街のポートレイト」の凄みは、6×6判カメラの真四角のフレームの中にひしめく建物や看板の「間」に潜んでいる。シュルレアリスムの美学を思わせる、意表をついた異質な要素の組み合わせの隙間から、どこか不気味であり、笑いを誘うようでもある、なんとも奇妙な気配が立ちのぼってくるのだ。狙いを定めて獲物を撃つような浅草の人物写真と比較すると、鬼海の街の写真には投げやりとは言わないが、被写体の自律性に身をまかせる放心の態度を感じとることができる。それでもやはり、この一見優しげな「街のポートレイト」も相当に怖い。何気なく足を踏み入れると、やはり「魔」の世界に連れ去られて、帰って来られなくなりそうに感じるのだ。
鬼海弘雄は「魔」と「間」を自在に操る術を40年以上にわたって鍛え上げ、他の追随を許さない、そして写真という表現のメディウム以外では絶対に不可能な作品世界を確立してきた。その優れた成果を、今回の展示でしっかりと確認することができた。

2011/08/12(金)(飯沢耕太郎)

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田附勝『東北』

発行所:リトルモア

発行日:2011年7月30日

東日本大震災を契機に多くの作品の意味が変わってしまった。田附勝の新しい写真集『東北』もそのひとつだろう。2006年から東北6県の「山の民と海の民」の暮らしぶり、祭りや年中行事、風景やオブジェを6×6判のカメラで丹念に蒐集・記録した写真集である。闇の奥からぐっと前に迫り出してくるような写真群は、魂を直に揺さぶるような迫力がある。こってりと、ディープな色味を強調したカラー写真も、前作『DECOTORA』(リトルモア、2007年)以来の田附のトレードマークとして定着してきた。
だが、「3・11」によって、彼のなかにこのまま写真集を出していいのかという疑いが芽生えたようだ。岩手県釜石市で撮影された「April 1, 2011」の日付がある2枚の写真が、巻末に付け加えられている。だが重要なことは、この写真集に写しとられている風土と人物のたたずまいそのものが、東北の地霊を呼び出すような力を秘めていることだろう。以前、岡本太郎が1950~60年代に撮影した日本各地の祭礼の写真を見ていて、東北と沖縄の写真だけが突出したエネルギーの波動を感じさせるのに驚いたことがある。田附の『東北』からも、この土地に縄文以来のシャーマニズムの伝統がしっかりと根づいていることが伝わってきた。
おそらく震災以後、東北は大きく変貌せざるをえないだろう。何が変わり、何が続いていくのか、できれば田附にはこれ以後も長く撮影を続けていってほしい。

2011/08/12(金)(飯沢耕太郎)

橋本典久の世界 虫めがね∞地球儀

会期:2011/06/10~2011/08/11

GALLERY A4[東京都]

「パノラマボール」で知られる橋本典久の個展。日常風景を撮影した写真を球体に張り合わせた立体作品《Panorama Ball[パノラマボール]》のほか、昆虫を生きたままスキャンして人間以上のサイズまで拡大した写真作品《超高解像度人間大昆虫写真》、6本のLEDアレイを高速で回転することでパノラマボールを動画化した《Panorama Ball Vision[パノラマボールビジョン]》などを発表した。いずれもハイテクノロジーを駆使したメディアアートといえるが、それらが技術に耽溺した凡百のメディアアートと異なっているのは、そこにきわめて原初的な「視たい欲望」が一貫しているからだ。巨大で精緻な昆虫写真にあるのは、小さな昆虫の肢体に目を凝らす子どもの執拗な視線であるし、パノラマボールにあるのは、視線の対象を四角いフレームによって再現することへの徹底的な違和感である。その結果、つくり出された作品が私たちの視線に軽い衝撃を与えることは事実だが、その一方で、それが必ずしも人間の視線に馴染むわけではないところに大きな意味がある。私たちがほんとうに驚くのは、四角いフレームと平面がこれほど人間にとって自然化されているという事実である。

2011/08/11(木)(福住廉)

ヨコハマトリエンナーレ2011

会期:2011/08/06~2011/11/06

横浜美術館、日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)、その他周辺地域[神奈川県]

4回目を迎えたヨコハマトリエンナーレ。最低だった前回とは対照的に、今回はなかなか見応えのある内容になっている。BankART Studio NYKの会場は全体的にまとまりを欠いた展示だったとはいえ、横浜美術館のほうは作品の内容と動線を綿密に計算した展示構成が成功していたように思う。妖怪コレクションを見せる「湯本豪一コレクション」は取って付けたような印象が否めなかったが、それでも石田徹也とポール・デルヴォーを「階段」でつなぐなど、意外な組み合わせは楽しい。とりわけ、強い印象を残したのが蔡佳葳(ツァイ・チャウエイ)、ライアン・ガンダー、そして荒木経惟だ。幼い子どもが大人の手を洗うだけの蔡のシンプルな映像作品と、球体をモチーフにしたリヴァーネ・ノイエンシュワンダーの映像インスタレーションは、それぞれ心に染み入るほど深い感動を呼ぶ。前者は守るべき子どもに守られているからなのか、後者は廃墟を彷徨うシャボン玉の映像が行き場のない魂を連想させるからなのか。きわめつけが最後に展示された荒木で、さまざまな色が混合する美しい夕暮れの写真や愛猫チロが衰えてゆく写真は、人生の黄昏はおろか、人類の終わりをも暗示させる構成になっている。今回のヨコトリのテーマは震災に焦点を絞っているわけではないが、展覧会の来場者の眼には否応なく震災の影が落ちているから、そのように情動的に鑑賞してしまうのかもしれない。けれども、かりにそうだとしても、私たちの心を大きく揺さぶる展覧会であることにちがいはない。毒にも薬にもならないような無難な国際展が数多いなか、今回のヨコトリは川俣正がディレクターを務めた2005年に並ぶ国際展として大いに評価できると思う。

2011/08/10(水)(福住廉)

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黄金町バザール2011

会期:2011/08/06~2011/11/06

日ノ出町・黄金町界隈[神奈川県]

これも新・港村と同じくヨコトリ特別連携プログラム。京急日ノ出町駅から黄金町駅にかけての高架下周辺に密集するアヤシゲな店を改装し、アーティストのスタジオに再活用していく長期的プロジェクトで、3年前に始まった。広大なスペースの新・港村とは反対にこちらは街一帯に狭小なスペースが点在しているため、一軒一軒たずね歩く楽しみはあるものの、真夏は暑い。9月からは参加アーティストや作品が増えていくらしいが、この段階での注目は、竜宮美術旅館の志村信裕と樋口貴彦、八番館の北川貴好と雨宮庸介の作品。志村は旅館の風呂に湯を張って上からレース模様の映像を投影し、天井に揺らめく像を反射させるインスタレーションを発表。夜には実際に入浴できるという。元ラブホの風呂という淫靡な場所を最大限に生かした体験型の秀作だ。樋口は旅館の裏の空き地に古い山小屋を移築し、壁の中央に水平にガラスブロックを差し挟んだ作品を制作。ビルに囲まれた空き地に突如異空間を出現させるという力業だ。北川は黄金町界隈で拾い集めた百の電球を球状にした作品。アヤシゲな街だけにアヤシゲな色の電球も混じっていて、夜点灯するのが楽しみ。雨宮は狭い部屋の壁に斜めから映像を当てたものだが、その不定形の映像の輪郭に合わせて壁にキャンヴァスを置いている。これは絵画やイメージが前提としている正面性や四角形に揺さぶりをかけているようにもみえる。樋口を除いて一つひとつの作品規模は小さいだけに、かなり実験的な作品を試みることができたようだ。

2011/08/09(火)(村田真)

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