artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
善本喜一郎『東京タイムスリップ 1984⇔2021』
発行所:河出書房新社
発行日:2021/05/25
文句なしに面白い写真集だ。善本喜一郎は東京写真専門学校(現・東京ビジュアルアーツ)で森山大道、深瀬昌久に師事し、卒業後は『平凡パンチ』(マガジンハウス)の特約カメラマンとして仕事をしながら、仲間たちと東京・渋谷に自主運営ギャラリー「さくら組」を開設して活動していた。ちょうどその1984年頃に、東京の街頭を6×7判のカメラで撮影したモノクロームの写真群を、新型コロナウィルス感染症の緊急事態宣言中に整理していたら、あまりの面白さに「自分が撮ったことなど忘れて、すっかり見入って」しまったという。その後、写真に写っている場所が今はどうなっているのかが気になり出して、カラー写真で再撮影するようになる。それらの写真を、2枚並べて収録したのが本書『東京タイムスリップ 1984⇔2021』である。
写真を見ていると、風景が大きく変わった場所と、あまり変化のない場所とが混在しているのがわかる。写真集の冒頭に登場する「新宿駅東南口」などは、土地が削られて地形そのものが変わっているし、建物が消えたり、高層ビルが建ったりして大きく変貌したところも多い。とはいえ、新宿の「思い出横丁」や「ゴールデン街」のたたずまいはほぼ同じだし、ガード下の通路などがそのまま残っていることもある。写真からよみがえる記憶も同じで、まったく忘れてしまった場所もあるし、ありありと、視覚だけでなく匂いや手触りまでも含めて立ち上がってくることもある。それぞれの生のあり方に応じて「タイムスリップ」できるところに、本書の魅力があるといえるだろう。やや不思議なことに、これらの写真をSNSに上げると、1980年代の東京を知らない若い世代や外国人からも、ヴィヴィッドな反応が返ってくるという。どうやら記憶を再活性化する写真の力は、世代や国籍を超えて普遍的にはたらくようだ。
特筆すべきなのは、2枚の写真を同じ位置から、同じアングルで撮影する「定点観測写真」として成立させる善本の能力の高さである。建物や街路だけでなく、撮影時間、天候、たまたま写り込んだ通行人にまで配慮してシャッターを切っている。長年、商業写真やポートレートの分野で鍛えてきた技術力の高さが、見事に活かされた写真集ともいえる。
2021/05/18(火)(飯沢耕太郎)
ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声
会期:2021/04/03~2021/07/04
山口情報芸術センター[YCAM][山口県]
シンガポールを拠点とするアーティスト、ホー・ツーニェンの新作《ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声》は3対6面のスクリーンとVRによって構成されるインスタレーション。そこで扱われるのは哲学者の西田幾多郎や田辺元を中心に形成され、1930年代から40年代の日本の思想界で大きな影響力を持った「京都学派」の哲学者に関連するいくつかのテクストだ。
会場は「左阿彌の茶室」「監獄」「空」「座禅室」の四つの空間に分かれており、観客は最初の三つの空間でそれぞれ一対の映像を鑑賞したあと、「座禅室」でのVR体験に臨む。「座禅室」は蝶番のような役割を果たしており、VR空間内にはもうひと組の「左阿彌の茶室」「監獄」「空」「座禅室」が待っている。観客はスクリーンで鑑賞した映像のなかにVRを介して入っていくことになる。
「座禅室」でヘッドマウントディスプレイを装着し床に座った観客はまず、VR空間内の「座禅室」へと誘われる。そのまま動かずにいると「座禅室」の風景が続くが、座ったまま身動きすると空間は「左阿彌の茶室」へと移り、立ち上がればゆっくりと「空」へと上昇、横たわれば「監獄」へと沈んでいく。観客の動きや姿勢が空間の移動をもたらし、その移動する先々で観客は哲学者たちの「声」に耳を傾ける。
「声」といってもそれは哲学者たちの肉声ではなく、彼らが遺したテクストを現代の人間が読み上げたものだ。現実空間の「左阿彌の茶室」「監獄」「空」ではそれぞれ、VR空間で読み上げられることになるテクストの背景が説明されているのだが、それらはすべて、声と字幕による次のようなナレーションで始まる。「この作品に声を貸してくださることに感謝します」。
一体どういう意味だろうか、と思っている間に説明は「この作品では、アジアにおける日本の軍事行動が激化した1930年代から40年代にある日本の知識人グループが生み出したいくつかの理論的テクストを舞台に上げます。読んでいただくのは」と続き、どうやらこれを聞く「私」(?)は何らかのテクストを読むことになっているらしいことが了解される。「左阿彌の茶室」で重なり合う2枚のスクリーンではそれぞれ1941年に西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・鈴木成高によって実施された座談会「世界史的立場と日本」と西田幾多郎『日本文化の問題』が、「監獄」で背中合わせになった2枚のスクリーンでは三木清『支那事変の世界史的意義』と戸坂潤『平和論の考察』が、向かい合う2枚のスクリーンによって構成される「空」では田辺元『死生』が「読んでいただく」テクストとして示され、それぞれの背景の説明が続く。
なぜテクストを読むのかという疑問に答えは与えられぬまま、観客は「左阿彌の茶室」から「監獄」を経て「空」へと至り、「座禅室」のVRで哲学者たちの「声」を聞くことでようやく、自分がこれまで聞いてきたものが「声優」への指示だったのではないかと思い当たる。「左阿彌の茶室」「監獄」「空」の映像作品はその意味でも「座禅室」のVR作品の「背景」を見せるものになっているのだ。そう考えると、現実の「座禅室」で観客が見るべきものはVRではなく、ヘッドマウントディスプレイを装着して現実を遮断し、VRに没頭して奇妙なふるまいを見せるほかの観客の姿なのかもしれない。
スクリーンの「左阿彌の茶室」「監獄」「空」で指示されるテクストは(スクリーンでは「左阿彌の茶室」に登場した西田幾多郎『日本文化の問題』がVRでは「座禅室」で読み上げられることを除けば)、VR内のそれぞれ対応する空間で読み上げられているのだが、しかし同時に、観客の立ち位置は奇妙にスライドし、二重化されることになる。当然ながら、実際には観客はそれらのテクストを読み上げることはなく、聞き手の位置に留め置かれるからだ。
聞き手といってもその内実はさまざまだ。「監獄」で観客は独房に横たわり隣室から聞こえてくるらしい二人の哲学者、三木と戸坂の声に耳を傾ける囚人となる。「空」に昇った観客はモスグリーンの機体に赤いモノアイの(量産型ザクを思わせる)ロボットの群に囲まれ、気づけばその一体となって同じ方向へと向かっている。学徒動員が拡大されようとするなか京都帝国大学の公開講座として実施された田辺元『死生』を聞くうち、ロボットの機体はゆっくりと分解していき、私の(機)体もまた、宙に舞う塵のように消えていく。
「左阿彌の茶室」での観客は座談会「世界史的立場と日本」に速記者として立ち合った大家益造の立場に置かれ、卓上の紙に筆記をしている(ように観客が手を動かす)間は座談会の声が聞こえてくる。だが、その手を止めると、今度は大家自身が1971年になって発表した歌集『アジアの砂』から引用された短歌を読み上げる声が聞こえてくる。読み上げられる短歌のなかには戦時を振り返ったものも多く含まれており、戦争を正当化しようとする「世界史的立場と日本」との対比は痛烈なアイロニーをなす。
映像作品のなかには『アジアの砂』に関する情報も含まれているため、短歌を聞く観客はすぐにそれが大家自身の「声」だと気づくことになるだろう。だが奇妙なことに、作中で大家に「声」を提供した「声優」に「この作品に声を貸してくださることに感謝します」という言葉が捧げられることはない。そもそも、大家はすでに速記者として自らは沈黙し、哲学者たちの言葉を届けるというかたちで「声を貸し」ている。「声を貸」すものは自らの言葉を奪われるのだ。では、この作品に立ち会い現在を生きる観客はどうか。
さて、この作品には「声」を提供しながら謝辞を捧げられていない人物がもうひとりいる。「この作品に声を貸してくださることに感謝します」と語る当の本人である。文脈を考えればこれは作家自身の言葉だが、それが観客に届くまでには翻訳者と「声優」が介在している。透明化されたその存在は、しかし言うまでもなく「透明」ではあり得ないということも指摘しておかなければならないだろう。作家の来日が不可能になったためフルリモートで制作されたという《ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声》には、さらに多くの「透明」な存在が介在している。
公式サイト:https://www.ycam.jp/events/2021/voice-of-void/
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ホー・ツーニェン『一頭あるいは数頭のトラ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年03月01日号)
2021/05/16(日)(山﨑健太)
チェルフィッチュの〈映像演劇〉『風景、世界、アクシデント、すべてこの部屋の外側の出来事』
会期:2021/05/14~2021/05/21
チェルフィッチュの〈映像演劇〉『風景、世界、アクシデント、すべてこの部屋の外側の出来事』は4本の〈映像演劇〉によって構成される演劇公演/展覧会。2020年に札幌文化芸術交流センターSCARTS内のSCARTSコートで「初演」され、今回は穂の国とよはし芸術劇場PLAT アートスペースでの「再演」となった。
展覧会形式の〈映像演劇〉としては2020年に熊本市現代美術館で「初演」された『渚・瞼・カーテン』に続く第二弾。「境界」のモチーフは通底しながら、6本の独立した作品が並ぶ印象の強かった『渚・瞼・カーテン』から一転、『風景、世界、アクシデント』は足立智充と椎橋綾那の二人の俳優は共通しつつも形式の異なる四つの作品をひとつの空間に配置し、あるひとつの部屋を舞台にした趣の演劇公演/展覧会となっていた。
会場に入ってまず目に入るのは《カーテンの向こうで起きていること》。設置された壁面の前に2枚の白いレースカーテンが引かれている。そこに映し出される女(椎橋)はベランダにやってくる小鳥や空に浮かぶ雲の形など、カーテンの向こうの風景について語る。公園に出没する不審者、近づきつつある台風、踏切事故と不穏さを増していく語りはやがて、世界のあちこちで起きている災害の話に至る。だが、目にすることのない人たちの存在を気にかけることはほとんどないしこれからもないだろう、と「あなたは思ってる」と女は語る。「カーテンの向こう」はあちらかこちらか。存在しない線引きをしているうちに世界は転覆するだろう。時折ふわりと舞い上がるカーテンの向こうに女の実体はない。
会場の中央に置かれているのは《高い穴のそばで》。天板に「穴 hole」と書かれた丸テーブルに近づくと上方から男女(足立、椎橋)の声が聞こえてくる。「あなたは穴の底を覗き込もうとしている」という男に「わたしは穴の底を覗き込もうなんてしていない」と応じる女。男は穴の底にいるらしい。「考えるべきことはいつだって山ほどある。穴に気をとられてなんている場合じゃない」という女が穴に放った「小さな石のような物」は女がそれを忘れた頃に穴の底に届き「わたしを殺すだろう」と男は言う。丸テーブルの下の床面には真上からの光で黒い円形の影が描かれている。私の立つここは穴の縁かそれとも底か。
奥の壁面には《仕切り壁が仕切りを作っている》。壁にもたれながら話す男(足立)。すぐ横の壁にはガラスの嵌め込まれた縦長のスリットがあり、会場の外のカフェスペースでくつろぎ談笑する人々が見える。「世界は日に日に狂っていってる/ほとんどの人間は/そのことをあまり気にせず生きている」。平和な光景の背後でゆっくりと狂いゆく世界。「誰かが働きかけなければ、世界は正常化しない」と語る男が抱くのは革命への意志のようにも陰謀論に染まった狂気のようにも響く。
今回の展示ではここまでの3作品がひとつのループとして上演されており、観客は(入場のタイミングにもよるが)作品に誘導されるようにして会場の奥へと歩みを進めることになる。一方、《仕切り壁が仕切りを作っている》と向かい合う壁面では《ダイアローグの革命》が単独でループ上演されている。しかし、こちらはヘッドホンを装着して音声を聴く形式のため、壁面に映し出される男女の言葉が会場を歩き回る観客に届くことはない。観客はゆったりとしたひとり掛けのソファに腰を下ろし、ヘッドホンを装着することで、ようやく男女の声を聴くことができる。
「この世界をすぐにでも変えたい」と語る女と「世界が真に変わっていくことは、ゆっくりとした仕方でしか起こらない」と語る男。女は変革の実現のためには手段は正当化されると言い、男は正しい方法で変革を実現するために長い時間をかけなければならないと言う。両者の言葉は平行線を辿り、そもそも言葉を発する二人は互いの存在を認識していないようにも見える。男女はつねに正面を向いたままだ。時折、分身のようなもうひとりの男女が現われ短い言葉を発して去っていく。その言葉は未来からやってきた者のそれのようにも響くが二人はまるで別のレイヤーに存在しているようにときに平面上で重なり合い、干渉することがない。「ダイアローグの革命」とはその不能を示す言葉だろうか。沈黙した二人は私の方を見据え、しばしの後に去っていく。二人の言葉は私に向けられていたのかもしれない。
展示会場を出て振り返ると、スリットから会場内部の様子が見えた。壁の向こうで語っているはずの《仕切り壁が仕切りを作っている》の男の姿は私には見えず、薄暗い会場内に立つ観客たちが考えていることを私が知る術もない。展示会場からは能天気にも見えたカフェスペースを通り抜け、私は建物の外へ出る。世界には無数の境界が引かれていて、しかしどこまでもつながっている。
チェルフィッチュ:https://chelfitsch.net/activity/2021/02/eizo-toyohashi.html
穂の国とよはし芸術劇場PLAT:https://www.toyohashi-at.jp/event/performance.php?id=965
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2021/05/14(金)(山﨑健太)
桝本佳子「Blue Birds/Blue Ceramics」
会期:2021/05/06~2021/06/25
ワコールスタディホール京都 ギャラリー[京都府]
器に絵付けされたモチーフが、器の表面から立体的に飛び出す。鳥、松、タコ、鹿、五重塔、埴輪、果てはスペースシャトルまでが唐突に器と合体し、陶彫刻とも壺ともつかないバランスで佇み、ナンセンスな笑いを誘う。陶芸家の桝本佳子は、「器の表面を彩る装飾モチーフ」を器(本体)への従属から解放し、三次元の物体である器の表面に描かれた二次元の装飾を再び立体化することで、「彫刻/工芸」「機能/装飾」「本質/付随物」というヒエラルキーの解体や「二次元/三次元」の複雑な往還をユーモアとともに企てる。飛び出す絵本のような親しみやすさと、超絶技巧の細部が魅力だ。
本展では、ドイツのシャルロッテンブルク宮殿にある東洋磁器のコレクション「磁器の間」を見たときの衝撃的な経験を元に、75点の器で構成された迫力あるインスタレーションが展開された。青い染付を施した皿や壺が壁一面に左右対称に並べられ、その厳格なシンメトリーと拮抗するように、器から飛び出したカモメやトンビなどの海鳥が翼を広げて縦横無尽に飛び交う。海鳥の体は器と融合するかのように鮮やかなコバルトブルーの濃淡で染められ、青海波、松、浦島太郎、魚など「海」と関連の高いモチーフの装飾紋様がその体を浸食し、リズミカルなアクセントを添える。だがなぜ、大量の皿や壺を壁にシンメトリックに並べたのか。なぜ、「海鳥」が選択されたのか。
1706年に完成したシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」をはじめ、17~18世紀のヨーロッパ諸国では、当時はまだ生産技術を持たなかった白く輝く磁器を中国や日本から輸入し、王侯貴族たちが財力や権力を誇示するためのコレクションルームが数多くつくられた。東洋磁器の海洋貿易の中心を担ったのが、17世紀初頭にオランダで設立された東インド会社である。ヨーロッパへ運ばれた東洋磁器は、城館の室内装飾のために用いられ、暖炉の上の飾り棚とその背面に貼られた鏡を中心に、大量の皿や壺を左右対称に配置して壁全体を覆い尽くす「鏡の間」「磁器の間」が生み出された。
こうした東洋磁器を用いたヨーロッパ独自の室内装飾様式と、江戸時代から現代に至る陶磁器、掛物、織物、漆器の紋様を参考にした桝本の本作は、海を越えた東洋磁器の旅や交易史を「海鳥」によって示すとともに、「写し」「コピー」「模倣」をめぐる東西の工芸史の問題も射程にとらえている。当時ヨーロッパへ輸入された東洋磁器は、ヨーロッパ各地での磁器焼成技術の開発を促し、シノワズリ(中国趣味)という新たな装飾様式を生み出したと同時に、高い商品価値のため、多くの模倣品を生み出した。一方、日本の美術工芸の歴史においては、「写し」は「オリジナル」の下位に置かれる粗悪なコピーではなく、技術的習得や先人の卓越した技能に対する称賛の表われといった積極的な意味や役割を持っている。さらに、「磁器の間」に代表されるコレクションは、異文化への憧憬の眼差しと同時に、元の文脈から剥奪された物品を大量に集積することで富と権力を誇示する政治的機能を担っており、文化的覇権力の装置でもある。
「異文化の物品の大量所有によって文化的・政治的覇権力を誇示する装置」としての室内装飾様式それ自体を模倣・コピーするという手続きをとる本作において、「権力の器」としての厳格な秩序構造のなかに侵入し、あるいは飛び立とうとする鳥たちは、それを内部から攪乱し、解放を企てているようにも見える。「器」の概念を、単体としての器から、それらを内包する権力の視覚化装置へと拡張して介入し、「写し」「コピー」をめぐる東西の工芸史・装飾史へとスケールを拡げた本展は、新たな局面を切り開くものだと言える。
桝本佳子公式サイト:http://keikomasumoto.main.jp
2021/05/14(金)(高嶋慈)
森下大輔「Dance with Blanks」
会期:2021/04/16~2021/06/05
PGI[東京都]
確か、森下大輔のデビュー写真展「重力の様式」(新宿ニコンサロン、2005)を見ているはずだ。それ以来、何度か個展、写真集などで彼の写真に接しているのだが、その印象はあまり大きく変わっていない。モノクロームの銀塩写真にこだわり、特定の意味に収束するような被写体は注意深く避けて、モノや風景を、彼なりの美意識できっちりと統御して画面に配置する。今回の個展のテーマである「Blanks(空白)」もずっと一貫して取り上げられてきた。
とはいっても、写真の幅は意外に広い。「Blanks」にもいろいろあって、レンズの前に何かが置かれたことによる黒っぽい影(陰)、空や壁、穴のようなもの、何かと何かの間など多岐にわたる。仏教用語の「空(くう)」に近い概念にも思えるのだが、厳密な定義はあえておこなわず、「Blanks」という言葉の広がりを楽しみつつ形にしているように見える。そんな自由なアプローチの仕方は、今回の個展でもうまくはたらいていた。ただ、ではこれらの写真群から、何か際立ったメッセージが伝わるのかといえば、そうとはいえない。個々の写真はよくできているのだが、「こうでしかない」という切実さがあまり感じられないのだ。
そろそろヴァリエーションを増やすのではなく、構造化していく時期に来ているのではないかと思う。被写体の幅は保ちながら、抽象的な概念に拡散させずに、このような写真を撮り続けていることの意味を、もっと強く見る者にアピールすべきだろう。モノクロームの銀塩写真という方法論も、このままでいいのかどうか検討してもいいかもしれない。PGIでの個展は初めてだそうだが、これをきっかけにして次のステップに踏み込んでいけないだろうか。
2021/05/12(水)(飯沢耕太郎)