artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

川崎昌平 個展「グランドオープン」

会期:2009/06/17~2009/06/25

創造空間9001[神奈川県]

勝手に他人を撮って勝手なコメントを貼りつけたデビュー作(たしか卒制で見た)をはじめ、映像や写真(インクジェット出力)の展示。どれもお手軽につくってるようでちゃんとアートになってるところは、さすが芸大というべきか。とりわけ、ジャラジャラ出てくるパチンコ玉を携帯の動画撮影機能を利用して撮った映像が美しい。

2009/06/19(金)(村田真)

市川建治 展 花と夢

会期:2009/06/17~2009/06/28

Art Center Ongoing[東京都]

会場に足を踏み入れると、そこにはおっぱいがいっぱい。エロ本の写真を正方形に切り抜き、それらをもとに花々のかたちにコラージュした平面作品や立体作品が展示されていた。とくに平面作品は全体的な視点と個別的な視点によって見分けるとおもしろい。距離をとって全体を見渡してみると、膨大なピクセルの集合によって成り立つデジタル画像を無理やり拡大した図像のような味気なさを感じるが、ひとたび近づいて凝視してみると、女体の集合が醸し出す匂いにむせ返るほどだ。といっても、それらの個別的な図像は唇や下着、腋など、あくまでもパーツに限られているから、いずれも匿名性を帯びており、だからエロティシズムというより、むしろフェティシズムを強く感じさせている。同じように作られた立体作品には、植物の芽が植えられ、再生のイメージが強調されていたが、「エロ本」というメディアがすでに瀕死の状況にあることを考えると、むしろ死のイメージのほうが際立っており、その「生」と「死」の両極を丸ごと画面に定着させようとするフェティッシュな視線が力強くも頼もしい。

2009/06/19(金)(福住廉)

北島敬三『JOY OF PORTRAITS』

発行所:Rat Hole Gallery

発行日:2009年5月

Rat Hole Galleryから北島敬三「PORTRAITS」展に合わせて刊行された分厚い写真集が届いた。「PORTRAITS 1992-」の巻と、「KOZA 1975-1980」「TOKYO 1979」「NEW YORK 1981-82」「EASTERN EUROPE 1983-84」「BERLIN, NEW YOYK, SEOUL, BEIJING 1986-1990」「U.S.S.R. 1991」というスナップショットを集成した巻の二部構成、700ページを超えるという大著であり、これまでRat Hole Galleryから出版された写真集のなかでも、最も意欲的な出版物の一つといえるだろう。ずっしりとした重みとハードコアな内容は、これだけの本をよく出したとしかいいようがない。
とはいえ、特に「PORTRAITS」のシリーズについて、展示を観たときに感じたすっきりしない思いが晴れたかといえば、どうもそうではない。倉石信乃による懇切丁寧な解説を読んでも、なぜ北島があらゆる意味付けを拒否するような「『顔貌』それ自体の出現・露呈」にこだわらなければならないのか、まったく理解できないのだ。
倉石が詳しく跡づけているように、白バック、白シャツ、正面向き、というような厳しい条件を定め、なおかつあまり特徴のない「壮年」の人物(老人、子ども、外国人、極端なデブなど特徴のある容貌は注意深く排除される)を選別することによって、見る者の想像力は北島が設定した水路の中に導かれ、それ以外には伸び広がらないように限定される。それはポートレートにまつわりつく「エキゾティシズム」を潔癖に拒否するという志向のあらわれだが、そもそもなぜ「エキゾティシズム」をここまで悪役に仕立てなければならないのか。さらにいえば、それならなぜ「エキゾティシズム」の極端な肥大化というべき彼自身のスナップショットを、わざわざ同じ写真集に別巻としておさめているのか。最近のインタビューで、北島は「『PORTRAITS』と同じような手つきで、スナップショットの写真も扱えるのではないか」(『PHOTOGRAPHICA』Vol.15 2009 SUMMER)と述べているが、その「手つき」とはいったい何なのか。この試みは、倉石が指摘するようにある種の「アーカイブ」の構築なのだが、その「アーカイブ」はいったい誰のためのものなのか。それがモデルのためでも、観客のためでも、ましてや未来の人類のためでもないのはたしかだろう。北島敬三による北島敬三のための「アーカイブ」、それ以上でもそれ以下でもないのではないか。疑問は尽きない。

2009/06/17(水)(飯沢耕太郎)

アール・イマキュレ 希望の原理

会期:2009/06/13~2009/06/21

CCAAアートプラザ(ランプ坂ギャラリー)[東京都]

「アール・イマキュレ(無垢の芸術)」とは、ダウン症の人たちがつくりだす芸術作品のことで、その特徴は「自然との一体感、調和を求める心、機知とユーモア」など特有の感性にあるという。本展は、彼らによる絵画、立体、エッチング、コラージュ、タペストリーなど50点あまりを公開したもの。それらの大半は、色を縦横無尽に塗り重ねた作品で、いかにも「無垢な芸術」といえばそうなのかもしれないが、こうした形式的特徴が「自然との一体感、調和を求める心、機知とユーモア」といった芸術的な意味と結びついているようには到底思えない。ダウン症の人たちによる芸術表現を持ち出すのはよい。けれども、それらを「希望の原理」として賞揚するのであれば、それぞれの作品をそのように価値づける言説レベルでの正当化が必要不可欠である。本展のカタログに掲載された中沢新一と長谷川祐子によるテキストは、その役割を果たすにはあまりにも不十分であり、まったくもって用をなさない。「研究」というのであれば、ダウン症の人たちによる芸術表現がなぜ同じような形式的な傾向を帯びているのか、そのメカニズムを解明することによって、それがいかに人類にとっての希望の原理となりうるかを実証的に論証しなければならない。

2009/06/17(水)(福住廉)

村山秀紀「ぎゃまんを遊ぶ」展

会期:2009/06/16~2009/06/28

アートスペース感[京都府]

表具師の村山秀紀が、現代のライフスタイルに適応した掛軸や屏風、表装の技術を生かした平面作品などを展覧。作品に多用されているガラスのオブジェは、ガラス作家の神田正之が制作した。展示はホワイトキューブと和室からなるギャラリー空間を生かしたもので、ホワイトキューブではどちらかといえば洋間向き、和室では伝統を重んじつつもフレキシブルに対応可能な作品が見られた。洋間でも床に敷物(今回は鉄板だった)を置けば簡易な床の間空間が作れるとか、屏風を表裏リバーシブルにして、TPOに応じて使い分けられるようにするなど、アイデア満載なので見ていて楽しい。また、表具師としての技術も堪能できる作品だったので、アイデア倒れに終わらず説得力十分だった。日本で美術作品の普及がはかどらない理由のひとつに住宅環境の貧しさがあると思うが、工夫次第でその短所をカバーできることを示した村山の提案に大いに賛同する。

2009/06/16(火)(小吹隆文)