artscapeレビュー
北島敬三『JOY OF PORTRAITS』
2009年07月15日号
発行所:Rat Hole Gallery
発行日:2009年5月
Rat Hole Galleryから北島敬三「PORTRAITS」展に合わせて刊行された分厚い写真集が届いた。「PORTRAITS 1992-」の巻と、「KOZA 1975-1980」「TOKYO 1979」「NEW YORK 1981-82」「EASTERN EUROPE 1983-84」「BERLIN, NEW YOYK, SEOUL, BEIJING 1986-1990」「U.S.S.R. 1991」というスナップショットを集成した巻の二部構成、700ページを超えるという大著であり、これまでRat Hole Galleryから出版された写真集のなかでも、最も意欲的な出版物の一つといえるだろう。ずっしりとした重みとハードコアな内容は、これだけの本をよく出したとしかいいようがない。
とはいえ、特に「PORTRAITS」のシリーズについて、展示を観たときに感じたすっきりしない思いが晴れたかといえば、どうもそうではない。倉石信乃による懇切丁寧な解説を読んでも、なぜ北島があらゆる意味付けを拒否するような「『顔貌』それ自体の出現・露呈」にこだわらなければならないのか、まったく理解できないのだ。
倉石が詳しく跡づけているように、白バック、白シャツ、正面向き、というような厳しい条件を定め、なおかつあまり特徴のない「壮年」の人物(老人、子ども、外国人、極端なデブなど特徴のある容貌は注意深く排除される)を選別することによって、見る者の想像力は北島が設定した水路の中に導かれ、それ以外には伸び広がらないように限定される。それはポートレートにまつわりつく「エキゾティシズム」を潔癖に拒否するという志向のあらわれだが、そもそもなぜ「エキゾティシズム」をここまで悪役に仕立てなければならないのか。さらにいえば、それならなぜ「エキゾティシズム」の極端な肥大化というべき彼自身のスナップショットを、わざわざ同じ写真集に別巻としておさめているのか。最近のインタビューで、北島は「『PORTRAITS』と同じような手つきで、スナップショットの写真も扱えるのではないか」(『PHOTOGRAPHICA』Vol.15 2009 SUMMER)と述べているが、その「手つき」とはいったい何なのか。この試みは、倉石が指摘するようにある種の「アーカイブ」の構築なのだが、その「アーカイブ」はいったい誰のためのものなのか。それがモデルのためでも、観客のためでも、ましてや未来の人類のためでもないのはたしかだろう。北島敬三による北島敬三のための「アーカイブ」、それ以上でもそれ以下でもないのではないか。疑問は尽きない。
2009/06/17(水)(飯沢耕太郎)