artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ
会期:2020/06/02~2020/10/11
国立国際美術館[大阪府]
個人の生や記憶と、それを翻弄する大文字の世界史の「物的証拠品」を収集し、ミュージアムを擬態した空間に再配置し、加工や組み合わせを施すことで、連想的交通と新たなナラティヴを「もの」に語らせること。と同時に、輸送用クレートや木箱、段ボール、剥き出しの仮設壁といった、権力装置としてのミュージアムを支える不可視の物理的基盤を見せることで、偽装空間とナラティヴに亀裂や綻びを入れること。さらに、仮設壁で囲われた閉鎖的空間を入れ子状に出現させ、手足を切断されて断片化されたキリスト像や古代ローマ彫刻を接合し、スーツケースやウイスキーの木箱に詰める操作は、仮設性や移動、流通、継ぎはぎされたアイデンティティを強調すると同時に、移民の流動的な生、「商品」として国境を超えて輸送される労働力、難民収容所、隔離や居住制限を課す権力を暗示する。このように、歴史のナラティヴ、ミュージアム、輸送や移動、移民・難民、流動性と隔離をめぐって、共鳴と輻輳をもたらし、同時に衝突し合う複雑な力学が、ヤン・ヴォーの入念な計算と抑制が施された個展会場の基底をなしている。
本展は、日本の美術館では初となるヴォーの個展。1975年にベトナムで生まれたヴォーは、ベトナム戦争終結によって社会主義国となった祖国から、4歳の時に父親手製のボートで脱出し、海上でデンマークの船に救助され、難民キャンプを経てデンマークへ移住した。そうした個人的経歴と、その背後にある大文字の世界史が、ヴォーの作品制作を動機づけている。例えば、《セントラル・ロトンダ/ウィンター・ガーデン》(2011)で、輸送用クレートに詰められたままの豪華なシャンデリアは、19世紀末にパリでホテルとして建てられ、のちにフランス外務省管轄下となった建物の大広間に飾られていたものである。1973年、このシャンデリアの下でベトナム戦争を終結するパリ和平協定が調印され、ベトナムは南北統一と社会主義体制へ移行し、ヴォー一家の祖国脱出の要因となった。ヴォーはここで、「権威の象徴」としての豪華なシャンデリアを、「(自身がかつてそうであった)難民」の代わりに「檻」=クレート内に閉じ込めることで、自由を剥奪された存在を反転したかたちで差し出す。また、ベトナム戦争当時の米国防長官ロバート・マクナマラが所蔵していたケネディ政権閣議室の椅子はバラバラに解体され、木材、詰め物、釘といった構成物質に還元される。展示会場に点在する仮設壁のパネル、テーブルなどは、マクナマラの息子が所有する農場から切り出された木材が使用されている。また、大理石の巨大なテーブルの表面にびっしりと赤い刻印で刻まれているのは、1648年から1962年の間に東南~東アジアで処刑されたカトリック教徒の名前であり、「和平のテーブル」として先のシャンデリアと呼応しつつ、フランス語で綴られた国名は、ベトナムと旧宗主国のポストコロニアルな関係を暗示する。だがこうした「情報」は、作品リストに簡潔に記されるのみで、会場には説明的なキャプションは禁欲的なまでに一切排されている。
一方で展示物は、組み合わせによる文脈の置換や連結の作用により、大文字の歴史と政治的な地政学を、より個人的で微妙でささやかな声による語りへと開いていく。アメリカが1965年にジェミニ4号で初めて宇宙遊泳に成功したことを物語る、見逃してしまいそうな小さな銀製のタグと十字架、そして宇宙遊泳の飛行士の身体を断片的に捉えた抽象的な写真。それらは、同年に本格的な軍事介入が始まったベトナム戦争を不在のネガとして浮かび上がらせつつ、断片化された身体像や同時期の「アポロ」計画への連想は、ギリシャ神話のアポロ神を介して切断された大理石の青年裸体像と結びつき、なだらかな丘陵のような筋肉の起伏や滑らかな表面に漂う仄かなエロティシズムは、私的なセクシュアリティをほのめかす。
最後に、本展は当初、4月4日に開幕予定だったが、世界的なパンデミックの影響で作品到着が遅れ、約2か月遅れでオープンした。輸送用クレートや木箱に梱包されたままの「作品」たちが点在する会場は、移民の流動的な生や安価な労働力の輸送としての擬人化を示しつつ、「コロナ禍の状況下における美術輸送」の問題をはからずも体現していた。
2020/06/13(土)(高嶋慈)
東京2020 コロナの春 写真家が切り取る緊急事態宣言下の日本
会期:2020/06/11~2020/06/28
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言の解除を受け、ようやく休止していたギャラリー、美術館の展示も再開に向かいつつある。そんななかで、いち早く東京・目黒のコミュニケーションギャラリーふげん社で、写真家たちの作品とメッセージで「コロナの春」をふり返る企画展が開催された。参加者は、Area Park、大西みつぐ、オカダキサラ、蔵真墨、GOTO AKI、小林紀晴、佐藤信太郎、John Sypal、田口るり子、土田ヒロミ、田凱、中藤毅彦、新納翔、橋本とし子、普後均、藤岡亜弥、港千尋、元田敬三、山口聡一郎、Ryu Ikaの20名である。
同展は土田ヒロミを呼びかけ人として急遽決まった企画だが、非日常的な状況下で、写真家たちがどんなふうに行動したのかがとても興味深い。その対応は、外向きと内向きのどちらかに分かれているように見えた。街に出て、誰もいない街頭にカメラを向けたり、マスクの人物を写したりした写真はもちろんある。だが、逆に身の周りの情景や、家族、自分自身に意識を集中した写真がかなり多かったのはやや意外だった。大西みつぐは、自分の手とその影を撮影した写真に「個に徹することで、ひたすらその存在意義を絶えず自身に突きつける」とコメントを寄せている。田口るり子は自分の髪を切るセルフポートレート、小林紀晴はベランダに張ったテントからの眺めの写真を出品した。普後圴は餃子とソーメン、蔵真墨はソラマメと、身近なものを被写体としている。土田ヒロミは1979年に上野公園で撮影した「砂を数える」シリーズを、定点観測で再撮影した。このような自己確認の写真を梃子にして、新たな写真の方向性が見えてくることを期待したい。
「コロナの春」が写真の世界にどんな影響を及ぼしていくのかは、むろんまだわからない。だが、けっしてネガティヴなことだけではないはずだ。それぞれの写真家たちにとって、立ち止まり、息を継ぎ、さらに前に進むための、とてもいい機会となったのではないだろうか。
2020/06/13(土)(飯沢耕太郎)
中里和人写真展「光ノ漂着」
会期:2020/06/08~2020/06/27
巷房ギャラリー[東京都]
日本は海に囲まれた島国なので、日本海流、対馬海流、千島海流、リマン海流などが自然・社会・文化に大きな影響を与え続けてきた。中里和人は、このところ、そのことを写真で検証しようとする作品を制作・発表している。今回の「光ノ漂着」は、2018年に同じ会場で展示し、蒼穹舎から写真集を刊行した「Night in Earth」の続編にあたるシリーズで、海流に乗って日本各地の海岸に打ち上げられたさまざまな漂着物を題材にしている。
漂着物を撮影したり、それらを使ってオブジェ作品を作ったりすることは、それほど珍しくはない。だが中里は、おそらくこれまで誰も思いつかなかった方法で作品を制作した。海辺で拾い集めた漂流物を、古い幻燈機の中に入れ、近くの岸壁、土壁などに投影する。その画像をデジタルカメラで撮影するのである。つまりプリントに写っているのは、反射光によって浮かび上がるおぼろげな物体の像と、スクリーン代わりの壁のテクスチャーとの合体像ということになる。その幻影と現実のあいだに宙吊りになったイメージのたたずまいは、じつに魅力的で、まさに「モノとヒカリの窯変」としかいいようがない。会場には、実際に拾い集めた漂流物そのものも展示してあったが、その思いがけない変容には、写真家の思惑を超えた奇跡が呼び込まれているように感じる。
今回の展示は、北海道から沖縄まで50カ所あまりで撮影したという労作だが、この「海流シリーズ」はまだこの先もしばらく続きそうだ。次作も期待できるのではないだろうか。
関連レビュー
中里和人「Night in Earth」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年10月01日号)
中里和人「惑星 Night in Earth 」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年05月15日号)
中里和人『lux WATER TUNNEL LAND TUNNEL』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年11月15日号)
中里和人「光ノ気圏」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2014年03月15日号)
2020/06/12(金)(飯沢耕太郎)
オラファー・エリアソン ときに川は橋となる
会期:2020/06/09~2020/09/27
東京都現代美術館[東京都]
10年前に金沢で見たとき、よくできてるとは思うけど、それ以上特に感銘を受けなかったなあ。今回もやっぱり同じ。いや前回以上によくできてるだけに、なんの引っかかりもなく素通りしてしまう。もちろんエコロジーとかサステナビリティとか理論的裏付けはあるのだが、そうであればあるほどまるで優等生の解答を見ているようなある種の空しさを感じるのだ。あるいは、チームラボみたいにその場では十分に楽しめるのに、あとになにも残らないみたいな。それで十分といえば十分なんだけど、ぼくが期待するアートではない。
会場に入ると、最初に茫洋とした水彩画があるが、これは紙の上に置いたグリーンランドの氷河の氷が解けて顔料と混ざり合ってできたにじみだそうだ。その次の円形のドローイングは、作品を運ぶ際、二酸化炭素を多く排出する飛行機の輸送を避け、ベルリンから日本まで鉄道と船で運んだときの輸送中の揺れを記録したもの。どちらも環境汚染に対する警鐘ともとれるが、作品自体は偶然による産物にすぎない。
ガラスの多面体に光を当て周囲に反射させる《太陽の中心への探査》(2017)は、ソーラーエネルギーによって動かしているそうだ。とても美しい作品だけど、ソーラーエネルギーを使ってるとかいちいち弁解がましくも聞こえる。床に置かれたライトの前を通ると壁に虹色の影が映る《あなたに今起きていること、起きたこと、これから起きること》(2020)や、天井から吊った円形のガラス板に光を当て、重なり合う色の変化を楽しむ《おそれてる?》(2004)は、色彩のスペクトルを応用したライトアート。吹き抜けの大空間には、展覧会名にもなった新作《ときに川は橋となる》(2020)があり、円形の容器に張った水の揺らめく波紋を頭上のスクリーンに映し出している。
どれも実によくできているし、とても美しいのだが、原理的には光や色彩の性質を利用したライトアートだったり、偶然性を応用したオートマティスムだったりして、20世紀の前衛が試みてきた手法だ。もちろんそれを新たな装いの下に完成度を高め、環境問題への注意を喚起している点は評価もできるのだが、かえってそれがあざとさを感じさせるのも事実。
2020/06/11(木)(村田真)
渡辺篤「修復のモニュメント」
会期:2020/06/01~2020/07/26
BankART SILK[神奈川県]
コロナ禍の影響によって見ることができなくなった展覧会は多いが、逆のパターンもある。てっきり、もう見逃したと思っていたら、会期が変更されたおかげで、BankART SILKにおいて渡辺篤「修復のモニュメント」展を鑑賞することができた。これは社会から孤立した人間の声を発信していく彼の「アイムヒア プロジェクト」の一環であり、今回はひきこもりの人たちと対話しながら、その原因を探りつつ、コンクリートの記念碑をつくっている。が、展示されていたのは、それをハンマーで破壊した後、金継ぎの技法によって修復した作品だった。つまり、完全に傷が消えるわけではない。かたちは元に戻るが、金継ぎのラインは目立つ傷跡となる。ゆえに、鑑賞者は破壊と再生のさまざまな痕跡に出会う。入口の壊れたドア、卒業式の記憶を思い返す文章、傷を負った脳や心臓の作品など、現代の震える精神が、会場のあちこちで痛々しい実体を伴う造形物になっている。また展示の手法として印象に残ったのは、仮設壁に穴をあけ、その内部に設置された作品もあったこと。
実は昨年、ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2020の日本館のキュレーターを決定する指名コンペにおいて、日建設計の山梨知彦によるプランは、社会からの切断という現代都市の問題をテーマに掲げ、アーティストの参加を提案していた。そして「ひきこもり」は渡辺、「幼児虐待」は見里朝希、「孤独死」は小島美羽の作品が対応していた。
結局、山梨案は選ばれなかったが、彼の著作『切るか、つなぐか? 建築にまつわる僕の悩み』(TOTO出版、2020)でも、このプランを紹介していた。山梨は、渡辺へのヒアリングから、「ドア一枚で社会との接続を切ることができる現代の住まいは、ある意味ひきこもりが必要としている空間」であること、「現代の都市住居が、社会との距離をうまく取り切れていないことに問題がある」という知見を得て、マンションのドア、バルコニー、掃き出し窓などのデザインに疑問を投げかけていた。
ところで、パンデミックによって世界で発生したのは、感染を恐れて、皆が外出しなくなる、総ひきこもりの現象ではなかったか。もし、山梨案が選ばれていたら、社会との切断は、当初、想定していたものと異なる、新しい意味を獲得していたかもしれない。
2020/06/10(水) (五十嵐太郎)