artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

没後50年・三島由紀夫へのオマージュ展 人形作家・写真家 石塚公昭「椿説 男の死」

会期:2020/05/07~2020/06/07(会期延長)

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

石塚公昭は人形作家として活動しながら、写真作品を発表している。自作の人形を背景となる風景に嵌め込んだり、合成したりして、彼自身の文学的イマジネーションから発想した場面を構築していく。このところ、日本画や浮世絵を思わせる「影のない画像」を手漉き和紙にプリントしたシリーズを集中して制作してきた。今回のふげん社での個展では、没後50年ということで、三島由紀夫をテーマにした作品をまとめて発表した。

三島由紀夫は1970年に自死する前に、死の場面を自ら演じて篠山紀信に撮影させていた。それらは『男の死』と題して薔薇十字社から刊行予定だったが、『血と薔薇』に発表した《聖セバスチャンの殉教》など数点を除いては、結局未刊のままに終わった。今回の石塚の「椿説 男の死」は、その三島の意思を石塚なりに受け継ごうとした試みに思える。『からっ風野郎』、『黒蜥蜴』、『昭和残俠伝・唐獅子牡丹』など、三島のオブセッションを石塚なりに味つけ、膨らませて、画面の細部にまで気を配って構成している。新作の、三島が死の前年に演出した『椿説弓張月』に登場する武藤太を聖セバスチャンになぞらえた作品など、むしろ三島の発想をさらに拡張する試みもある。石塚がこれまで20年以上にわたって手がけてきた「作家・文士」シリーズの集大成といえる展示だった。

石塚によれば、既存の作家や画家だけでなく、肖像画や写真が残っていない架空の人物にまでテーマを広げていく構想もあるようだ。中国唐代の奇僧「寒山拾得」をもとに制作するとも話していた。それも面白いのではないだろうか。より自由にイマジネーションを広げていくことで、彼のユニークな作品世界が次の段階に進んでいくのではないかという予感がある。

関連レビュー

石塚公昭「ピクトリアリズム展Ⅲ」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年06月15日号)

深川の人形作家 石塚公昭の世界|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年06月15日号)

石塚公昭「ピクトリアリズムII」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年06月15日号)

2020/05/09(土)(飯沢耕太郎)

日本初期写真史 関東編 幕末明治を撮る

会期:2020/03/03~2020/05/24

東京都写真美術館 3階展示室[東京都]

新型コロナウイルス感染症の拡大によって、多くのギャラリー、美術館での展示が休止になっている。本展も、現時点では再開のめどが立っていない(*本稿執筆後、2020/12/1〜2021/1/24に会期を変更して開催することが発表された)。いくつかの展覧会では、実際に展示を観ることができない観客のために、オンラインによるライブ映像を配信し始めた。本展でも、学芸員の三井圭司による展示解説を東京都写真美術館のホームページから見ることができるので、それをもとにしてその内容を紹介したい。

東京都写真美術館では、2007年の「夜明け前 知られざる日本写真開拓史 関東編」を皮切りに日本の初期写真を展示する連続展を開催してきた。2017年にその「総集編」展が開催され、同企画は一応完結するが、その後も調査が進められ、今回の「日本初期写真史 関東編 幕末明治を撮る」の開催に至った。

三章構成で、第一章「初期写真抄史」では、ヨーロッパで発明されたダゲレオタイプ、カロタイプ、湿板写真の日本への移入の過程、遣欧使節団団員たちのポートレート撮影などが辿られる。昨年の水害で大きな被害を受けた川崎市市民ミュージアム所蔵の、1851~52年頃にハーベイ・ロバート・マークスがサンフランシスコで撮影した漂流船員のポートレート(日本人が写された最初の写真)が、無事展示できたのはとてもよかった。

第二章「関東の写真家」では、風景・風俗写真を手彩色のアルバム仕立てにした「横浜写真」をはじめとして、明治以降の関東一円での写真普及の状況について概観する。第三章「初期写真に見る関東」は、主に明治期以降の写真を扱うが、その目玉になるのは、オーストリア人写真家、ライムント・フォン・シュティルフリートが横須賀製鉄所(造船所)を視察に訪れた明治天皇一行を隠し撮りした《天皇陛下と御一行》(1872)である。1873年の公式撮影前に天皇を撮影した貴重な記録写真だが、オーストリア公使によって頒布を差し止められたので、写真印画はほとんど残っていない。明治大学図書館所蔵のこの写真の実物を見ることができる機会がなくなったのは、とても残念だ。

全体的に、日本の写真の発祥の地となる関東地方を舞台にした写真術の広がりを丁寧に追跡し、貴重な写真とテキストで跡づけた充実した内容の展覧会になっている。三井圭司のライブ配信による解説もよくまとまっているが、やはり写真に近づいてじっくりと細部を見たいという気持ちが強くなってしまう。ライブ配信では、もう少し作品そのものを見せる時間を、長くとったほうがいいのではないだろうか。

関連レビュー

総合開館20周年記念 夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史 総集編|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2017年06月01日号)

総合開館20周年記念 夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史 総集編|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年04月15日号)

夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史 四国・九州・沖縄編|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2011年04月15日号)

夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史II 中部・近畿・中国地方編|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2009年04月15日号)

2020/04/30(木)(飯沢耕太郎)

Emergency Call

会期:2020/04/30~緊急事態宣言解除まで

美術家の大岩雄典が企画した、「電話で聴く」という異色の展覧会。展覧会ウェブサイトに記載された番号に電話をかけ、計45分25秒の「展示」を鑑賞することができる。会期は4月30日から、日本国内の緊急事態宣言が解除されるまで。参加者は、大岩をはじめ、アーティスト、音楽家、歌人や俳人、SF作家、建築家、そしてラジオ体操第一が流れるなどバラエティに富んでいる。

本展の意義は、展示発表の場の代替案だけにとどまらない。コロナ禍を受けて支援金やDVなど各種緊急支援・相談の電話窓口が開設されている状況下で、「アートもまた、緊急時に(こそ)必要とされている」というメッセージ自体を発することに、まずもってその意義がある。また、電話番号の下に記載された「自分が安全だと思う時間・場所でお電話ください」という文言は、「これは『本当の』緊急コール先ではないですよ」というジョークの反面、「今、『安全』な場所はどこにあるのだろうか?『安全』とは何を指すのだろうか?」というシニカルな問いを発する。

「参加作家自身が電話に直接出るわけではない」とわかっていても、電話をかける際に緊張感が走る。通話がつながると冒頭の自動音声案内に続き、ウェブサイトの記載順にそれぞれの「作品」が流れる。ノイズや音楽、時事性を盛り込んだ詩歌の朗読。ラジオ放送のDJ風の「お便り紹介」、ラジオ体操第一、戦前のラジオ英語講座を「再現」した3作品は、電話よりも「ラジオを聴く体験」に近い。肉声もあれば、人工音声もあり、SFのショートストーリーでは、「惑星統合管理委員会」から地球人類に向けて発せられる、「言語の執行権限を強制的に剥奪する」という警告が、「宇宙からの電波」という体裁で人工音声によって語られる。一方、「もしもし?」で始まり、「親しい相手への電話」の体裁をとった親密な語りもある。肉声/人工音声に加え、ラジオ放送/(未知の存在からの)電波の受信/(親しい人への)電話というように、公共性/親密性の振れ幅と、「『声』を聴く、『声』で聴く」さまざまなシチュエーションが提示される。

最も切実さを持つのが、イタリア在住の俳優、大道寺梨乃からの「電話」である。今これを話している4月中旬、一ヵ月以上家にいること。幼い娘と散歩はしていたが、家から出たくなくなり、「外国人で小さな娘の母親」としてふるまうことの期待に疲れたという心境。イタリア人の夫の家族の感染や居住区の封鎖。「電話」に割り込む娘の声がリアルだ。「近しい人にメッセージを送りたい」という彼女の声と、電話というメディアが内包する「遠さ・距離」の乖離が露わに迫ってくる。


また、本展は、内容面とは別に、「展覧会の構造設計」を通して、鑑賞行為を「拘束性と不自由さ」から捉え直す視座を開く。「オンライン上で(聴きたい)作品を(好きな順で)クリックして聴く」手軽で消費的な体験とは異なり、あえてアナログな電話回線を用意したこと(そのアナログ感は、「ラジオ性」の高い作品によってより増大する。「ラジオ」もまた、災害時・緊急時と親和性が高いメディアだ)。「電話で聴く」鑑賞体験は、リニア・単線的であり、(「つまらない」と思っても)スキップや一旦停止ができず、一度電話を切ると、もう一回かけ直して最初から聴く必要がある。鑑賞者は、「45分25秒」というそれなりに長い時間の束縛と、ひたすら傾聴する受動的態度に徹することを強いられる。それは、「長い映像作品を途中で飛ばす」といった(とりわけ映像展や国際展では常態化した)振る舞いを反省的に自覚させ、消費的態度に異議を唱えつつ、「展示装置」が有するある種の強制力や拘束性についても自己言及的に開示している。

[編集部注] ラジオ体操第一の部分は5月11日に取り下げられ、再構成されている。


公式サイト: https://euskeoiwa.com/2020emergencycall/

2020/04/30(木)(高嶋慈)

隔離式濃厚接触室

会期:2020/04/30~無期限に延長

「1人ずつしかアクセスできないウェブページ」を会場とするオンライン展覧会。会期は、「4月30日の24時間」限定(ただし、いったん「会期終了」後、「無期限」に変更されている)。本展では、企画者であるアーティストの布施琳太郎と、詩人の水沢なおの作品が展示されている。

美術でも舞台芸術でも、コロナ禍で発表の場が奪われたことの代替手段として「オンライン公開」「バーチャルツアー」「無観客での配信」「Zoomを活用した演劇」などさまざまな試みが行われている。本企画がそれらと一線を画する点は、「オンライン=アクセスの平等性とシェアの思想」を無批判に是とする態度に対する批評的距離である。他人との「濃厚接触」を避け、「ソーシャルディスタンス」を適切に保つため、ひとりずつなどの「入場制限」が課される。そうした現実空間における物理的制約を、「アクセスの平等性が保証されている」はずのオンライン空間に戦略的に持ち込み、反転させること。そこでは、私の「鑑賞の自由」は、見知らぬ誰かの「排除」「鑑賞の不自由」と表裏一体である。あるいは、私の「鑑賞の自由」を阻害する入室者がいても、互いに匿名的存在であり、「排除された誰か」の姿もその数もうかがい知ることはできない。制約と不可視性に根ざした本展の意義は、「社会的隔離」を「ネットによるつながり」によって回復し癒すのではなく、むしろ「分断」を生むという屈折した回路によって「ネットと公共性」の議論を喚起しつつ、「(無数の)他者の排除によって成り立つ自由」という倫理的課題を突きつける点にある。

筆者は4月30日、会場URLを何十回とクリックしてアクセスを試みたが、その都度「他の鑑賞者が展覧会を鑑賞しているため、アクセスできませんでした」というエラーメッセージが表示され、見られなかった。だが、「見られなかった」こともまた、本展のコンセプトに鑑みると、それもまたひとつの鑑賞体験と言えるのではないか。ここで比較対象として想起されるのは、福島第一原子力発電所事故による帰還困難区域内で、2015年3月11日から開催されている「Don't Follow the Wind」展である。現実空間/オンラインという差異はあるものの、放射能汚染/コロナ禍という外的要因によって、「展覧会」の鑑賞のあり方そのものが変容を被ること。物理的制限を課されつつ、想像のなかで体験すること。そこには、「展示内容」だけでなく、「実際にアクセスできた鑑賞者とできなかった鑑賞者とのあいだに生まれる分断」「共有の不可能性」、そして「私の占有と引き換えに排除された(無数の、不可視の)他者について想像すること」も含まれている。

(追記:会期が「無期限」に延長後の5月3日に、アクセス成功。詳述は控えるが、「オンライン=共有」を徹底して拒む仕掛けにより、「鑑賞体験の一回性・個別性」「隔離と監視」についての問いが、凍結した世界とともに展開[転回]する。死にうっかり触れたような感触を、水沢の詩が、対極の性殖へとじっとり湿らせていく)


公式サイト:https://rintarofuse.com/covid19.html

2020/04/30(木)(高嶋慈)

石場文子「zip_sign and still lifes(記号と静物)」

会期:2020/04/10~2020/04/19

Gallery PARC[京都府]

一見ありふれた生活空間のスナップだが、わずかな空間の歪みのような違和感がよぎる。画面を凝視するうちに、玄関ドアに無造作に立てかけられたビニール傘、キッチンに並ぶペットボトルや缶、床を這う電源コード、植木鉢の「ライン」が、周囲から自らを不自然に切り離すように浮かび上がってくる。石場文子の写真作品「2と3のあいだ」「2と3、もしくはそれ以外」のシリーズは、ある特定の視点から見たときに「輪郭線」が成立するように、黒く塗りつぶした線を被写体に施し、撮影したものである。写真が「二次元への圧縮・置換装置」であることに着目し、現実空間への介入を通して錯視を仕掛ける手法は、例えば、廃墟や取り壊し予定の建築空間に彩色を施し、ある一点から見たときに幾何学的イメージとして成立させるジョルジュ・ルースの写真作品を連想させる。建築物という大がかりなスケールのルースと対照的に、石場の作品は、生活用品が散らばる日常空間や室内の静物を被写体とし、より個人的で親密的だ。



[撮影:麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]


また、新作では、テーブルに敷かれた布や皿の上に果物が配置された、「静物画」風の画面構成がなされている。「輪郭線」で区切られた果物やポットは、原色のカラーパネルの背景のフラットな効果とも相まって、平面的に見え、より「絵画」に接近し、「絵画」と「写真」の境界を攪乱させる。それは、写真が内包する「一点透視的視点の強化」を示すと同時に、画像編集ソフトを用いた写真の加工作業を思わせ、「二次元の画像に取り囲まれた視覚状況」についても示唆する。



[撮影:麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]



なお、会場のGallery PARCは、新型コロナウィルスの影響による状況変化が数年に及ぶものとの見通しから、5月以降に予定していたすべての展覧会の中止、現会場の閉鎖、事務所機能の移転を発表した。今後は、アーティストとの協働によるオンラインコンテンツ作成、webショップの整備、過去の展覧会資料の整理、外部での展覧会企画、運営母体の企業のパッケージデザインへのアーティスト起用などの活動やサポートに取り組みながら、展覧会活動の再開を目指すという。ギャラリー開設から約10年、現会場に移転して約2年半あまり。ビルの2階から4階にまたがった階層構造を活かした展示やパフォーマンスの試みも生まれていただけに惜しまれるが、サポート活動の継続と将来的な展示再開を待ちたい。

2020/04/10(金)(高嶋慈)