artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

東海道 西野壮平 展

会期:2020/04/01~2020/04/07

日本橋三越本店 本館6階 コンテンポラリーギャラリー[東京都]

西野壮平は、さまざまな場所に足を運んで撮影した大量の写真を、切り貼りしてモザイク状にコラージュし、風景を再構築する作品を制作し続けている。その彼の新作は、2017年の冬に、東京から京都までの「東海道」約492キロを、1カ月かけて徒歩で旅して撮影した写真で構成されていた。西野は写真家として本格的にデビューする前の2004年に、故郷の兵庫県から東京まで歩いたことがある。今回の「東海道」はそのルートを逆に辿るもので、彼にとっては写真家としての原点を確認するという意味を持つものだったのではないだろうか。

彼が最終的に発表の形態として選んだのは、約4万カットからセレクトしてコラージュしたというオリジナル写真作品を、カラー・コロタイプ(制作:便利堂)で印刷・複製し、全長34メートルという巻物状にして見せることだった。そのほかに、壁面には部分的に切り取った19点のフレーム入り作品も展示されていた。

これは、西野の作品を見るときにいつも感じることだが、細部に目を凝らせば凝らすほど、さまざまな場面がひしめくように錯綜し、迷宮を彷徨っているような気分になってくる。そこに写っているのは、たしかにリアルで日常的な光景の集積なのだが、全体として見ると、魔術的としか言いようのない非現実感が生じてくるのだ。特に今回は、歌川広重の「東海道五十三次」以来、日本人のイメージ回路に刷り込まれている「東海道」がテーマなので、よりその現実感と非現実感の落差が大きいように思えた。カラー・コロタイプの、水彩画のような色味、画質も、うまくはまっていた。これまでの彼の作品は、囲い込まれた都市空間を被写体とすることが多かったのだが、今後はある地点からある地点までの移動のプロセスが、より重要な意味を持ってくるのではないだろうか。

関連レビュー

西野壮平「Action Drawing: Diorama Maps and New Work」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年01月15日号)

西野壮平「Action Drawing: Diorama Maps and New Work」|村田真:artscapeレビュー(2016年01月15日号)

2020/04/02(木)(飯沢耕太郎)

岩崎育英文化財団 岩崎美術館

鹿児島中央駅から1時間半、指宿駅に到着し、そこからタクシーで約5分。いわさきホテルの敷地内に槇文彦が設計した《岩崎美術館》がある。筆者が大学三年生のとき、槇先生が設計演習を担当していたことから、この美術館の存在は30年以上前から知っていた。このたび、ようやく初めて現地を訪問することができた。結論から言うと、個人的に槇の建築の中でもベスト級の空間だと思うくらい、素晴らしい。さすがに打ち放しコンクリートの外観は汚れが目立つようになったが、その奥に展開する内部の空間と細部のデザインがきわめて洗練されている。



《岩崎美術館》の外観

美術館(1978)と対面させず、少し離しながら、角度を振って配置された工芸館(1987)は、地下の通路からアクセスするシークエンスとなっている。増築によるヴォリューム増大でプロポーションが崩れることを避け、田園のヴィラという原イメージに従った、もうひとつの独立した建築としての工芸館をつくったのだ。いずれもモダニズムをベースとした形態言語を用いているが、設計した時期の違いも反映されているのが興味深い。



工芸館の外観

《岩崎美術館》の内部に入ってまず感じたのは、いわゆるホワイトキューブの空間ではなく、超豪邸の室内に作品を展示したかのような雰囲気だった。もっとも、古典主義のヴィラではなく、モダニズムによる邸宅のイメージである。洋画や郷土の作家のコレクションもなかなか充実しており、建築家の椅子もあちこちに展示されていた。美術館の空間は、奥に進むに従い、段々とレヴェルが上がり、さらに途中から横に空間が広がっていく。



美術館内部の階段


美術館の展示風景

一方、工芸館は、地下から登って入ることもあるが、縦に伸びる空間になっており、現代アートのインスタレーションに近いサイズをもつ大型の民族美術の展示に合わせている。また旋回する階段を通じて、二階の展示室に入ると、西洋から里帰りした古薩摩や有田の陶磁器などがあり、最後は展望を楽しむことができる。興味深いのは、工芸館はカルロ・スカルパ風の繊細なディテールが入り、濃密で複雑な空間が生まれていること。なお、滞在中はたまに宿泊客が訪れていたが、ほとんどの時間は貸切状態で、同館の創設者である岩崎與八郎のプライヴェート・コレクションを鑑賞していた。



工芸館内部の階段


工芸館の展示風景

公式サイト:岩崎育英文化財団 岩崎美術館 http://www.iwm.org.uk/north/

2020/03/31(火)(五十嵐太郎)

芳木麻里絵「fond de robe ─内にある装飾─」

会期:2020/02/07~2020/03/28

ワコールスタディホール京都 ギャラリー[京都府]

「光の繊細な陰影」や「触覚性を喚起する質感をもつ表層」に着目し、モチーフの表面をスキャンまたは接写して得た画像を元に、アクリル板の上にシルクスクリーンの技法を用いてインクの層を数百回刷り重ねることで、イメージを「インクの積層」として再物質化する芳木麻里絵。その作品は、2次元と3次元、イメージと物質、表面と奥行きといった二項対立を攪乱的に往還しながら、「版」と複製・再現、3Dプリンターによる造形、そしてデジタル化された画像データに日常的に取り囲まれた私たちの知覚環境について問いかける。

芳木はこれまで、光の陰影や透過性、襞がもたらす2次元性と3次元性の共存といった点から、「レース」を主要なモチーフのひとつとして制作してきた。下着メーカーのワコールが運営するギャラリーで開催された本展では、1920年代と現代の「女性の下着」に使用されたレースをモチーフとすることで、これまでの関心を引き継ぎつつ、ジェンダーや社会史との接続によって作品の枠組みがより広がった。



[撮影:表恒匡]

参照されたのは、公益財団法人 京都服飾文化研究財団(KCI)が所蔵する、現代の下着の原型とも言われる1920年代のフランスのブラジャーやスリップと、ワコールの2020年春夏の最新の下着である。第一次世界大戦期に労働力として女性の社会進出が進み、身体を締め付ける窮屈なコルセットに代わってブラジャーやスリップが生み出され、戦後、機械織りによるレースの製造普及や女性の社会的地位の変遷とともに普及していった。100年前の下着も現代の下着も、華やかで繊細なレースの装飾が付されている点では変わらない。一方、100年前の下着は、(財団の所蔵資料ということもあり)表面に直接接触して文字どおり引き剥がすようなスキャニングではなく、接写による浅い被写界深度によってピントのボケを伴った画像に置換されている。そこに、現代の下着の源流という「近くて遠い」対象にどう接近するのかという眼差しを重ね合わせることもできる。



[photo: YOSHIKI Marie]

「外からは見えない」存在であるのに「装飾」が付されている下着の両義性はまた、「ファッションの一部として楽しむ」という女性自身の歓びの能動的側面と、「なぜ美や装飾性が求められているのか」という問いの双方と関連する。下着は、「服の土台(fond de robe)」として身体を支えつつ、「第二の皮膚」としての衣服とさらに皮膚の表面とのあいだの親密な領域で、自他の欲望が入り混じった複雑な領域を形成している。

(ヘテロセクシュアルの)男性作家が「女性の下着」をモチーフや被写体に取り上げた場合、「性的に眺める視線」を完全に排除することは難しいだろう。(ヘテロ)男性にとって「女性の下着」は、オブジェとして客体化された性的な視線の対象だが、日常的に身につける女性にとっては(上述のような複雑な欲望の領域を形成しながら)皮膚の表面に触れる、触覚性を伴ったものだ。ここで、2次元化された画像をインクの層の物理的堆積として3次元化して再出力する芳木の制作プロセスにおける問題意識を、よりジェンダー的な解釈へと開くことも可能だろう。「(性的な)眼差しの対象」として皮膚から引き剥がされたものを、触覚性を帯びたものとして取り戻す。そこで、インクの層が帯びる歪みや不連続な断層は、「自然」で「完全」な物質としての回復ではなく、他者によって一度異物化されたことの痕跡を宿すものとして立ち上がるのだ。



[photo: YOSHIKI Marie]


本展では、「1920年代のフランスの女性下着」が参照されていたが、日本の場合、「コルセット=規範的な美と身体の矯正からの解放」ではなく、「和装から洋装へ」という別の文脈が関わってくる。デジタル画像、イメージと知覚、シルクスクリーンという版画メディアへの自己言及性をキーワードに制作してきた芳木にとって、本展は、転機と新たな展開の第一歩となるだろう。

関連レビュー

芳木麻里絵「触知の重さ Living room 」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年02月15日号)

2020/03/28(土)(高嶋慈)

ネオ・ダダの痕跡

会期:2020/03/18~2020/04/04

ギャラリー58[東京都]

1960年に結成され、わずか半年ほどで解体した前衛芸術集団ネオ・ダダの、結成および解散60年を記念した展覧会。出品は元メンバーの赤瀬川原平、風倉匠、篠原有司男、田中信太郎、吉野辰海の5人。昨年田中が亡くなったので、現役はギューちゃんこと篠原と吉野の2人となった(その数日後、メンバーではないが彼らと親交の深かった秋山祐徳太子の訃報が届いた)。

出品作品はネオ・ダダ時代のものではなく、1970年に出たウィルヘルム・ライヒの『きけ 小人物よ!』(太平出版社)の挿絵として描いた赤瀬川のペン画から、ニューヨーク在住のギューちゃんがこの春に制作した最新作まで、素材もサイズも制作年もバラバラ。そこがネオ・ダダらしいけど。なかでも目立つのが、パリ旅行の思い出を描いたギューちゃんの大作ペインティング《パリだぜ! 牛ちゃん─親友、木下新に捧げる》だ。パリへはこの1月、ルーヴル美術館の「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」を見るために訪れたそうで、巨大画面にはルーヴルのピラミッドやサンジェルマンで食事する夫妻などが描かれているらしいが、なにがなんだかさっぱりわからない。画廊の人がギューちゃんに図解してもらったそうだが、そのスケッチを見ても、ピラミッドらしきものは認められたものの、後はさっぱり。でも色彩とタッチは以前にも増して激しい。

今年米寿を迎えるギューちゃんは、メンバーのなかでも最年長だが、元気いっぱいで毎日ニューヨークから電話をかけてくる、という話を画廊の人がしていたら、本当にかかってきた。なりゆきでぼくもお話しさせてもらったが、声に張りがあってトシを感じさせず、驚いた。いま新型コロナウイルスでニューヨークもパリも大変な騒ぎで、ルーヴルも閉鎖され、飛行機にも乗れないから、1月に行っといてよかったという話だった。ギューちゃん、コロナに気をつければ100歳までいけそう。

2020/03/28(土)(村田真)

VOCA展2020 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─

会期:2020/03/12~2020/03/30

上野の森美術館[東京都]

上野の美術館や博物館が2月末から次々と休館するなか、なんとか開催にこぎつけた「VOCA展」だが、最後の週末はやむをえず休館するというので、あわてて最終日に駆けつけた。同じような駆け込み組が多数いて入場制限されるんじゃないかと思ったが、やっぱりそんなことはなく空いてた。安心したけど、ちょっと寂しくもある。

今年のVOCA賞は、何百枚も重ねた写真を彫って作品にしたNerhol。田中義久と飯田竜太の二人のアーティストによるユニットで、ひとりがアイディアを練り、もうひとりが彫るから「ネルホル」と読むそうだ。同一写真ではなく連続写真を重ねて彫っていくため、部分的に時間の推移が読み取れる。いわば4次元の世界における写真ともいえるが、べつに錯視的なおもしろさを追求しているわけではなく、積層した時間を即物的に掘り起こしていくことで、イメージと物質の対比を際立たせようとしているようにみえる。確かにサブタイトルに謳われているように、「新しい平面の作家たち」ではある。

奨励賞は菅美花と李晶玉で、彼女たちも写真を用いた作品で受賞している。菅のほうは二人の女性が左右対称に並んだダブルポートレート。よく見ると二人は同一人物(作者自身)で、片方はホンモノ、片方は精密な人形だそうだ。修整が施されているので、どっちがどっちかほとんど見分けがつかない。ドッペルゲンガー、いやクローンというべきか。いまのデジタル技術を使えば、わざわざ人形をつくらなくてもできるはずだが、あえて人形にして並んで撮るところに菅の狙いがあるのだろう。でも修整をどんどん加えると、どちらも等しくヴァーチャルな存在に近づいていく。

李の作品は、巨大な競技場を前にひとりの女性がたたずみ、背後に赤い太陽が浮かぶ図。女性が着ている白い服は、1936年のベルリン・オリンピックに出場し、マラソンンの日本代表として金メダルを穫ったソン・ギジョン(孫基禎)の体操服だそうだ。背後の競技場はてっきり新国立競技場かと思ったら、ベルリンのオリンピアシュタディオンだという。さまざまな政治的意図を含んだ作品。

あと気になったものを2、3点。佳作賞の黒宮菜菜は、草花や雪が舞い散るような一見にぎやかな画面だが、よく見るとその奥に人物像が浮かび上がる。油彩にアクリル、さらにシルクスクリーンも併用し、重層的なイメージをつくり出すことに成功している。高山夏希はパネルに糸をびっしりと水平に張り、上から絵具を盛り上げた作品。一見、絵具がぐちゃぐちゃに混ざり合って汚らしく見えるけど、これが自然の風景を描いたものだとわかると、にわかに美しく感じられ、崇高ささえ漂ってくるから不思議だ。

今回いちばん感心したのは水木塁の作品。紙ヤスリのようなザラザラした画面に白い絵具が塗られ、上から記号のようなものが印されている。画面は紙ヤスリではなくスケボーの表面に使う素材で、絵具は道路用の塗料、記号は工事関係者が使う符号だそうだ。つまりこれ、道路に描いたストリート絵画をはがして垂直に立てたようなもの、ともいえるが、推薦者の遠藤水城氏によれば「絵画の道路化」だという。これは納得。

2020/03/27(金)(村田真)

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