artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
野村浩展 Merandi
会期:2020/02/22~2020/04/04
POETIC SCAPE[東京都]
野村浩は写真を中心に、さまざまなメディアを横断的に取り込みながら創作活動を続けているアーティストである。2019年に第31回写真の会賞を受賞するなど、このところその活動ぶりに弾みがついている。今回、東京・目黒のPOETIC SCAPEで展示された「Merandi」シリーズも、いかにも彼らしいひねりが効いた作品だった。
野村は2007年に『EYES』(赤々舎)と題する写真集を刊行している。丸くてちょっと猫っぽい「目玉」が、いろいろな日常的な場面で、オブジェに貼り付いて出現してくる様を撮影したものだ。「Merandi」もその延長線上にあるシリーズで、今回「目玉」たちは、なんとイタリアの静物画の巨匠ジョルジョ・モランディの絵の中に嵌め込まれている。といっても、もちろんフェイクで、モランディっぽい色彩とタッチで描かれた小さな油彩画(野村自身の筆によるもの)の中から、こちらを見つめているのだ。「目玉」がそこにあるだけで、どこか落ち着かない気分になるのだが、その心理的効果は計算済みで、「Morandi」と「Merandi」の語呂合わせもうまくはまっていた。ほかに、銅版画や写真による試作もあり、野村の本気度がうかがえるいい展示だった。野村の個展は、毎回楽しみに見に行くのだが、期待が裏切られることはほとんどない。作家としての自信に裏打ちされた実力が備わってきているのではないだろうか。
なお、展覧会カタログ風に編集されたミニ画集『Merandi』(私家版)も同時に刊行されている。土屋誠一の解説付きの、なかなかしっかりとした造りの作品集である。
関連レビュー
野村浩「もう一人の娘には、手と足の仕草に特徴がある。」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年11月15日号)
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野村浩「ヱキスドラ ララララ・・・」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2013年07月15日号)
2020/02/27(木)(飯沢耕太郎)
コレクション展 越境者たち—BEYOND THE BORDERS
会期:2020/02/15~2020/03/22
目黒区美術館[東京都]
美術館のコレクション展だが、「越境者たち-BEYOND THE BORDERS」というテーマの下、日本画と西洋画の境を超えた画家たちの作品を特集している。出品は、屏風や絹本、扇面などに油彩で日本の風物をリアルに描いた川村清雄から、戦後日本画に前衛表現を採り入れたパンリアルの画家たち、そして現代美術から日本画に接近した諏訪直樹まで、40点余り(それとは別に「山下新太郎のファミリーポートレート」も同時開催)。
川村清雄にも興味はあったが、2日前に三重県の「諏訪直樹展」に行ってきたので、そこに出ていなかった《無限連鎖する絵画》を見たくなって訪れたのだ。この作品は1988年から亡くなる1990年まで描き継がれた計50点におよぶ大連作。1年ごとに「Part1」から「Part3」に分かれ、目黒区が所蔵しているのは「Part2」の17点だ。いま50点とか17点と言ったが、物理的に画面が分かれているだけで絵柄はすべてつながっているので、全体で1枚の絵とも言える。原則的に終わりはないが、作者が死ねば「未完のまま完結」するという矛盾した存在なのだ。形式的には、時間軸に沿って横に(左右は逆だが)展開していく点で絵巻に似ているし、物理的には屏風絵や襖絵に近い。いずれにせよ前代未聞の絵画であることに間違いない。
「Part2」は1989年に描かれた部分で、画面にはまず鋭角の三角形や菱形が現われ、その内外に金や緑青、群青などの絵具が荒々しいタッチで塗布されている。やがて扇形、菱形格子が現われ、色彩や形態が重なって複雑なパターンを形成していく。絵具の撥ねや滴りは絶妙で、作者は自らのタッチに酔っているようにさえ思える。諏訪はこれを描くとき、どの程度先まで構想していたのだろう。あまり先まで決めていたら連鎖させる意味がないし、かといって1点1点場当たり的に描いていたとも思えない。日々の移ろいや季節による変化も反映されているのだろうか。フォーマットを決め、死ぬまで続けるという点では、河原温の「Today」シリーズに近いかもしれない。
2020/02/26(水)(村田真)
尾崎森平「1942020」
会期:2020/02/18~2020/03/01
ギャラリー ターンアラウンド[宮城県]
仙台の現代美術のギャラリーにて尾崎森平の個展が開催され、トークのゲストとして招かれた。彼は、真っ青の空とクリーム色の地面を背景に「今春オープン」というイオンの看板が立つ《Mirage》や、遠景に山が見える広大な空き地に不動産の宣伝看板が立つ《売り地》など、地方のフラットな風景を簡略化、ならびにやや抽象化しつつ、カラフルな配色で作品を制作している。さて、今回の展覧会のタイトル「1942020」は、イタリアで中止になった1942年のローマ万博の都市EURと、東京2020オリンピックの年号を合体させたものだ。注目すべきは、ムッソリーニが推進したファシズム期のイタリア合理主義の建築をモチーフとしていること。すなわち、尾崎の作品において、現在はフェンディの本社になっているイタリア文明宮(この建物は第12回恵比寿映像祭[2020]において、ローマ・オリンピック1960で活躍したアベベ・ビキラをテーマとしたニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニの作品でも使われていた)がラブホテルに、あるいはアダルベルト・リベラが設計した会議場は浴場やセレモニーホールに変容している。ほかに列柱(!)があるコンビニ、ムッソリーニが糾弾されたシーンを重ねあわせた洗車場なども展示されていた。
もっとも、本来、EURの街区は人が歩くスケールを超え、ファシズム建築もメガロマニアックな傾向をもち、基本的に巨大であるのだが、尾崎が平坦な日本の地方の風景に溶け込ませると、必然的にサイズを縮小せざるをえない(本人はイタリアを訪れたことがないという)。その変容プロセスは、ゴシック様式のウェディングチャペルとも似て、いかにも日本らしい。モダニズムと古典主義を調停した合理主義の建築が、全然違う文脈に放り込まれることで、少し違和感を残しつつも、意外に地方でありそうなキッチュな建築になっているのが興味深い。尾崎は「表現の不自由展」のように、はっきりと政治的なメッセージを出しているわけではないが、日常に浸透するファシズムを読みとることも可能だろう。一方でそれを簡単に批判するのではなく、ファシズム建築に魅せられるわれわれをも示唆しているかのようだ。
2020/02/25(火)(五十嵐太郎)
没後30年 諏訪直樹展
会期:2020/02/01~2020/04/05
三重県立美術館[三重県]
津市の三重県立美術館へ。新型コロナウイルスのせいか、祝日なのに観客はぼくを除いて2、3人しかいない。これはゆっくり見られるぞ。諏訪直樹は1970年代後半から80年代にかけて独自の絵画を追求し、1990年に36歳の若さで不慮の死を遂げた画家。同展は没後30年を記念して館のコレクションを公開するもの。
諏訪は1980年以降、伝統的な日本絵画の形式を採り入れた独特の絵画を発表して注目されたが、今回はそれ以前の1970年代後半の初期作品がおよそ半数を占めており、当時の時代状況も浮かび上がってくる。70年代というと、表現を極度に抑制するミニマリズム、コンセプチュアリズムが美術シーンを支配し、「絵画」「彫刻」は死んだといわれ、「平面」「立体」に言い換えられていた時代。若い作家たちはこうした閉塞状況を脱して新たな表現を獲得するため、普遍的な幾何学的構成から始めたり、矩形のキャンバスを放棄したり、抽象表現主義に立ち戻ったり、日本の伝統形式に着目したり、試行錯誤を繰り返していた。まだ20代前半だった諏訪は、貪欲にもこれらすべてを試みた。
《IN・CIRCLE NO.1》は、7枚の画面を垂直に分割して点描で彩色した連作で、分割の比率も色彩の配置も厳密なシステムに則っていることがわかる。これらを横にぴったり並べて遠くから眺めると、個々の画面を超えて別のパターンが浮かび上がってくる仕掛け。個で完結せず全体でひとつの作品に見せるのは、のちの《無限連鎖する絵画》にもつながる発想だ。諏訪はさらに黄金分割を使って画面を縦横に組み合わせたり、斜めにカットしたりするシェイプトキャンバスのシリーズ「The Alpha and the Omega」を発表。アルファとオメガはギリシャ文字の最初と最後で「永遠」を意味し、これも《無限連鎖する絵画》を予感させる。ここまでが初期作品だ。このように数字や幾何学などの外的システムに頼るのは、諏訪に限らず、内発的表現が困難だった当時としては、「美術」「絵画」を再起動するために必要とされた方便だったのだ。
そして1980年、その後の諏訪の方向性を決定づける「波濤図」シリーズを始める。これは画面を屏風のように折り曲げ、荒々しいタッチで(しかし幾何学的パターンに沿って)伝統的モチーフである波濤を描いたもの。これを懐古的な日本回帰と見る向きもあるが、そうではなく、日本絵画の形式に当時流行の兆しを見せていた新表現主義のエッセンスを採り入れた、ハイブリッドな現代絵画と見るべきだろう。同展では、衝立状の「日月山水」シリーズ、掛軸の形式を借りた「PH」シリーズ、屏風仕立ての「八景残照」へと展開していく過程が見て取れる。絵の内容も初期のように分割した画面に均質に色彩を置くのではなく、幾何学的形態のせめぎあう空間に奔放にストロークを走らせている。このあと諏訪は死ぬまで終わることのない、従って遺作となった《無限連鎖する絵画》に着手することになるのだが、この3部からなる超大作が単なる思いつきなどではなく、初期作品にすでに胚胎していたことは前述のとおりだ。
いま見てきた作品は《無限連鎖する絵画》を除き、すべて三重県立美術館のコレクションに収まっている。それは諏訪が四日市出身の、いわば地元作家だからだが、なぜか最重要の《無限連鎖する絵画》の3部作だけは宇都宮美術館、目黒区美術館、千葉市美術館に分散している。これらをまとめて見られないのは残念だけど、もしすべてが1館に集中していたら地域の人以外はあまり訪れず、それこそ地元作家の1人として埋もれてしまいかねない。3館に分散させたのは偶然かもしれないが、ある意味戦略的とも言えるだろう。
2020/02/24(月)(村田真)
岡﨑乾二郎 — 視覚のカイソウ
会期:2019/11/23~2020/02/24
豊田市美術館[愛知県]
津から名古屋をスルーして豊田へ。最終日だから人は多めだろうと思ったけど、こんなに混んでるとは予想外。新型コロナはどうした? そういえば昔、トヨペット・コロナってあったなあ。それはともかく、人出は「諏訪直樹展」と対照的だが、内容もある意味、対照的かもしれない。
岡﨑は諏訪よりひとつ下だが、ほぼ同世代であり、2人ともBゼミに学んだので、美術に対する問題意識も共有していたはず。ただデビューしたのは岡﨑のほうが数年遅く、1980年代に入ってからのこと。めまぐるしく変化した70年代末から80年代初頭にかけての数年の違いはけっこう大きい。デビュー作は「あかさかみつけ」と呼ばれるシリーズで、1階の大きな展示室の壁にぐるりと40点ほど並べられている。あらためて見ると、初めからミニマリズムもコンセプチュアリズムも超えて完成されていたんだと感心した(最初一つひとつ違う作品だと思ったら、よく見ると配色の異なる「あかさかみつけ」と「おかちまち」の2種類だけだった)。
このシリーズ、ポリプロピレンなどのボードにさまざまな切れ目を入れ、折ったりつなぎ合わせたりして彩色したレリーフ状の作品。これは型紙のパターンを参照したともいわれるが、1枚の紙を切ったり折ったりするプリミティブな図画工作に遡る作業とも言え、造形の原点に立ち戻るところから表現を再構築しようとした点で、諏訪の初期と共通するものがある。だが、明らかに岡﨑のほうが自由度が高く、その意外なほどの小ささとも相まって、70年代とはっきり一線を画す軽快さが感じられるのも事実。その意味でこのシリーズは80年代初頭における現代美術の最適解とも言え、これによって岡﨑はニュー・ウェイブの旗手と目されていく。
ちなみに「あかさかみつけ」のサイズは、縦横ともに30センチに収まる程度の大きさ。この日は人が多く、ほぼ目の高さに展示されていたせいか、人間の頭と紛らわしかった。ひょっとしたらこれ、頭じゃね? と、ふと思った。というのも、そのあとに展開していく長ったらしいタイトルの2枚組の絵画が、基本的に人体サイズが多く、そこに描かれるフォルムも内蔵や筋肉を思い出させるからだ。ま、それは勝手な想像だが。
都合により美術館には1時間足らずしか滞在できなかったため、残念ながら2、3階の展示室はゆっくり見られなかった。なので1階の展示室を見る限りだが、やっぱりデビュー作の「あかさかみつけ」が最高傑作で、これを超える作品はないんじゃないかと思った。ここは諏訪と正反対だ。実際「あかさかみつけ」は1981年に初めて発表して以来、40年近く断続的につくられているのだから、これはもう「無限連鎖するレリーフ」と言ってもいいかもしれない。
2020/02/24(月)(村田真)